復活の主は至れり尽くせり           
                       
ルカによる福音書第24章13〜32節


 主イエス・キリストのご復活、おめでとうございます!
 イエス・キリストは復活された、と教会は信じるのです。ところが、聖書を読むと、不思議なことに気付くのです。イエスの復活は、「だれが見ても、たとえ 目の前で見ても、疑いなく信じるような事柄ではなかった」のだということです。例えば、「マタイによる福音書」に出て来ますが、イエスの墓の見張り番をし ていたローマの兵士たちがいました。彼らは、おそらくイエスの復活の直前と思われるのですが、大きな地震があり、その時天使が下って来て、墓の上に座るの を見ました。「その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白」なその様子を間近に見たのです。これを見た彼らは「恐ろしさのあまり震えあがっ て、死人のようになった」のでした。これほどの体験を彼らはしたのです。イエスの復活そのものを見たわけではありません。それは、誰一人として見た者はい ないのです。でも、これほどの体験を、イエスの墓の真ん前でしたのです。その意味で、彼ら兵士たちは、イエスの復活の一番近くにいた人たちではないでしょ うか。しかし、「あんな経験をした直後に、イエスが復活したと天使が告げたのだから、イエスの復活も本当だろう」とは、思わなかったのです。結局彼らは復 活を信じなかったのです。むしろ、復活を隠蔽する方に回ったのです。さらに言えば、イエスが復活後、山に弟子たちを集められた時にも、目前にイエスを見な がら「信じない者もいた」と記されています。これらのことから考えますと、「イエスの復活」とは、たとえ自分の目の前で死んだイエスが起き上がって来るの を見たとしても、誰もが信じるとは限らない、信じない人はどこまでも信じないような、そんな類の事柄なのだと思います。
 ということは、どういうことでしょうか。「イエスの復活は、人を選ぶ」のだということです。その意味は、「復活を信じるために、信じるその人について、 何か資格や条件があるのだ、例えば、熱心に信仰を求めてきたとか、もともと信心深く敬虔であったとか、人柄が誠実で真面目だったとか、だから復活を信じる ことができたのだ」などということではありません。決してそうではないのです。むしろそれは、「復活」ということは、とりわけイエス・キリストの復活とい うことは、本来人間の頭、力、考えでは到底信じ、受け入れることのできないことだからではないでしょうか。それは、言うならば「向こう側のこと」なので す。全ての人間の予想も、判断も、願いすらも越えて、ただただ向こう側から、ただただ神の御業、神の出来事として一方的に起こったからです。だから、イエ ス・キリストの復活は、「向こう側」から開かれるしかない、ただ神様の側から開かれるしかない、そして復活の主御自身によって開かれるしかないのです。だ から、それは神の選びの出来事です。神様の御心にかなって選ばれた人たちだけが、イエス様の復活を知り、信じ、受け入れることができたのです。だからこそ 同時に、それは全くの恵みの出来事です。神は、そして復活の主イエス御自身は、ただ恵みによって時と場と人とを選んで、御自身を表し、御自身の復活を知 り、信じ、受け入れさせてくださるのです。

 「恵みの出来事」ということは、そこには全く「資格・条件」はないということです。むしろ、私たち人間の常識的な考えでは、「絶対にあり得ない」という 人が、かえって神に選ばれて、復活の証人とされるということが起こりうるのです。このエマオへの道で、復活のイエスと出会った二人の弟子は、まさにそうい う人たちでした。
 第一に、彼らは「失望と悲しみにある人」でした。「この日、二人の弟子がエルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、この一切の出 来事について語り合っていた。」彼らは「互いに語り合って」いました。楽しくてうきうきしておしゃべりが弾んでいたというのではないのです。「ナザレのイ エス、私たちはイスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。」しかし、その望みはもろくも崩れ落ちたのです。あの方を「祭司長や役人た ちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。」彼らは胸にたまった悲しみと失望を互いに吐き出していたのです。そうでもしなければ、とても やりきれない、耐えられない。その挙句、「悲しそうな顔をして立ち止まる」よりほかはない、そういう彼らであったのです。しかし、復活の主はその二人に現 れてくださったのです。
 第二に、二人は「信じられない、不信仰な者」でした。彼らは極めつけの不信仰者です。なぜかと言うと、彼らは「聞かずに信じない」ではない、「聞いても 信じない者」だからです。時はイースター当日、主が復活されたその日の夕方です。彼らはもう既に復活の知らせを聞いていました。いみじくも彼ら自身が語っ ている通りです。「数人の女が、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当たらないのです、帰って来ましたが、その時御使が現れて、『イエスは生 きておられる』と告げたと申すのです。」こんなに身近に復活の出来事が起こっていながら、しかも直接の証人の言葉を聞きながら、なお信じられないでいるの です。ここに根深い人間の不信と罪が現れています。復活された方は、この不信の二人に現れてくださいました。
 第三に、彼らは「逃げている者、逃げて行く者」でさえあったのです。悲しみ・失望の中にあり、信仰もない、ならば人は逃げるよりほかはありません。二人 はまさに今逃げているのです。恐れがありました。また悲しみと失望は彼らの心身にひどいダメージを与えました。もう何にも取り組みたくはありません。もう 人のことにかまう余裕も力もありません。「こんなところにいるのは、こんな人達と一緒にいるのはもう嫌だ、どこか別のところへ行きたい」。こうして二人は ひたすらにエマオへの逃避行の途上にあったのです。こんな二人にであっても、主は現れてくださったのです。いや、まさにこんな二人だからこそ、復活の主は 現れてくださったのです。主は、恵みによってあえてこの二人を選んで、このような人々にこそ御自身を表してくださったのです。

 「恵みの出来事」だということは、「至れり尽くせり」だということです。なぜなら、人間の側からは、見出し、悟り、信じるために、何も、まさに何一つで きませんから。信じるために必要なすべての出会いと導きと助けを、ただ復活の主が「向こう側から」与えてくださる他はないのです。
 何より、復活の主は「共に歩んで」くださいました。「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」二人は失 望と悲しみの中にとどまり続けています。彼らの信仰の目はさえぎられ、不信の中にいるのです。また彼らの生き方は、ひたすら消極的・否定的に逃げて行くだ けのものでした。こんな話、こんな言葉は、イエス様は聞きたくないような内容ではないでしょうか。「見当違いも甚だしい、不信仰にもほどがある」、そう言 い捨てて離れて行ってもいいようなことなのです。しかし復活の主は、彼らを見捨てないのです。またイエス様は、「お説教」もしません。まずは何よりも、彼 らの言葉にひたすら聴き、耳を傾けられるのです。それでこそ、彼らは自分の胸の奥底にたまっていた、暗い、行き場のない言葉と心とを、思い切り吐き出し、 受けとめていただくことができたのです。復活の主は、彼らの話を聞き、気持ちを聴いてくださいました。彼らがどうしようなく胸いっぱいに抱えていた不信や 怒り、悲しみや恐れを、一つ一つ聴きとってくださいました。彼らの悲しみも不信仰も逃避的な生き方も、それらを責め退けるのではなく、それらすべてを受け 留め、引き受け、赦しつつ、主は共に歩んでくださるのです。ここから、すべてが始まります。
 次に、復活された方は「神の御言葉を解き明かして」、神の恵みの世界を開き、示し、不信仰な者に気づきと求めを与えてくださいます。「こう言って、モー セやすべての預言者たちからはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」「聖書全体にわたり」、「大長編」の話 です。面白くいきいきと語られなければ、とても持たなかったでしょう。そして確かに面白かったはずです。聖書の主人公本人であるイエス様がご自分のことを 語るのですから。時間の経つのを忘れるくらい、後でかれらが言っている通りの濃い、豊かな時であったはずです。「道々お話しになったとき、また聖書を解き 明かしてくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。」

 そしてついに、よみがえりの主は「ご自身を分かち与えて、極めて具体的・現実的な関わりを持って」くださるのです。だんだん日も暮れてまいりました。そ ろそろ今夜の宿を求めなければなりません。しかし、この不思議な旅人はなおも旅を続けるかのようです。二人の弟子はこの人ともっと話してみたい、そういう 強い思いに駆られました。二人は彼を強いて引き止め、一緒に宿に入ったのです。そこでこのようなことが起こりました。「一緒に食卓につかれたとき、パンを 取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに」。この言葉は、私たち教会が毎月行っている「主の晩餐」につながり、それを導き出す行為です。「主の晩 餐」では、本当に復活の主が私たちと共におられるのです。そこでは、本当にイエス御自身が、私たちに御自身の体と血とを与え、そのことを、パンを共に食 べ、ぶどうの汁を共に飲むことによって示し与えてくださっているのです。そしてそれは、私たちの日常生活のすべての出来事、そのひとコマひとコマ、一歩一 歩の中で、具体的な出来事と出会いの中にイエスが立ち、復活の命に今も共に生きておられる御自身を示し、分かち、与えるという仕方で、私たち教会とその一 人一人にしていてくださることなのです。
 「一緒に食卓につき、パンをとり、祝福して裂き、渡してくださる、そうして共に食べ、共に生きる」、それほどに確かな、それほどに親しい交わりを、復活 の主は私たちと共にしていてくださるのです。その時、イエス・キリストご自身によって、「向こう側から」、信仰の「目が開かれる」のです。「それがイエス であることがわかった。」「お互いの心が内に燃えたではないか」と、神の御言葉を思い出し、喜ぶことができるのです。そして、「すぐに立ってエルサレムに 帰って」行き、「イエスだとわかったことなどを話す」力が、ただこのお方によって与えられるのです。まさに「復活の主は至れり尽くせり」なのです。

 「至れり尽くせり」、「神の恵み、そして神のあまりにも不思議な選び」。だからこそ、人は問われるのです。だからこそ、私たちは問われ、促され、押し出 されるよりほかはないのです。「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」イエス様であることがわかった、 イエス様は復活されて今も生きておられることがわかった、その瞬間、イエス様の姿は「かき消すように」見えなくなったのです。「そんな」と思いますか。で も、大丈夫です。もう生きていけるのです。「至れり尽くせり」の愛と恵みがあるのですから。イエス様の姿が目に見えなくても、「イエスは生きておられ る」、神に支えられる確固とした信仰をもって、喜びと希望のうちに生きていけるのです。「キリストと分かった瞬間に消えてしまった。あんまりではないか。 しかし、弟子たちはそんな不満をもらさなかった。彼らは逃避行を止め、宿るべき場所を離れ、再びエルサレムへ向かう。足取りは軽い。転んでも、もう立ち止 まらない。復活のキリストに出会う時、私たちは真の充足を知る。―――キリストは今生きておられる方となり、私たちは今キリスト(と)共に生きる者となる からである。弟子たちは崩壊と破局の場所であるエルサレムへ帰って行った。私たちもまた自分の場所に帰る。そこには海のように深い悲しみがあるかもしれな い。しかし、キリストは生きておられる。あなたの悲しみの中にも、キリストは復活の命の花を咲かせるであろう。あなたはもう大丈夫だ。生きていこう。全身 で泣きながら生きてゆけ。」(M田真喜人氏)
 「あなたがたは生きていける、わたしと共に生きていける。だから、あなたがたはそのように共に、お互い生きていきますか、生きていきなさい」、そう問わ れ、促され、押し出され、遣わされるのです。二人の弟子は、この促しの声を聞きました。そして、一度は捨てたはずのエルサレムへと帰って行ったのです。こ の福音、この喜びと希望を仲間たちと、また多くのまだ見ぬ人々と分かち合うために、喜び勇んで帰って行ったのです。「それがゆえに私たちは、自分の身近な 隣人や社会や世界で起こっている課題に苦しむ人々と、信仰において関わるように遣わされていくのではないでしょうか。」(『聖書教育』2023年4月号よ り)私たちが歩む道、それもまた「エマオへの道」であるかもしれません。しかしそこには、復活の主によって、この「折り返し」が備えられ、開かれて行くの です。

(祈り)
天にまします我らの父よ。十字架に殺されて死んだ御子イエスを、死の中から起こし、復活させられた神よ。
 復活の主は、人を選ばれます。失望と悲しみの中にある者、聞いても聞いても信じられない者、人々を捨て自分の責任を捨て逃げ去る者。そんな者たちをこそ 選んで、主は「至れり尽くせり」の恵みを与え、ついに御自身を与え、示し、開いてくださいます。そんな恵みによって、私たちも信じる者とされました。この 恵みによってこそ、私たちは問われ、促され、押し出されます。どうか私たち一人一人とその教会を、イエスの復活の証人としてここから送り出し、導き、お用 いください。
復活にして命なる方、すべてのどんな人の、その一人一人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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