今日、ここから、イエスが共に           
                       
ルカによる福音書第23章32〜43節


 受難節を共に過ごして来て、ついに受難週の礼拝を迎えました。この週、まさにイエス・キリストが十字架につけられ、苦しみを受け、死なれたこと を覚える時となりました。ゴルゴタの丘の上には三本の十字架が立てられ、その真ん中にイエスが十字架につけられ、その右と左には二人の強盗がイエスと共に 十字架につけられています。
 ここで、聖書が私たちに何を語り、何を語っていないのかを知りたいと思います。聖書は、私たちに教訓を垂れているのではないのです。「イエス様との右と 左に、共に十字架につけられた罪人たちがいた。そのうちの一人はイエス様を罵り信じなかった。もう一人の罪人はイエス様を信じて安らかに死に、天国へ迎え られた。前の男のようにはならず、後の人のようになりましょうね。おしまい」と、語っているわけではないのです。そうではなく、この二人の真ん中に、イエ ス・キリストが世の救い主として、すべての人の罪を引き受け担って死ぬ救い主として、この二人と共に十字架にかかっておられるという、この事実こそが大切 なのだ、と語っているのです。イエス様の弟子たちはかつてイエスと共にいましたが、イエスを見捨て逃げ去り、今ももう共にはいません。かえって、この二人 の罪人こそが、死に向かっておられる主イエスと共に、否応なくいるのです。「二人、三人、わたしの名によって集まっているところに、わたしも共にいるので ある。」今、この二人こそがそうなのだ、というのです。

 ならば私たちは、最初の罪人をも、「私たちには関係のない人物」だと決めつけ、切り捨てるわけにはいきません。むしろ、彼は私たちのうちの一人であり、 いやまさにこの私であるのです。この第一の罪人の姿の中に、私たちが本当はどういうものであるかということが最もはっきりとした形で表されています。それ は、死によって追い立てられ、脅かされて、挫折と無力と絶望のうちに死んで行こうとする人間なのだということです。
 彼が見せてくれている、「人間が死ぬ」とはどういうことでしょうか。
 まずそれは、「すべてを奪われ、失う」ということです。十字架刑は、それをもろに見せます。彼はここに来るまでに、自分の生きてきた場所を失い、また自 分の立場や生活というものを奪われました。実は私たち皆もまた、自分が死ぬときには、やはり本質的に同じなのです。「死ぬ」ということは、自分の生きる場 所・領域・手段を奪われ、なくすことなのです。この人は、まさに現実的に持ち物も衣服も剥ぎ取られ、失っています。よく「人は裸で生まれてきて、裸で死ん でいく」と言いますが、まさにその通りになっているのです。彼は暴力的にそれらを奪われましたが、私たちも、彼とは違った仕方であっても、それまで持って いたものを全て失い手放して、丸裸になって死んでゆかなければならないのです。
 また「人間が死ぬ」と言うこと、それは自分が持っていたものを失うということに留まりません。「死ぬ」ということは、自分の存在そのものが崩壊と消滅の 危機に直面するということです。自分そのものがなくなってしまう、それは物理的・身体的にということだけでなく、自分が生きてきた意味や価値、そういうも のすべてに大きなそして深刻なクエスチョンマークが付けられ、さらにはそれらすべてが否定されてしまう、そういう絶体絶命の危機であると思います。だか ら、死を意識し覚悟した人は、それこそ「必死に」なります。なりふり構わず、時に「死」に抵抗しようとし、あるいは「死」を拒否しようとします。またその 「死」を受け入れようとするならば、何とかして今まで生きてきた意味、そしてここで死んでいく意味を見出そうとします。この一人の犯罪人がイエス様に「あ なたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれをも救ってみよ」と言っていますが、それはそれだけ「必死に」助けを求めているのです。 「彼自身の人生の一切がかかっているのです。その彼の人生の一切が崩壊していくという、その虚ろさの中で、彼は悲鳴をあげているのです。」(岸本羊一『葬 りを越えて』より)その意味で、彼は私たちの一人であり、私そのものなのです。
 さらに聖書は、私たち「人間が死ぬ」ということについて、もっと重く深刻なことを語っています。私たち人間が「死ぬ」ということ、それはただ生物として 死ぬというに留まりません。神の前で、自分の「罪」を抱き、それを残念に感じ、悔いと痛みと恐れとを持ちながら死ぬということなのだと語るのです。誰も、 「死んだことがある」と語れる人はおりませんから、推測のようにして語るほかはないのですが、死ぬという時には、きっと私たちの人生、生きてきた道筋、そ のしたこと・しなかったこと、それが「走馬灯のように」一瞬にして思い出され、駆け抜けて行くのではないでしょうか。その時に、私たちは「ああ良かった」 「ああ悔いがない」とだけ思って死んで行けるのでしょうか。私は「決してそうではない」と思います。「あのことができなかった、あの人に申し訳ないことを した、あんな間違った生き方・道を選び、歩んできてしまった」という思いに満たされるのではないでしょうか。とりわけ、私たちよりはるかに、そして決定的 に善と悪のすべてを知っておられる神の前で、真の裁き主なる神の前で、私たちはひたすら自分自身を悔い、恥じるよりほかはないのではないでしょうか。彼は この神の前に裁かれる死を前にして恐れ、絶望し、罵るほかはないのです。彼は私たちの一人であり、私そのものなのです。しかし、その彼の傍らで、イエス・ キリストはこのように祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

 そんな彼のかたわらにこのイエスが共におられ、全く違う生き方、そして死に方を見せておられるのです。「暴力的な死刑囚に対しても、イエスは赦しの祈り を捧げ続けました。―――本当にこの人は場違いな態度を取らない。嘘っぱちの裁判で冤罪を被っても、侮辱されても、実に死の直前、殺される直前まで、神の 無条件の愛を貫いて生きていることに感動したのです。憎しみ続けない・自暴自棄にならない・より弱い者を叩かないイエスこそが救い主です。」(城倉啓、泉 バプテスト教会ホームページより)このイエスの生き様、そして死に様こそが、この二人目の罪人に一つの決定的な気づきと、信仰の始まりとを与え、開き、導 くのです。この救い主イエス・キリストによってこそ、この第一の罪人のようである私たちも、第二の罪人のように信じ生きることができるのだと、聖書は語っ ているのです。第二の罪人に起こったことは、そんな死の恐れと絶望に囚われている私たちに、イエス・キリストが与え、してくださることを、「福音」よき知 らせとして告げているのです。
 この第二の罪人はイエス様に言いました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください。」「私を思い出してくだ さい」と、彼は言ったのです。「死ぬ」ということが、先ほど申し上げたようなことであるなら、私たちが「死ぬ」というその時に、私たちを助け、支え、導く ものは、私たち自身にも何もないのです。本当に何一つないのです。その時に私たちを助け支え導くものは、私たち自身ではなく、私たちを作り生かし愛してき てくださった神様、罪に苦しむ私たちを引き受け、赦し、導こうとなさるイエス様、ただお一人であり、その神様そしてイエス様が私たちのことを思い出してく ださる、思い起こして心に留め、お心に懸けてくださる、ただこのこと一つなのです。この十字架にかけられた人は、人間の生き方・死に方の中でも「どん底」 と呼べるようなところにたどり着き、そこであのような「死」を迎えようとしています。でも聖書が告げるのは、そんな「どん底」からでも、神様に向かって叫 ぶことはできるということです。「私を思い出してください。」神が送ってくださった救い主イエス・キリストに向かってこう呼びかけ、叫ぶことはできるとい うことです。「私を思い出してください。」

 この叫びを受け留め、聞き取ってくださる方がおられます。「イエスは言われた。」イエス・キリスト、神の御子であるにもかかわらず私たちと全く同じ人間 となって、人として生きる悩みと苦しみのすべてを味わい知った方、そして今この十字架にかかり、その「死」のすべての悔しさと虚しさと恐ろしさとを、ご自 身の体をもって経験しておられる方、この方がこの人の、そして私たち一人ひとりの奥底「どん底」からの叫びを受け留め、聞き取ってくださるのです。イエス は彼に向かっておっしゃいます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」
 イエスは、まず何より「今日」と言われました。「今日」、それは神が不思議にも創り、奇跡的に与えられる「今日」なのです。「きょう、ダビデの町に、あ なたがたのために救主がお生れになった。」(ルカ2・11)「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。 (19・9)「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。」(19・9)神の救いが何の前触れも条件も制限もなく表され、驚くべきこ とに罪人、不信仰者によって受け止められ、受け取られることのできる「今日」なのです。
 そして「パラダイス」というのは、もともとペルシャの言葉で、「神様が囲いを作って、その囲いの中に人々を安全に守って、生かされるという、その場所」 のことを言ったものだということです。イエスは彼におっしゃったのです。「今、あなたがここでこうして死ぬにあたって、決して虚しさが、罪の悔いの痛み が、そして死んで全てが滅び無に帰することの恐ろしさがあなたを取り囲んでいるのではない。神の愛が、神の赦しが、あなたを助けてご自身のもとへと導いて くださる神の真実が、あなたを今取り囲んでいるのだ。あなたはこの神様の囲いによって守られて、あなたの生涯を、この十字架にあってさえも、信頼と感謝と 希望のうちに終え、その道を全うしていくことができるのだ。この道を、この私が切り開き、この私が先立ち、この私が共に歩んでいるのだ」と語ってくださる のです。「今日、ここから、わたしがあなたと共にあり、あなたと共に歩んで行くのだ。」

 最後に一言。ある方はさらにこう問うています。このイエスのお言葉、約束は、はたして第二の罪人に向かってだけ語られたものであろうか。「ゲスタス(注  第一の罪人の伝説上の名)は、『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』と―――とても挑発的な言葉を発したように翻訳されていますけ れども、しかし原文を見てみると、「あなたはメシアですよね?でしたら、あなた自身と私たちを救ってください」と、そうやって懇願しているようにも訳すこ とができます。ゲスタスには、罪の自覚やそれについての後悔は見られませんけれども、でも彼も、このままで死んでしまって良いとは思っていない。―――彼 は彼なりに、救いを願っています。そしてその願いを、今まで何をやってもうまくいかなかった。荒れ狂って生きてきた。それがこういう十字架という最悪の結 果を生んだ。しかし、あなたが本当にメシアなら、救ってよと、この窮地から救い出してよと、彼はその願いを、直接主イエスにぶつけました。この願いはキリ ストに届いたはずです。―――主イエスが二人の真ん中から―――語られた、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』という言葉 は、ゲスタスにも聞こえたはずです。―――ずっと主イエスは、真ん中にいてくださる。苦しむ者たち、救いを願う者たち、かたや悔い改めて天国を見上げ、か たや神がいるならなぜ、神がいるなら救ってみよと、救いを叫ぶ。二人がやり合う間も、主イエスはその対話の真ん中に常にいて、その言葉を聞き留めてくだ り、その言葉で、そのしぐさで、行動で、しっかりと答えてくださり、そうやって、いつの間にか、バラバラの、正反対の左右の十字架を、御自分の十字架に繋 ぎとめて、一つの十字架にまとめてくださる。」(吉岡契典、日本キリスト改革派板宿教会ホームページより)
 今日、ここに、このイエスが私たちのただ中におられ、ここから、十字架の苦しみのただ中からイエスが共におられるのです。あの第一の罪人と共に、救い主 イエスは十字架にかかっておられます。死を前にして恐れ、つぶやき、ののしり、責め、そして行き詰まり、それでも信じることができないで絶望する私たちの 罪を引き受け、背負って、この十字架に共にかかっておられるのです。だからこそ、このイエス・キリストは、その私たちをも、第二の罪人が語られ、受けた救 いへと招き入れ、導き、至らせることがおできになるのです。「イエスよ、わたしを思い出してください」と叫ぶことができ、「今日、わたしと共にパラダイス にいるであろう」と聞くことができる救いへと、至らせることがおできになるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 イエス・キリストは、私たちのただ中で十字架にかかっておられます。今日も、そして今も、また死と絶望の淵においてさえも、私たちと共におられる主イエ スを感謝いたします。また、そんな私たちにむかって、「今日、ここから、わたしはあなた共にある」と約束し、その言葉通りに歩み、生きてくださいます。こ のイエス・キリストへの信仰と証しと奉仕において信じ仕え生きる、私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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