切に望んだ感謝の食事           
                        ルカによる福音書第22章14〜24節


 主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたその週の第五日目、今で言うなら木曜日の晩です。イエス様は弟子たちと共に、静かで、満たさ れた食事のひと時を過ごしておられました。はからずも、これがイエス様にとっての、また弟子たちと共にする「最後の晩餐」となったのです。この食事は、イ エス様にとって、またイエスを信じる者たちにとって、決して忘れることのできない食事、決定的な出来事となりました。二千年たった今でも、キリストの教会 に連なる私たちは、この時の食事を「主の晩餐」として、毎月必ず覚え続けているのです。
 この「最後の晩餐」、それはどんな食事であったと思われますか。どんな雰囲気の、どんな内容の食卓であったと思いますか。伝統的な「主の晩餐」のイメー ジ、あるいはもっと言えば「聖餐式」のイメージというものから、私たちはこのイエス様の「最後の晩餐」を、「厳粛な」「おごそかな」「重々しい」というよ うなものとして想像しがちではないでしょうか。また、この時のイエスを取り巻く状況を考えてみますと、それは大変に厳しいものであったと思います。あんな にイエスを熱狂して迎えた群衆の熱は醒め、かえってイエスに対する失望感、幻滅といったものが強まっていました。もともと敵対的であった祭司など神殿の支 配階級、また教えの面で激しく対立するパリサイ人や律法学者は、これを幸いとイエスを陥れ、あわよくば殺し葬り去ろうと狙っています。支持者はどんどん 減ってきて、周りは敵ばかり、そして役人や暴徒がイエスを捕らえに来るのも今日か明日かというような状況です。そうした中にあっての食事などというのは、 実に孤独で寂しい、心細くわびしいものであったかもしれない、などと思ったりもします。そういう中から私たちが考える「最後の晩餐」のイメージは、「厳 粛」「重々しい」、あるいは「孤独でわびしい」というものではないでしょうか。

 しかしここには、実に意外な事実があるのです。この食事を弟子たちに用意させ、いよいよこの食事に臨んだ主イエスは、弟子たちに向かって、開口一番こう 言われるのです。「時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも席についた。イエスは彼らに言われた、『わたしは苦しみを受ける前に、あなたがた とこの過越の食事をしようと、切に望んでいた』。」
 イエス様はこの食事をしようと、「切に望んで」おられたのです。「切に望む」、これは大変強い言葉、強い言い方がされています。まずこれは、「欲望」と いうような感じの言葉なのです。聖書の中では、けっこう悪い意味で多く使われているような言葉なのです。「ほんとうは望んではいけないものを、あえて強烈 に望み、求める」というような意味です。それくらい強い、強烈な「望み」、願いです。しかも、この言葉が二度繰り返されていて、「欲望を欲望した」という ような言い方がなされています。これは強調です。「望みに望んだ」といった感じです。イエスは、この食事を「望みに望んで」、待ちに待って、そうしてよう やくそれがかなったのだというのです。ですから、ここには「孤独でわびしい」とか「厳粛で重々しい」というようなことではなくて、「期待」「楽しみ」「興 奮」というような、ふつふつと熱く燃えるような「熱望」というものが、イエス様の胸の中には渦巻いていたではないかと想像するのです。その証拠に、この中 で主は「杯を取り、感謝して」おらるのです。「待ちに待ち、望みに望んで、その末にやっと実現した食事」なので、「感謝」し、「感謝」にあふれておられた のです。

 そのようなイエス様の思い、それはいったい何だったのでしょうか。私は、一言で言って、それは「愛」であったと思います。弟子たちへの熱く燃える愛で す。「あなたがたと食事をしようと切に望んだ」と言っておられます。でも、この愛は単純・簡単ではありません。むしろ、初めに述べました外的な状況以上 に、困難なものがありました。なぜならば、ここに共にいる弟子たちは、一言で言って「裏切る者」たちであったからです。
 主は、この食事の真っ最中にこう語られました。「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。」イエスを裏切り、売り渡すユダがその場に 共にいたのです。また、それはユダだけのことではありませんでした。この言葉があった直後に、弟子たちは「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと 言って」、論じ始めたのです。それは、実質的にイエス様の道から離れ、それに背いて行く道でした。実際彼らは皆、後に「イエスを見捨てて、逃げ去った」の でした。またここでは、一番弟子ペテロの卑劣な挫折が予告されています。「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを 知らないと言うだろう。」まさにここ、この食事の場には、裏切る者ユダが同席しているだけでなく、弟子たちの不真実と罪があるのです。この「最後の晩餐」 は、痛みと悲しみを伴う、イエスの死を目の前にした食事だったのです。
 しかし、イエスの燃えるような愛は、弟子たちの不真実と罪を超えるのです。こんな弟子たちだからこそぜひとも食事を共にしたい、こんな彼らにこそどうしても分かち合い伝えなければならないことがある、そう主は思い、願い、望まれたのではありませんか。

 それはいったい何だったのでしょうか。
 まず、これが「過越の食事」であった、ということです。「あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んで」と言われます。イスラエルでは、毎年必ず この時期に「過越の祭」を行い、その中でこの「過越の食事」を、家族や親しい人たちの間で共にするのでした。「過越」、それはかつての「出エジプト」の出 来事を思い起こすものです。かつてイスラエルの民は、エジプトで苦しい、辱めに満ちた奴隷の生活を送っていました。しかし、主なる神は、かれらを憐れみ、 思いやり、指導者モーセを立てて、かれらをそこから導き出し、救い出されました。それは、神の解放の御業であり、人間の自由への救いでした。それだけでは ありません。イスラエルは、「神の民」として、神様としっかりと、切っても切れない関係へと結び合わされたのです。それは、神が立てられた救いであり、交 わりだったのです。イエスは弟子たちにに向かって、「あなたがたも神と結ばれている、確かに愛をもって結ばれているのだ」と伝えたいと思われたのです。こ れから自分たちが直面する挫折と過ちと絶望にあっても、神はあなたがたを愛してあなたがたと共におられる、これをこの食事を共にして分かち合い伝えたい、 それがイエス様の切なる願いでした。

 それだけではありません。この神との関わり、交わりを、主イエスはご自身によって、新しくそして決定的に強め、深め、確かなものとされるのです。「パン を取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行 いなさい』。食事ののち、杯も同じようにして言われた、『この杯は、あなたがたのための流すわたしの血で立てられる新しい契約である』。」「主イエスのか らだ」、そして「血」は、イエス御自身の存在そのもの、その生涯そのもの、イエスの御愛そのものです。また、これから主が進んで行かれるであろう十字架の 道とその苦しみと死をも指し示しているのです。
 交わり・関わりの深さは、相手のためにしようと思うことの大きさによってわかると思います。主イエスは、御自身の「からだと血」をもって、神と人間との 関係を新しくし、結び直し、その結びつきを切っても切れない堅いものにしようとされるのです。主イエスは、「罪人」の代表である弟子たちと同じ食卓に共に つき、その彼らとパンと杯を共にし、その彼らとイエスは連帯されるのです。主はその彼らの罪を引き受け、背負われるのです。そのようにして主はこの後、十 字架の道を行き、死を遂げられるのです。

 さらに、この主イエスの熱望、切望は、将来を望み、目指していました。この「最後の晩餐」は、「神の国」を目指し、待ち望む食事だったのです。「あなた がたに言っておくが、神の国で過越が成就する時までは、私は二度と、この過越の食事をすることはない。」ここでは否定形で言っていますが、言い換えれば、 「必ず神の国への『過越』、解放と導きは実現し、その時にはもう一度この食事を共に喜び食べる」ということでしょう。
 「神の国」、それはこの「晩餐」がそのモデルとなり、しるしとなるのです。神の国は「食事」であり、「交わり」なのです。神と人の関係、そこで持たれる 人と人との関係、その共なる喜びが「神の国」なのです。それは、主イエスが生涯をもって示された「共にある」「仕える」「連帯する」「互いの重荷を負い合 う」ということが救いとなり、模範となり、喜びとなるような交わりなのです。また、それは何より、その中心に復活の主イエスがおられ、人間と世を愛してや まない神がいてくださる、そういう食事であり、そういう交わりなのです。だから、この「晩餐」には、悲しみ・痛みの中にも、喜びがあり、希望がありまし た。今でも、この「晩餐」を覚えつつ、私たちが「主の晩餐」を共にするとき、そこには希望があり、目標があり、励ましがあり、導きがあるのです。「その日 まで、わたしたちは希望をいだき続けなければならないのです。それでも主の晩さんはすばらしい祝宴の前触れであるということはできます。教会は、人類が罪 と死の力から最終的に解放され、目から涙をことごとくぬぐわれる日への希望を、主の晩さんにあずかるたびに新たにされるのです。」(高市和久氏)

 「最後の晩餐」には、そのような主イエスの熱望・熱愛、大いなる喜びと感謝、そして尽きない希望と確かな待望がありました。この同じお方、同じイエス・ キリストが、今も私たちと共におられます。このイエス・キリストが今も、私たちの「主の晩餐」と、「主の晩餐」から始まって行く私たちのすべての生活と人 生、教会生活、信仰生活、さらには社会生活、この世におけるすべての営みと働きのただ中に、共におられるのです。私たちの歩みと生き方と道は、いつもこの 「最後の晩餐」を「切に望み、感謝」されたイエス・キリストから、方向性と力と、そして希望をいただくのです。
 それは、どんな歩み、どんな道なのでしょうか。「イエスが言われた、『異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ば れる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する者は仕える者のよう になるべきである』。」イエスは、その生涯すべてを通じて、この言葉通りに生き、それによって、来たる神の国の祝いとその交わりを示し、行い、与えられま した。「イエスが放浪の旅をし、食卓を開く時に神の国はイエスを中心にして実現しました。―――無条件にその存在を認められた徴税人・娼婦・子ども・『障 害』を持つ人・ハンセン病患者が、イエスを中心にして食卓に座ったのです。それは喜びの祝宴でした。誰も比べ合って『あの人はふさわしくない』とか『あの 人よりわたしは大きい』とか言い募りません。全員がふさわしくないことを知り、全員が小さい者だということを思い知っている今、感謝以外にはない。」(城 倉啓、泉バプテスト教会ホームページより)
 このイエスに聞きつつ、このイエスに従いつつ、このイエスと共に、初代教会の人々はこのように生きた、と語られています。「『ユダヤ人とローマ人、ギリ シア人と未開人、自由人と奴隷、富める者と貧しい者、女と男が、お互いに兄弟姉妹として受け入れた。』厳しい差別社会であり階級社会であった当時の世界に あって、そうした隔ての壁を越え、お互いを人間として認め合い、受け入れ合う交わりが存在していたことがキリスト教会の大きな魅力だったというのです。ま たこうも書かれています。『彼ら(キリスト者)がこの世をまとめる方法は、明らかに、すべての人に対する愛と奉仕の実践であった。―――初期のキリスト者 が、貧しい者、孤児、やもめ、病人、鉱山労働者、囚人、奴隷、旅行者の世話をした注目に値する光景―――』ここでは過酷な現実の中で苦しむ人々に対するキ リスト教会の愛と奉仕のわざが、人々を引きつけていったと記されています。」(越川弘英氏) 私たちも、この「主の晩餐」から出発して行きます。この食 卓・交わりの中心におられるイエス・キリストによって、「切に望んで、感謝する」、喜びと希望の歩みへと、共にあり仕え合う生き方へと、この主イエスに よって送り出されてまいりましょう。

(祈り)
イエス・キリストによって、私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
 私たちの教会の交わり、「主の晩餐」から始まる共なる歩みの真ん中に、今もイエス・キリストがいてくださることを、心から感謝いたします。今も「望みと 感謝の主」として私たちの中にいまし、私たちに信仰と希望そして愛の力を与えて、この世に送り出してくださる主を、感謝いたします。どうか今週も、このお 方と共に、あなたが出会わせてくださる一人一人と共に生きていけますようお導きください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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