この神に向かって、失望せず、さぼらずに           
                       
ルカによる福音書第18章1〜8節


 皆さんは、ナザレのイエスという方は、どんな人だったと思われるでしょうか。私が思うに、イエス様という方は実はユーモアに満ちた人であったよ うで、そのたとえ話には思わずにやりとしてしまうようなストーリーが出てきます。それも、どちらかというと「ブラックユーモア」とでも言うべきもののよう で、たとえ話の設定や展開は「びっくり仰天」と言うか「グロテスク」なものが多いように感じます。
 その中でも、ここは飛びきりのものではないでしょうか。「一人のやもめ」対「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」、まさに「異色対決」であります。 それにしても、この設定はすごいですね、「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」。この裁判官は自分でも言っています、「わたしは神を恐れず、人を人と も思わないが」。普通自分ではそんなことは言いません。「私は悪いことをやります」と言ってやるよう人はあまりいないわけです。それをあえて言わせるとこ ろに、強烈でグロテスクな、そしてブラックなユーモアさえ感じられるような雰囲気が生まれます。
 これに対するのは、「一人のやもめ」です。この人も実は強烈な人だったというのが後でわかりますが、とりあえずはこれは「裁判官」の対極にあるような立 場の人です。「女性」で、しかも夫と別れた「やもめ」、それは当時の社会で最も弱い立場にあると考えられる人でした。無権利であり、貧しく、そして力を持 たない。彼女は目下自分の権利を侵害され、立場を脅かされていたのです。「わたしを訴える者」がいたというのですから。
 ところが、その町には自他共に認める「神をおそれず、人を人とも思わない裁判官」しかいなかったのです。聖書では、また聖書に限らず、裁判とは「神の名 によって、人を重んじて」行われるべきものです。ところが、この裁判官はそのまさに反対を行くのだと言うのですから、たまったものではありません。

 こう見てきますと、最初は「グロテスク」とか「ユーモラス」とか感じられたこの設定が、実は大変に切実で真に迫ったもののように思われてきます。実際、 初代のキリスト教会が置かれていた状況は、まさにこの通りだったというのです。「これこそが、ルカとその読者たちが生きた時代のリアルな現実でした。剣と 槍が言葉を封殺し、不正と賄賂が横行し、訴えは門前払いされ、真実が葬られる。そしてローマの支配に隷従しない者は容赦なく弾圧される。―――ですから、 イエスの譬えは現実的でした。」(『聖書教育』23年1・2・3月号より)「裁判官」とは、社会において「上に立つ者」を象徴的に表わし、代表する言葉だ と思います。同時に、彼らによって治められる世の中の象徴でもあると言えます。そうだとすると、私にもこの言葉が急に現実味を帯びて来ました。「神をおそ れず、人を人とも思わない」裁判官、私たちの時代にも、私たちの社会にも、いるいる!ほかに何にでも、どんな人にも付けることができます。「神をおそれ ず、人を人とも思わない」政治家、いるいる! 「神をおそれず、人を人とも思わない」会社、あるある! それに対するに「ひとりのやもめ」、社会で最も弱いとされる人。この設定自体が、既に大きなイエ ス様の問いかけなのです。この例えは「祈り」に関するものですから、もっぱら「信仰者」に向けられていると言えるでしょう。あなたがたは、世の中とそこに おける自分たちの立場を、「この裁判官とこのやもめ」、そういう構図の中で捉え、考えているか。そういうふうに考え、捉えるような立場に身を置いて生きて いるのか。
 この女性は、「当たり前の正しさを求めた」のだと言った人がいました。以前「箴言」を取り上げた説教の中で、「聖書の知恵は『当たり前』のことを教える が、その『当たり前』が行われることがあまりにも少ない」と言って、次の言葉を引きました。「人間を狙って発砲するのは、知恵あることではありません。非 常に、非常に愚かなことです。餓死する人はどの人も、当たり前のことが破壊されたのです。人間を餓死させることは、知恵あることではなく、非常に、非常に 愚かなことです。」(ユンゲル説教集『霊の現臨』より)また私たち信仰者にとって、あの「裁判官」の設定は、実は抜き差しならないものだったのです。「神 をおそれず、人を人とも思わない」、それこそ聖書が語る私たち人間の「罪」そのものではありませんか。裁判官だけではない、政治家だけではない、企業だけ ではない、この社会に住む私共すべての者が、実はそのような生き方と道に歩んで行ってしまっている、それがこの世界なのです。

 そのような世界の中で、この一人の女性は立ち上がりました。彼女はあの「裁判官」に向かってこう訴えてやまなかったのです。「どうぞ、わたしを訴える者 をさばいて、わたしを守ってください。」彼女は彼のもとに「たびたびきて」、彼に「面倒をかけ」、「悩ます」ほどにしつこく、粘り強く求め続けました。裁 判官の出るとき入るとき、夜討ち朝駆け、子どもメッセージをした時には、「トイレにまでついてきて現れました」などとも言いましたが。とにかく、ついに彼 女はこのような裁判官の言葉を勝ち取ったのです。「わたしは神をも恐れず、人も人とも思わないが、このやもめが面倒をかけるから、彼女のためになる裁判を してやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう。」
 この「やもめ」の存在、彼女の行動こそが、既にもう大きな問いかけであり、励ましであり、また過激な「お手本」です。彼女は、この圧倒的に不利な状況、 「絶望的」と見える立場にも、決して失望しなかった。それどころか、「わたしが助けられるのは当然でしょう」という信念を決して捨てずに、しつこいほどに 粘り強く実行し、ついに「当たり前の正しさ」を勝ち取った。主は、私たちに向かって問いかけておられるのです。「あなたがたは、自分自身のこと、お互いの こと、世の中のこと、また教会のことでさえも、今見えているありよう、『神を恐れず、人を人とも思わない』そのありようの方を、『当たり前』と思い、『こ んなものさ』とあきらめ、悟りきり、座り込んでしまっているのではないか。この女性の姿をよく見てご覧なさい。」

 さらに主イエスの御言葉は、たとえを乗り越えていかれます。「そこで主は言われた、『この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫 び求める選民のために、正しい裁きをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか』。」神は、この裁判官のような、いや、全く違う正反対 のお方だ。日夜絶えず祈り求め、叫び求める、神の選びの民、それはあなたがただ、その信仰者たちのために、その祈りを放っておかれるような方では決してな い。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」神はあなたがたの祈り求めを聞き、訴えを聞き届け、私たちの祈り願うところ にはるかにまさって成し遂げてくださる方なのだ。「だから、失望せずに、決して失望せずに常に祈りなさい、祈り、訴え、求め続けなさい。そして、祈りに基 いて、立ち上がり、動き出し、働きかけなさい。」
 そうするうちに、このような私たちに語りかけられる主イエスのお姿が、あの「やもめ」に代わって立ち上がり、大きくなり、迫ってくるのです。「神を恐れ ずも、人を人とも思わない」、そのような人間と世界の有様を嘆き、傷み、そのために立ち上がり、語り、働き、訴えられたのは、主イエスであられたのです。 そのために、どこまでも粘り強く、徹底的に、「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでも」、主は神の国の業を行い、人々のために愛と赦しの働きをな し、この世において神の国を宣べ伝え、世の人々に向かって語り訴え、そのようにして私共すべての者の罪を負い、そのために執り成しつつ祈り、生きられたの は主イエス・キリストであられたのです。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」神はイエスを死に勝利させ、死者の中か ら復活させられました。
 私たちは、この神の前で、この神に向かって祈るのです。この神の前に生かされ、生きることがゆるされているのです。宣教研究所所長の朴思郁先生が、お国 の教会の現状を批判的に捉えつつ韓国の神学者の言葉を引いておられます。「不義な法、権力に抵抗することは、とても大変なことである。しかし、その結果は 必ず変化をもたらす。たとえ、はじめはいかに小さく見えても、それは問題にならない。なぜなら、一旦行なった正しいことは、永遠に行われるからである。」 (『宣研ニュースレター』より)「永遠に行われる」とは、「神の前に行われる」ということにほかなりません。パウロも語りました。「いつも全力を注いで主 のわざに励みなさい。主にあっては(あなたがたはこの神の前に祈り、生きているのだから)、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っ ているからである。」

 この主イエス・キリストが今私たちの前に立ち、信仰の導き手また完成者として先立ち、伴ない、導いていてくださいます。このお方は、「失望しそうになる 者たち」、私たちと共にいて、その祈りと道を助け導こうとされます。1節の「失望する」とは、「祈りをさぼる」ということだそうです。「この編纂は、『さ ぼらずに絶えず祈る』ことの尊さを教えています。わたしたちが祈りをさぼる主要な理由が、『どうせ聞き届けられない」と諦めていることにあることも鋭く衝 いています。」(城倉啓)そんな私たちに向かってこのたとえをお話しになったことそのものが、その助けであり、励ましであり、導きなのです。主ご自身が、 この祈りと訴えの道を先に歩み、歩み通してくださったからです。
 またこのお方は、この神を、このような神様を指し示し、「私たちの神」として与えてくださいます。「神様は、こんな裁判官のような者ではないのだ。全く 反対に、私たちの祈り求めを決して捨て置かず、必ず聞き届けてくださる方として、この『失望の世』においても、確かにいてくださるのだ。」そしてこのお方 は、「人の子は来る」、「わたしは必ず来る」と、「神の国」の到来、「新しい天と地」の完成の時を指し示してくださるのです。ゴールのないマラソン、目標 のない働きは、やがて疲れ、倒れてしまうことでしょう。その私たちに、主は真の目標とゴールを示し与え、神の助けによりそこに必ずたどり着くことがゆるさ れるのだという真実な約束を与えてくださるのです。
 最後に、主はこのように語られました。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」イエス様もまた不安に駆られておられるのでしょ うか、疑心暗鬼になっておられるのでしょうか。そうではないと確信します。信仰と祈りにおいて弱い私たちのことを思いやっておられるのです。そしてむし ろ、「信仰が見出されてほしい」と期待しておられるのです。さらには、「そのために、わたしはあなたがたを支え、導いていこう」と決意していてくださるの です。この主に伴われ、導かれて、この神に向かって祈り、生きる。ここにこそ私たちが生きるための根拠、世に遣わされた教会また信仰者として働き仕えるた めの力と希望があるのです。「この神に向かって、失望せず、さぼらずに」。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 「神を恐れず、人を人とも思わない」、それが私たちであり、私たちの世です。しかし、あなたは、そのような世と私共をそのままに捨て置かれず、あなたのまことの「正しさ」へと至らせるために、御子イエスを救い主として送られました。
 御子の十字架に至るまでの執り成しと助けにより、今や私たちはあなたの前に正しく立たされ、祈り、生きることがゆるされました。どうか、この恵みを深く 覚えつつ、自分自身とお互いのために、また教会とこの世のために、私たちも失望せず、祈り、訴え、求め続ける者としてください。「人の子」がおいでになる その時まで、私たちの信仰と希望そして愛を守り、力づけ、導いてください。一人一人と教会をそのためのしもべ・奉仕者として用いてください。
世界の主、教会のかしらイエス・キリストの恵み深い御名によってお祈りいたします。アーメン。

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