主がお入り用なのです           
                       
ルカによる福音書第19章28〜40節


 物事は、どうしたらわかりやすく伝えられるでしょうか。
 これは、視覚障害者の方にはあまり関係ない話で申し訳ないのですが、その一つの方法は「見える」化だと思います。日頃あまり一般に気づかれないこと、 はっきりと自覚的には見られ捉えられていないこと、本当は見えているのにわざと見ないようにしていることを、あえて「見える」ようにする、はっきりと気づ き自覚をもって見られるように、あるいは見ないわけにはいかないように、明確にまた印象的に見せる、それによって多くの人が「見える」ようにする、という 方法です。
 「見えるようにする」、それがこの箇所でイエス様がしようとなさったことではないでしょうか。これは「エルサレム入城」を語る部分です。イスラエルの中 心、都エルサレムに多くの人々と共に行進しつつ入って行くということ、それは一般的には「勝利した王が凱旋しつつ都に入る」という「王の入城」を意味して いました。しかも、それは聖書の背景においては、単なる一般的な「王の入城」ではありません。「エルサレムに来る真の王」とは、神様がお遣わしになった 「救い主」、「神のメシア」なのです。イエス様の周りの人々も、このことを受け入れてこのように叫びつつお迎えしました。「主の御名によってきたる王に、 祝福あれ。」だから、このようにして主イエスがエルサレムにお入りになったことは、「自分は真の王、神のメシアとしてエルサレムに入るのだ」ということ を、「見えるようにして」示されたことだったと思うのです。しかも、主はこのことを、非常にユニークな仕方で「見えるように」示されました。イエスは「ろ ばの子」に乗って入られたのです。

 もう一つの、物事を分かりやすく伝える方法は「比較」「比べること」です。
 この紀元後30年の春、ほぼ時期を同じくしてエルサレムに入城した二つの集団があったということです。「西からエルサレムを目指すのは、皇帝軍の騎兵隊 と歩兵隊を従えた官吏、イドマヤ、ユダヤ、サマリア地方を治める(ローマ帝国の)総督ポンティオ・ピラトです。―――ピラトの軍隊行進は、ローマ帝国の支 配力と皇帝崇拝の神学を印象づける示威行為です。」(クロッサン、ボーグ『イエス最後の一週間』より) 当時ローマのユダヤ総督は、エルサレムから百キロ ほど西にあるカイザリヤという街に住んでいて、大きな祭があるたびごとにこのような軍隊行進によるエルサレム入城を行なっていたということです。この時期 はユダヤ教最大の祭である過越祭の前になるので、この年もピラトの一団はエルサレムにやって来たに違いありません。それはどんな様子だったでしょうか。 「皇帝軍の力を象徴する盛装、騎兵団、歩兵団、甲冑、兵器、軍旗、軍旗に据えられた黄金の鷲、日に輝く鋼鉄や黄金が威圧感を与えます。都に響き渡る音―― 隊列の足音、皮装具の軋み、馬具の金属音、鼓手の撥響音(太鼓などを打ち鳴らす音)。」(同上)これに対して、「東からはろばにまたがったイエスが、追随 者たちの歓声を受け、オリーブ山の方から神殿を目指します。イエスはナザレの農村出身で、神の国について語ります。彼の追随者たちは貧しい村落民です。」 (同上)これがこの主イエスの一行であったのです。この時主イエスは、この「エルサレム入城」に際して、「馬」ではなく「ろば」しかも「子ろば」に乗って 来られました。
 王や総督の凱旋行進ににふさわしいものは、一般的・常識的には「馬」つまり軍馬や、「馬」に引かせた戦車でした。「馬」とそれによる戦車は、当時の最新 技術による最新兵器で、それに乗って来るということは、権力と栄光の象徴なのです。ところが、聖書では古来「馬」への批判があります。「助けを得るために エジプトに下り、馬に頼る者はわざわいだ。彼らは戦車が多いので、これに信頼し、騎兵がはなはだ多いので、これに信頼する。」(イザヤ31・1)それは、 「馬」が悪いのではなく、「馬」に象徴される政治的・軍事的・経済的力により頼もうとする人間の不信仰が悪いのです。これに対して、「ろば」は「平和と柔 和」のシンボルです。例えば、まさにイエス様の入城をそのまま描いていたようなゼカリヤ書の言葉があります。「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は 義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。――わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。――彼は国々の民に平和を告 げ」るというのです(ゼカリヤ9・9〜10)。この「ろば」に乗ることによって、主イエスは「神の真の王、真のメシアは、多くの人々が願い求めるように、 力を得て他よりも強くなって他の人やものを思いのままに動かすことによって支配するのではなく、人の思いに反して柔和に人々に仕え、人々を平和のうちに共 に生かすことによって治める、そのような方なのだ」ということを見える仕方で示されたのだと思います。

 しかしそのようなイエスの入城の仕方は、人々の予想や期待に反し、それを裏切り、それに背くものでした。3世紀頃のユダヤ教のラビ(教師)が、「イエス は救い主ではない」という意味で、こんなことを言ったというのです。「神のメシアだと名乗る者は、ろばの子などに乗って来るはずがない。雲に乗ってやって 来るべきだ。」これもまた、神の御業や救いに関する狭い固定化されたイメージです。「神の子なら、人目を驚かし誰をも平伏させるような奇蹟と栄光のしるし をもって来るべきだ。」
 イエス様に向かっては、そのような常識や期待や願望、さらには「こうでなければならぬ」という心理的・社会的強制のようなものまでもがのしかかっていた と思います。そして広げて考えるならば、それは単にイエス様だけではなく、その社会に住むすべての人たちがそのような圧迫や強制を受け、さらには私たちに もまた同じような意味での圧力や強制、さらには束縛までもがのしかかっているのではないでしょうか。「神の戒めを守れないような者には、祝福も救いもな い」、「病気や障害を負った者は、悪の報いとしての罰を受けている」、「神の前でまた社会的に善い優れた業を行えない者は、全く価値と意味がない」。その 延長として、人々は「力」や「栄光」を求めたのだと思います。それに対して、主はこれまで御自身の「神の国」の宣教で、全く違う神の御心とその向かおうと される道を語り示してこられました。「神の国は、幼子のような者の国である。」「かしらになりたいと思う者は、すべての人の奴隷になりなさい。」主イエス こそは、まさに「違うこと」を示されました。ご自分が、人々や世の中の常識や願望さらには強制にかなう仕方で「馬」や「雲」に乗るのではなく、「ろば」に 乗って来ることで、神とその御国はそれに反して、それとは全く違うものとして来るのだということを、「見える」仕方でお示しになったのだと思います。

 そのようして都エルサレムに入城しようとなさるイエス様の道のはじめに、実に象徴的な言葉が置かれています。それは、「なぜ解くのか」という言葉です。 「解く」とは「解放する」という意味です。マルコ福音書では「なぜそんなことをするのか」です。これは、直接的には、イエス様から「向こうの村へ行って、 そこにつながれているろばの子を引いてきなさい」と命令を受けて行った弟子たちに向かって、そのろばの子の持ち主から発せられるであろう言葉です。「なぜ 解くのか」「なぜそんなことをするのか」。まあ、そうでしょうね。人が飼っているろばの子を、だまって勝手に連れて行こうというのですから。それは、単な る疑問ではないでしょう。「なぜそんなことをするのか、そんなことをしてもらっては困る」という反問であり、怒りですらあるかもしれません。あるいは、 「おとなのろば」なら役にも立つが、「まだだれも乗ったことのないろばの子」なんかは荷物を運ぶことを知らないからだめですよ、「なぜそんな無益なことを するのか」という蔑視やあざけりかもしれません。
 この言葉はそれとしてはそんな意味でしょうが、これが主の十字架の道の最初に置かれているのは、実に象徴的なことだと思うのです。「なぜそんなことをす るのか」「なぜ解くのか」、なぜあなたは、この世の常識や偏見、またそれに基づくこの世の決まりや秩序までも踏み越えて、時にはそれを破ってまで、縛ら れ、差別され、排斥されて、苦しめられている人たちを解き、解放しようとするのか。そんなことは大変なことであり、世の中に葛藤やいさかいをも引き起こす ことであり、世の力ある人たちの怒りをかうことだ。そんな多少のこと、人のことには目をつむり、放っておけばよいではないか。その問いを裏付けるように、 このすぐ後でイエス様が「宮清め」、神殿で行われている宗教的・商業的行為を批判して、商売の台をひっくり返したり人々を追い出したりして、それこそ「デ モンストレーション」をなさった時に、宗教指導者たちから言われる言葉があります。「何の権威によってこれらの事をするのか。」「なぜ、そんなことをする のか。世の常識・決まりごとや宗教的秩序や戒律に反して、それを裏切って。そんなことをしてもらっては困る。いや、ゆるせない、ただではおかない。」その ようにして、主はまっすぐ十字架へと進んで行かるのです。「なぜそんなことをするのか」、十字架にまで進み、ついに罪を着せられ、殺され、死ぬことになっ てまで!

  しかし、主イエスは、このような疑問・反問・批判を、一言で制し得る言葉を弟子たちに授けられました。「もし、だれかがあなたがたに、『なぜ解くのか』と 問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさない。」「主がお入用なのです」、「主がそれを望まれます、主が自らそれをなさいます」、「これが神 の御心です、これが神が歩まれる道なのです」。「弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。」(マルコ11・6)この御言葉 によって、「似つかわしくない」「ふさわしくない」とされた「ろばの子」が、このイエス様の大切な業と道のために召され、用いられていったのです。「主が お入用なのです」、この御言葉を読んでいて、これは「復活の言葉」なのではないかと思えるようになりました。人々と世が「無用」「無益」さらには「有害」 と十字架に切り捨て殺したイエス様を、「いや、主がお入用なのです」と神は起こし、復活させられたのではありませんか。
 復活の主は、今もその手と足と口をもって私たちの間を歩みつつ、私たちを招いて今もこの言葉を語っていてくださるのだと信じます。「主がお入用なので す。」 昔から多くの人々が、この「ろばの子」はただの「ろば」ではなくて、「それはわたしのことである」と信じ語ってきました。「イエス様はこのわたし をも、あのろばの子のように『主がお入り用です』と呼び、招き、用いてくださるのだ」と信じ、告白してきたのです。今日、私は皆さんに申し上げます。「ま さにそうなのです。」主イエスは、あなたをも「主がお入り用です」、「あなたが必要なのだ」「あなたが大切なのだ」と呼んでくださっているのです。このす ぐ後、イエスは「エルサレムのために」、そこに住むすべての人のために、さらに言えば、私たちすべての者のために「泣き」、涙を流されました。このお方主 イエスは、そのあなたのためにも愛をもって「泣き」、あなたと共に生きつつ、あなたの罪を引き受けて十字架の道を歩み、あなたをも神の平和へと導いてくだ さいます。さらに、主があなたを呼ばれるのは、ただあなた一人のためだけではありません。この世のすべての人が、その人のために泣いてくれる人を必要とし ています。そのことを本当になさるのは、ただイエス・キリストお一人です。でもその主の後から主に従って主と共にその人と泣く人を、「喜ぶ者と共に喜び、 泣く者と共に泣く」人を、主は求めておられます。そのために、あなたもまた主によって呼ばれています。ほかでもない、あなたが呼ばれているのです。「主が お入り用なのです」。復活の主は今も「主がお入用なのです」と語りつつ、御自身の道を歩んで行かれます。そう呼ばれるとき、すべての壁は崩れ落ちます、鎖 は断ち切られます。そして私たちも、あの「ろばの子」のように主のために、また主が出会わせてくださるその「一人」の隣人のために生きる者とされることが できるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「主がお入り用なのです」、主イエスは今日もそのように語りつつ、十字架の道を進んで行かれます。それは、私たちを「解く」ため、私たちを世の力、罪と 悪と死の力から解放し、「神のもの」あなたのもの、あなたに向かって、おなたと共に生かされ、生きる自由へと至らせるためでした。
 私たち一人一人また教会も、様々なこの世の束縛、圧迫、「空気」によって縛られ、押さえつけられ、不自由とされている者ですが、あなたのこの御言葉に よって「解かれ」自由にされ、私たちも一人の「ろばの子」とされて、あなたと隣人に仕え、共に生きて行く者とされますよう導き、支え、お用いください。
十字架の主、それゆえにこそ復活の主、教会の主また全世界の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る