神は福音する           
                       
ローマ人への手紙第1章1〜4、14〜17節


 今年から、日本バプテスト連盟が発行する『聖書教育』に基づいて、毎週のメッセージをお届けしています。その『聖書教育』は、今日からしばらく 「ローマ人への手紙」を取り上げて行きます。ですから私たちも、使徒パウロが書いたこの「ローマ人への手紙」を通して、私たちが信じている「福音」という ことの内容と、私たちに対するその慰め、励まし、また問いかけと促しを、共に聴き取って行きたいと思います。

 さて、この「ローマ人への手紙」は、一言で言いまして、いわば「パウロの自己紹介、また彼の福音紹介の手紙」なのです。パウロは、なんと『新約聖書』の 約半分くらいの分量を、自分の手紙によって占めています。当時の地中海世界にあった各地の教会に宛てた手紙です。その中で、パウロがまだ行ったことのない 唯一の教会が、このローマの教会だったのです。パウロは、これからローマに行き、ローマの教会の人たちと会いたいと願っていました。それで、この手紙を書 いて、自分パウロとはどういう者であるか、特にこのパウロが信じ、宣べ伝えている「福音」とはどうものか、その「福音」を伝えようとする自分の信仰、使 命、希望というものを、説明し、紹介しようとしたのです。今日の所は、その手紙冒頭の挨拶と、前書きの部分です。パウロは、この挨拶の中で、自分の使命と 願いを、端的に語っています。「わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」彼の願いはただ一つ、この ローマの信徒たちとも、また彼らを通して彼らと共にまだ見ぬ多くの人々とこの「福音」というものを共にし、分かち合い、喜び合うためでした。そのようにし て宣べ伝えられてきた「福音」が、この私たちにとってもまた信仰の内容であり、その核心です。
 では、その「福音」とは、いったい何なのでしょうか、どういうことなのでしょうか。「福音」というのは、もともと中国語から来た言葉だと言われます。だ から漢字で表すわけですね。それを元々の日本語「やまと言葉」と言い表すとどうなるか、それは「よい知らせ」となるのです。「福音」とは「よき知らせ」で ある、ではいったいが何が、どう「よい知らせ」なのでしょうか。

 パウロは、もうこの手紙の本当の初めから、この「福音」の説明を始めてしまっています。長々と儀礼的な挨拶を続けることが、もう待ちきれないかのようで す。自己紹介の「福音の僕」という言葉にひきずられて、その「福音」そのものを早々と説明したくなったのでしょう、「福音とは」という短い注釈を入れてい ます。「この福音は、神が預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものです。」これはとても簡潔で、そして意味深 い「福音」の紹介だと思います。「国語」の問題で、「主語と述語を抜き出せ」というのがありましたが、それをこれに当てはめると、こうなります。「この福 音は、御子に関するものです」。「御子」とは、教会が救い主と信じるイエス・キリストのことです。それをもっと縮めると、「福音とはイエス・キリストで す」ということになります。ですから、あえて言うならば、「福音」とは何かの情報ではありません。「耳寄りな情報があります。これを聞き、これを知れば、 あなたはきっと大きな得をしますよ」、それが伝道なのではないのだということです。そうではなく、「福音」とは人格です。「イエス・キリスト」という人 格、人、方なのです。これを、いやこのお方を、あなたがたに伝えたいのだ。あなたがたに、このお方と出会ってほしいのだ。
 パウロは、この福音、このイエス・キリストというお方を、どう思っているのでしょうか。彼は言います、「わたしは福音を恥としない」。 この言い方に注 意しましょう。なぜ「誇りとする」と言わないで、「恥としない」と否定形で語るのでしょうか。なぜなら、「福音を恥じさせよう」とするもろもろの力が実に 強く働いているからです。特にこの手紙が宛てられたローマの街はそのような力に満ちていました。ローマは当時の世界の中心であり、経済・政治・文化などの 強大な力集中し、それらの力がほとんど全ての人々をとりこにし、縛っていたのです。さしずめ、今の人ならこう言ったことでしょう。「なに、『福音』だっ て?そんなの関係ないね。それより宝くじが当たることの方が、ポイントをもらうことの方が、『良い知らせ』だよ。」そのような人に「福音」を語ることは、 一つの大きな力を必要とします。その力と思いを込めて、パウロはあえて「福音を恥としない」と宣言するのです。

 では改めて、その「福音」とは、何なのでしょうか。「福音」とは何だとパウロは言うのでしょうか。「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじ め、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」「福音」とは「力」、しかも「神の力」だというのです。「人生いろいろ」と申しま すが、「力」にもいろいろです。人は皆何らかの力を求めていると言ってもいいかもしれません。それは、どんな力なのでしょうか。「福音は神の力だ。」「神 の力」、それはどんな「力」にも比べることはできません。この「まことの力」に比べるならば、他の全ての「力」はどんに強くとも「力」ではあり得ません。 この「神の力」が「まことの力」であるのは、それが「救う力」であるからです。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得さ せる神の力である。」これはいったい、どういう「救い」でありどういう「力」なのでしょうか。
 それは、まず「赦す力、結び、和解させる力」です。これに対して、私たちがよく知っているこの世のもろもろの力は、「裁き、切り離す」のです。「裁く」 とは、基準を設け、それによって人や物事を判断し、区別し、切り離し、場合によっては罰や制裁を与えることです。「行政の認定や措置」というのがあるで しょう。身近なところでは、「介護認定」。どんなに「うちの親は本当に大変なのだ、だから認定して必要な支援や介護をしてほしい」とどんなに願っても、 「あなたのところは該当しません、ですから支援はできません」と有無を言わさず言われたら、もうそれを受け入れるしかありません。これが、「裁き、切り離 す」力なのです。ユダヤ社会において、「律法」はまさにそう語っていました。「この律法を守れないあなたがたは失格だ。あなたがたには、神の愛も祝福もな い。」しかし「福音」は語り、神はイエス・キリストによって語るのです、「わたしは何の力もないあなたに向かってわたしの力を、わたしの手を差し伸べる。 あなたを赦し、あなたをわたし自身と結びつけ、和解させる。」そこからこう語られます、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」。この後いくらでも続けるこ とができます。「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、ローマ人にも、マケドニア人にも、アジア人にも、キレネ人にも、そして『野蛮人』と言われている人た ちにも」。そこには何らの差別も分断もありません。全ての人々が、この神と結ばれ、その神の前に等しく呼び集められ、結び合わされているのです。
 「福音」、それはまた「生かし、救う力」です。この世の力、その究極的なあり方は、「殺す力」です。軍事力、軍備というものは、その典型です。突き詰め れば「いざとなったらお前を殺すぞ、亡き者にするぞ」と脅すことによって、相手をけん制し、自分たちを守ろうとしているわけです。もし、神様が同じように 「殺す力」を行使される方だとしたら、どうでしょう。神様が私たちの足りなさを、過ちを、罪を責め立てられるなら、私たちは、神様の前に罰を受け、死ぬほ かないでしょう。しかし神は、私たちを罰し殺すことによってではなく、私たちを赦し生かすことによって、ご自身の「義」「正しさ」を表そうとされ、表され ました。「信仰による義人は生きる」のです。「神の義は福音の中に啓示され」、宗教改革者ルターは最初、この「神の義」という言葉を読んで恐れおののいて いました。なぜなら、神が「ご自分の正しさのゆえに、罪人の罪を責め立てて滅ぼす方」であると思っていたからです。しかし、ある時を境として、彼の歩みは まったく変えられました。「神様は、ただご自分が正しいことだけで満足せず、その神様の正しさを気前よくも罪人に分け与えて、罪人をも赦し正しいものとし 生かすことによって表される」のだと気づかされたからでした。その日から、この「神の義」という言葉は、ルターにうっとりする思いを起こさせるほどのもの となりました。「福音」は、神はイエス・キリストによって私たちを生かし、救うのです。
 そして、「福音」とは「信頼を起こし、信じさせる力」です。私たちの多くの、そして決定的な問題は、「信じられない」ということから来ているのです。 「わたしを創り、愛し、導く神」を信じることができない、またお互い人間同士を信頼することができない。しかし、福音は語ります。「あなたを創り愛する神 が、今あなたに向かって手を差し伸べあなたとご自身を結びつけようとされる。神が、罪人であるあなたを赦し、あなたを生かし、あなたを正しく幸いに生きる 者とされる。この方が確かにおられることを信じなさい。」「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」これは文字通りには「信仰 から信仰へ」ということだそうです。どこまでも神を信じなさい。あなたが一切を、自分自身をすら信じられなくなるときにも、そのところでも神を信じなさ い。そこに、救いがある。福音が、イエス・キリスト御自身が、私たちの中に神を信じる力を呼び起し、お互いの間にも信頼する力を与えてくださるのです。

 「福音する」、変な日本語でしょうか。でも、新約聖書のギリシャ語にはあるのです。福音のことを「エヴァンゲリオン」と言いますが、それをそのまま動詞 にした「エヴァンゲリゾー」という言葉があるのです。「神は福音する」、「神は私たちを結び、生かし、信頼へと至らせてくださる」。ある方は「神の義」と いうのも、同じように「動詞的」に読まなければと言います。「神の義」、「正しい神様が、すべてを正しくしてくださる」、「正しい神が、正しい救いの業を 表し、始められました。神様がすべてを正しく、良くしてくださいます。この憎しみと争いで引き裂かれた世界を、この不正と不公平で悪に染まっている社会 を、罪と孤独と恐れで暗闇の中に沈んでいる一人一人の魂を、正しく、良く、回復して救ってくださいます。」
 神は、そのために具体的・現実的に一人の方をこの世に送られました。それが、あのイエス・キリストです。「『福音』とは何でしょうか。イエス・キリスト が人となられて虐げられた者の友として歩まれ、そして十字架の死と復活を通して神の愛を示されたことです。」(魯孝錬)イエス・キリストは「肉」を取っ て、私たちとまったく同じ人間となり、この世界に来られました。それは、神から離れ、神に背き、それがためにお互いを排除・差別し合い、憎み争い合う、こ の世界の現実と私たち人間の罪をご自身の体・存在そのもの・全生涯をもって受け止め、引き受け、担うためでした。イエス・キリストは私共全ての者のため に、愛をもって生き、私たちの罪を引き受け担い、御自身の全てをささげて十字架にまで至り、死に、勝利をもって復活し、今も生きてこの神の救いのために働 き、進んでおられます。これが「神のよき知らせ」であり、「福音」です。神様がイエス・キリストを通して、新しく私を変えあなたを変えてくださるのです。

 私の友人に鮫島則雄さんという方がおられます。今は佐世保キリスト教会で牧師をされています。この方が以前「ハーベストタイム」というテレビ番組で、 「元パチプロ、今牧師」という題で出演されたことがあります。二十歳から17年間、パチンコで生計を立てるという生活をされていたそうです。「そんな男に も、主イエスさまの不思議な救いの御手が伸びてきたのです。突然大スランプがやってきたので、気分転換に廃屋寸前になっていた我が家の納屋を片付けていた ら、雨漏りで染みの付いたギデオン協会寄贈の新約聖書が出てきたのです。―――(初めてというような大スランプの日の)あくる朝、いつものように旧約聖書 を一章読み、新約聖書を読み始めました。一節、二節と読み、三節を読んだとき、全身をハンマーで殴られたような衝撃が走ったのです。『願っても受けられな いのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです』(ヤコブ4・3 新改訳聖書)他の読者にとっては何気ない聖書の一節でしょうが、私にとりましては、力あるいのちのことばとなって飛び込んできたのです。―――この出来事 で勝負事に対する執着心は見事に消え失せ、教会に行って神さまにお詫びすること以外に生きる道はないとまで追い詰められ、郷里の教会の門を叩いたので す。」まさに、福音はすべての人に救いを得させる神の力なのです。「神は福音する」、イエス・キリストにおいて、神は私たちに来たり、私たちを赦し、生か し、救ってくださいます。私たちはこの神に「信仰」をもって答えるのです。この神の語りかけを聞き、神の働きかけを受け入れ、神の導きに従って歩み、生き るのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたはイエス・キリストによって「福音」を語り、「福音」を行い、「福音」を生きられました。あなたの赦し、生かし、信頼させる力によって私たちも救われます。どうか、信仰をもってあなたに答え、従い、共に生きる私たち一人一人また教会としてください。
すべてのあらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る