懲りない神と共に生きよう           
                       
ルカによる福音書第20章9〜19節


 イエス・キリスト、この方ほど、彼について色々な多くの人々が語ったり、記したりしてきた人はいないのではないでしょうか。それは、イエスに対 してこう問いかけているかのようです。「あなたはいったい何者なのですか。」ここでもイエスは問いかけられています。このすぐ前のところです。。あなたは 「何の権威によってこれらの事をしているのですか」。イエスが「宮清め」、神殿で行われている宗教的・商業的行為を批判して、商売の台をひっくり返したり 人々を追い出したりした時に、宗教指導者たちから言われた言葉です。それは言い換えれば、「こんなふうにこんなことをしているあなたは、いったい何者 か」、「お前は何者か」という質問であろうと思います。イエスはどういう方で、何のためにここに来られ、なぜこのような行動を取っておられるのでしょう か。イエスは、この問いに直接には答えられませんでした。しかし、そのすぐ後にこのたとえが来ています。それは、あの「お前はいったい何者か」という問い に、この「たとえ」という形で答えつつ、また質問をした彼らに対して逆に問いかけるためではなかったでしょうか。
 主は話し始められます。「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸して、長い旅に出た。」マルコ福音書では、「ぶどう園」を作る様子が、「垣をめぐらし、 また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て」とさらに詳しく描写されています。これを聞いた人たちは、ピーンと来たに違いありません。特に聖書に詳しい彼らはよ くわかったのではないかと思います。「ぶどう園とその主人」、それは聖書では昔から「神様と神の民イスラエル」を表すものです。旧約聖書のイザヤ書第5章 にこのような言葉があります。「わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘り起こし、石を除き、それに良いぶどうを植 え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。」この「わが愛する者」とは神様のことです。神様はいろいろ な苦労をして「ぶどう畑」をひらき「ぶどう園」を造ったのです。それは、神の民イスラエルのことです。イエスもこのイメージを使ってこのたとえを話されま す。神様はイスラエルの人たちを愛して、そのためにもうできる限りいっぱいのことをしてあげました。そうして、イスラエルの人たちが神様の喜ばれる生き方 をして、たくさんの良いことをするように、「ぶどう」で言うなら「多くの良い実を結ぶように」願って、そして「旅に出た」のだというのです。「旅に出た」 というのは、旅の間は何もうるさいこともあれこれ言うことはできませんから、「信頼して全部まかせて期待した」という意味だと思います。その神様とイスラ エルとの関係、その歴史、それはどういうものであったか、それがこのたとえがまず語ろうとすることです。

 私は以前ほかのたとえについて話したとき、「たいていたとえには一つの中心がある」と言いました。その「中心」は、不思議なこと、私たちの常識からした ら受け入れられないような「異常なこと」であることが多いと申しました。このたとえにも、そのような「変わった、不思議なこと」があるでしょうか。私はあ ると思います。それは、この「ぶどう園の主人」そのものです。この「主人」は、私たちからしたら、驚くほど忍耐強い、懲りない、決してあきらめない、そう いう人なのです。
 「季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。」この「主人」の畑ですから、その収穫の一 部分を受け取ろうとすることは当たり前のことです。ところが、ここにぜんぜん当たり前でないことが起きました。「ところが、農夫たちはその僕を袋だたきに し、から手で帰らせた。」なんということでしょう。気の短い主人なら、もうここで本人が乗り込んで来て、農夫たちをこらしめるところです。ところが、主人 はこうするのです、「そこで彼はもうひとりのしもべを送った」。しかし、その結果はこうでした。「彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰 らせた。」もうこれで怒るかと思えば、こうです。「そこで更に三人目の者を送った」。すると、最悪の結果になってしまいました。「彼らはこの者も、傷を負 わせて追い出した」。「仏の顔も三度」、普通ならもうこれで終わりです。今なら警察に訴えるのでしょうか、昔だから自分で出て行ってさんざんにこらしめる のでしょうか。
 しかし驚くなかれ、この「主人」はまだ諦めなかったと語られるのです。マルコ福音書では、三回でも懲りない「主人」の姿が描かれています。「そのほかな お大ぜいの者を送った」。しかし、その度ごとに、結果はいつもこうでした。「彼らを打ったり、殺したりした。」そのようにして、「主人」は「しもべ」を送 り続けたのでした。なんという忍耐強い、そして懲りない、あきらめない主人でしょうか。神様はまさにそのようにその民イスラエルに対して行動してこられま した。彼らに対して懲りないあきらめない愛による忍耐をもって関わってこられ、何人もの「しもべ」預言者たちを送り続けられたのです。でも、その結果はい つもひどく、また虚しいものでした。その度ごとに、神の僕たちは受け入れられず、迫害され、苦しめられ、殺されていったのです。神の愛は決して実を結びま せんでした。

 では、この「主人」はどうするのか。なんと、まだ彼は懲りないのです。今まで語られた忍耐と愛と期待は「愚か」なものとさえ言えるかもしれません。まだ まだです。ここで、その「愚かさ」は頂点に達するのです。「ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶ ん敬ってくれるだろう』。」なんと、彼は自分の「愛子」、自分の愛する息子、最も愛する者、最も信頼する者を、この「農夫たち」に向けて送ったというので す。皆さん、いかがでしょうか。皆さんなら送るでしょうか。決して送らないでしょうね。そんな三度も、いや幾度となく、送られてきたしもべたちを袋だたき にし、侮辱し、さらにはひどい乱暴まで加えて送り返すような人たちに、いったいどんな良いことを期待できるというのでしょうか。でも、神は送ったのだとい うのです。そうです。神はまさに愛するひとり子イエス・キリストをこの罪人たちの世に送られました。イエス様はこの話をすることを通して、最初の「イエス とはいったいだれであるか」という問いに答えておられるのです。イエス様は神様にとって、いわば「最後の切り札」です。裏切られ裏切られて、それでもなお イスラエルとこの世の人々を愛される神の愛の「最後の切り札」です。あの幾度もの挫折を受けてなおそれを乗り越えて行こうとする、驚くべき愛による「愛す る息子」の最後の派遣だったのです。
 さあ、話の展開を追いましょう。「農夫たち」はどう答えるのでしょうか。なんと、彼らはこの「愛子」を殺してしまうのだというのです。「ところが、農夫 たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、彼をぶどう園の外に追 い出して殺した。」いったいどうなるのでしょう。主は続けて言われます。「そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫 たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。」イエス様は、民の指導者たちの険悪な雰囲気を感じ取り、身の危険すら感じられる状況の中でこれを語ら れます。それは「裁きの宣言」です。「あなたはわたしを殺すことさえ考えている。それは、神の最後の愛を拒むことだ。恐ろしい裁きになるよりほかはな い。」しかし、同時に「悔い改めへの招き」です。「最後の最後、今ならまだ間に合う。心と生き方を変えて、神の愛を受け入れよ。」

 しかし、その結果は。この招きはついに拒否されてしまいました。ほかならないこのイエス様は、まさに彼らによって捕らえられ、十字架につけられ、殺され てしまったのです。ある方は、この箇所について極めてユニークな解釈をしておられます。色々な読み方をお示しして皆さんの対話に仕えることも、私のメッ セージの役目かと思いますので、ご紹介したいと思います。「これが十字架のたとえ話だとしたら、父なる神は自分の子どもイエスがまさか殺されるとは思って いなかったのだ! もし父なる神が、我が子イエスが殺されることを知らずにこの世界に送ったとしたのであれば、これは神の悲劇であり失敗だ。父なる神が我 が子イエスが殺されることを分かっていて、それでも復活させ、それを信じる者を皆救うというシナリオを持っていて、それをイエス自身も承知していたのであ れば、そんな予定調和的で台本どおりの救いをわたしは信じたくない。―――けれども、先のぶどう園の主人のように我が子イエスがまさか殺されるとは思わ ず、最後の手段、我が子イエスを送ればひとびとは改心してくれるだろうと神が心底信じていたのであれば、わたしの魂は激しく震えるのだ。父なる神は見てい たのだ。我が子が多くのひとびとを救い、受け入れられていたのに、最後は弟子たちにさえ見捨てられ、権力者たちによって十字架で処刑されてしまう姿を!そ して父なる神のその胸は激しく張り裂けたのだ。父の後悔、誤算、失敗、怒り、悲しみ、そして我が子の死は父の死そのものでもあったはずだ。」(関野和寛 『天国なんてどこにもないよ』より)

 だとすれば、神はどうなさるのでしょうか。こうして幾度も幾度も忍耐して、懲りずにあきらめることなく、ついには愛する子を送った神の愛も、もうこれま で、これをもってついに終わり果てるのでしょうか。この「たとえ」においては、この「最後の警告」においてはそうでした、これで終わりでした。「ぶどう園 の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。」
 でも、私は以前にこうも申しました。「イエスの福音はご自身のたとえをも越えて行く。」そうです。実際にはそうではありませんでした。神様は私たちのど んな思いも考えをもひっくり返して事をなさいました。神は「愛する子」イエスを死の中から引き上げ、復活させられたのです。ここで、今日のたとえの最後に 付け加えられたイエス様の言葉が光ります。「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。」これは詩篇117篇にある言葉です。人々から「捨てられた石」 イエス様が、神によって「隅のかしら石」になったのです。「かしら石」とは、建物を造る時の最も大切な石、最後の最後に置かれるすべてを完成させる石で す。主はまさにそのようなお方として復活させられ、神の愛と赦しを宣べ伝えておられるのです。復活こそ、人間のすべての罪と悪に対する、神の愛の勝利で す。神はそれほどまでに懲りないのです。
 この神の懲りない愛について、先ほどの説教者はこのように語られます。「だが父は十字架の上から我が子を救出しなかった。―――今度こそそうしても良 かったはずだ。でも父はそうしない。イエスを復活させ、そしてひとびとにいのちを奪われたイエスの霊、それでも世界と人々を諦めない自分の想い、聖霊を 送ったのだ。もしそうであればわたしの魂はこの神の前に激しく震えるのだ。 神の失敗、そしてそれでも人々と世界を諦めない神の姿に私はただただ震える。 その只中でひとびとの手によって殺されていったイエスの姿にわたしの魂は震えるのだ。綿密に計画された完全な救いの計画などには私は救われない。そうでは なくて不器用でコミュニケーションが下手で、自分が造ったひとびとに真意を伝えられず何度裏切られても、たとえ我が子のいのちを奪われても、それでも人々 を諦めない神の悲しみの姿の中にわたしは吸い込まれて行くのだ。これがわたしの救いの感覚だ。神は全知全能なんかではない、神は失敗する!そして神の子イ エスは絶望しながら死んでいった。何だろうこの神の姿は。なんだろうこのことばにできない感覚は。」(関野、前掲書より) 懲りない神、この神によって、 その懲りない愛によって、私たちは愛され、招かれ、導かれています。私たち一人一人、またこの世界とそのすべての人々を今まで導き、またこれからもずっと 導くのも、この神様でありその愛です。懲りない神と共に生きる、この歩みが、今週もまた今日から新しく始まろうとしているのです。
 最後に、そのような神の愛に答えるのには、私たちもまた「懲りない信仰」をもってする以外にはないと思います。私たちが進んで行くその信仰の歩み、その 生涯の歩みの中で「もうだめだ、もうやめた」と思ってしまう、教会やこの社会また世界との様々な関わりと働きの中で「もういやだ、もうやめた」と思わずに いられないそんな時が来るかもしれません。私たち人間はいとも簡単に神様を信じることをあきらめ、やめてしまうのです。それどころか、あの「農夫たち」の ようにいつも「神様抜き」でやっていこうと思ってしまう者なのです。その時に、悔い改めをもってこの神の愛を思い起こしていただきたいのです。「神様は決 して、決して懲りないのだ、あきらめないのだ。」だから、私たちはこのイエスの問いかけと迫りに対してこう答えましょう。「だから、私たちもあきらめませ ん。こんな自分であっても、こんな世の中であっても懲りずに、疲れても、かがみ込んでも、倒れても、それでもまた懲りずにこの神様を信じていきます。主 よ、助けたまえ!」

(祈り)
主なる神よ。主イエスが十字架に至るまで語り示してくださったあなたの懲りず諦めない愛、驚くべき忍耐と真実、そして主の復活をもって示されたあなたの愛 の全き勝利を思い、心から御名をあがめ、感謝いたします。どうか私たち一人一人がこの懲りない愛によって促され、悔い改めをもって私たちもまた懲りずにあ なたに従う者とされますように。このあなたの懲りない愛を一人でも多くの、また様々な方と分かち合おうとする教会また一人一人の証しと宣教を強め、用い て、あなたの善き業をなし、ご栄光を表してください。
懲りないあなたの愛そのものでありたもう、世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る