にもかかわらずの希望と讃美―――われらが祈る理由           
                 
マタイによる福音書第6章9〜15節
                      歴代志上第29章10〜13節


 今日取り上げるのは、「主の祈り」の末尾にある讃美の言葉、頌栄の言葉です。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」改めて「マタイによる 福音書」の聖書本文をご覧になればおわかりのように、この言葉は本来の「主の祈り」の中にはありません。後世、教会の歴史が100年くらいたった頃に、こ の言葉を付け加えて祈ることが始まったと言われます。聖書の中の根拠としては、先に読んでいただいた歴代志上の言葉が基になっています。「主よ、大いなる ことと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もあなたのものです。あなたは万有 のかしらとして、あがめられます。」ダビデ王の、主なる神への告白と讃美の言葉です。

 この部分、この言葉の意味、その意義は何でしょうか。なぜ私たちは、この言葉を「主の祈り」の末尾に、締めくくりのようにして祈るのでしょうか。
 今日はここで、二人の宗教改革者に聞き、学びたいと思います。一人は、ルターです。「福音はわれわれが、われわれの良い行為や完全性に目を留めるのでは なく、約束したもう神、仲介者であるキリストご自身に目を留めることを命じているが、このことこそわれわれの根拠である。―――それは、われわれが自分の 良心、経験、人格、業に頼るのではなく、われわれの外にあるものに頼るためである。これこそ、我々を失望させることのない神の約束であり、真実である。」 (マルティン・ルター、ロッホマン『われらの父よ』より)
 この「主の祈り」のメッセージを共に聞き始めたとき、思いました。「これは、とてつもない祈りだ。」「とてつもない世界に足を踏み入れることになる。こ の祈りの言葉に向き合っていくと、それまでの自分でいることはできなくなる。」(及川信『主の祈り』より)「これをまともに受け止め、聞き、祈るなら、人 生が変わってしまう。今までの考え、生き方、また『信仰』と思ってきたものまでもが変わってしまう。」なぜなら、それは「主の祈り」、イエス・キリストの 祈り、イエスが私たちに先立って祈り、私たちのために祈り、私たちに向かって聞かせ、教えられた祈りであるからです。
 言い方を変えるなら、「身がもたない祈り」であるとも言えるでしょう。例を挙げれば、この祈りの中の「われら」。私たちが聞き、教えられたのは、この 「われら」に線を引くことはできない、ということでした。「われら」、それは神が創り、愛される「すべての人」、「敵」までをも含む文字通りの「すべての 人」、私たちが思いもしないその「一人」また「一人」であると聞きました。また、その「われら」のために、私たちはその「日々の糧」のために、その一人一 人が生きるため、より良く生きるためのすべてについて、ここでも「線」は引けず、文字通り「すべて」のために労し、生きるよう祈るのだ、また求められてい るのだということでした。
 でも、それを聞いて私が第一に思うことは、「そんなこと、やっていられない。それでは、身がもたない」ということです。教会には、いろいろな人がいろい ろな悩み、問題を抱えてやって来ます。それは、文字通りやっかいで深刻な「問題」であることもしばしばです。そんな時に思うのです。そのうちのたった「一 人」とその問題ですら、まともに受け止めることは難しい、いや、できない。それなのに、「われら」すべてのために祈り、生きることが求められているとする なら、とても「やっていられない」「身がもたない」。でも、だからこそ、この言葉、この祈りがあるのだとルターは言うのです。「私たちの良心、経験、人格 ではないよ。この祈りを祈り、この祈りに基づいて生きるのは、私たちの力ではないよ。私たちの外におられる方、すなわち国と力と栄えとを持っておられるイ エスの父なる神の約束と真実だ。」
 だから、カルヴァンもまたこう言うのです。「もし、われわれの祈りが、われわれの価値によって神に捧げられるとすれば、ただ低く口ごもって言うだけで も、誰があえて神の前でなし得るであろうか。しかし今や、われわれはどんな悲惨の極みにあり、すべての者の中で最も無価値なものであり、何ら誇ることがで きるものを持たないとしても、われわれから、祈る理由が取り去られることも、信頼がなくなることもない。なぜなら誰も、われわれの父から、その国と力と栄 を奪い取ることはできないからである。」(カルヴァン、同上)だから、この「最後の頌栄(注 讃美)は、われわれ祈りの確信の持てない人間を解放し、勇気 を与えてくれる言葉であり、『それにも拘わらずの希望』の表現である。」(ロッホマン、同上)「われら」がなぜ「主の祈り」を祈ることができるし、祈ろう とするのか。それは、「国と力と栄えとは限りなく汝(神)のもの」であるからなのです。

 私たちはまず、「国は汝のもの」と告白し、祈ります。この言葉を、先の「歴代志」の文脈で読んでみましょう。ダビデ王は、その王の権力を息子ソロモンに 譲ろうとするその時に、あの言葉を神に向かって語りました。それは正しい認識、また謙遜な祈り、讃美です。彼は続けてこう言います。「しかしわれわれがこ のように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あ なたにささげたのです。われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。」(歴代志上29・14〜15)私たちも、内外の危 機と試練のさ中で、自分の不信仰と無力とを痛感しながらも、こう告白し祈り賛美するのです。「国は汝のものなればなり。」「国」、つまり全世界、今あるこ の世界のすべても、実はイエスの父なる神のものなのだ。だからこの言葉は、今この世を支配しているように振舞っているすべての権力、権威、力に対して常に 問いと批判をもって、時には対抗的に語られ、祈られるのです。「この世の人々から見れば知恵であっても、キリストの御国においては愚かさであり、この世で は、しばしば名誉なことが(注 神の御国では)不名誉なことや悪評になるということ、またキリストの御国は貧しい人々の国であるということ、キリストの御 国の宝は貧しい人々、死に瀕している人々、略奪を受けた人々、抑圧されている人々から成り立っているということに私たちは驚いてはなりません。」(リュ ティ『主の祈り 講解説教』より)そして何より、来たるべき「御国」は、神のものなのです。「新しい天と新しい地」によって成る「御国」は、ただ神の「御 心」によって必ず来るのです。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」「見よ、神の幕屋が人と 共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、 痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(黙示録21・1、3〜4)

 次に私たちは、「力は汝のもの」と祈ります。これこそ、弱き私たちのための福音です。なぜなら、それは私たちのあらゆる弱さをも引き受けて十字架まで歩 み、死に、そして復活された方の力だからです。「この力をほめたたえる者には、今やあらゆる弱さの中で、事実、ただキリストだけから生じる栄光に輝く力が 与えられます。今や私たちは疲れてもかまわないのです。―――今や私はまったく何の役にも立たなくなるかもしれません。精神的あるいは肉体的に病弱になる かもしれません。責任が山のように私の前に積み重なり、今にも私を押し潰しそうになるかもしれません。―――しかしながら、その時に、十字架に架けられ、 復活されたキリストによって、弱さの中にありながらも、神を拝むという奇跡が起こりうるのです。すなわち、あなたはすっかり気落ちしながらも『力は汝のも のなければなり』と語ることができるのです。」(リュティ、同上)

 続けて私たちは、「栄えは限りなく汝のものなればなり」と告白し、祈り、歌うのです。神の「栄光」とは、神の「輝き」であり、神の「すばらしさ」であ り、神の「神様らしさ」です。それは、何よりこの祈りの「主」、イエス・キリストにおいて現われました。「今やイエス・キリストにおいて、神の栄光は私た ちの上にあるのみならず私たちと共にあるのです。―――永遠の神がその栄光から出て、私たちの所に降りて来てくださった時には―――神はその栄光を惜しま ずに、あらゆる点で私たちの兄弟になることを、地上における私たちの兄弟になることを、恥となさいませんでした。」(リュティ、前掲書より)まさに、「わ たしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1・14)のです。神の「栄え」栄光は、イエ ス・キリストにおいて、私たちのただ中に、この地上に、その罪の暗闇のただ中に輝いているのです。そして、「栄えは限りなく汝のもの」なのです。主の栄光 は、「われらの祈り」のすぐそばで輝き始め、今も輝き、とこしえに輝き続けるのです。この主の「栄え」輝きの中で、私たちもその光を受け、それを反射させ て輝き、主の栄光を証しすることがゆるされるのです。「マザー・テレサはカルカッタの街で死に行く人びとに仕える働きによって栄光の輝きを放っています。 ドロシ・デイはこの社会からの報いを拒否し、ニューヨークの貧しい人々のために注いだ力によって栄光の輝きを放っています。―――彼女たちは、この世界が 拝んでいるすべてのものに抵抗した、栄光に満ちた目に見えるしるしであるからです。」(ウィリモン、ハワーワス共著『主の祈り』より)

 それでも、あるいは、「だからこそ」と言うべきでしょうか、私たちはこの祈りを祈るとき、自らの、自分たちの弱さと不信と罪深さを思わずにはいられませ ん。また私たちの狭さと身勝手と偏見また差別とを痛感せざるを得ないのです。「とてつもない祈り、身がもたない祈り」。でも、私たちは祈るのです、だから こそ祈り、讃美するのです。「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。私たちには力はない、私たちには気持ちがない、何より愛がない、だから私た ちには展望も希望もない。しかし、「国と力と栄えとは限りなく汝(神)のもの」なのです。これは、「にもかかわらずの希望と賛美」であり、「われらが祈る 理由」なのです。
 そして、私たちはこの祈りを毎週、やめることなく続けて行きます。それは、私たちのために祈り、私たちに祈りを教えてくださる方イエス・キリストもま た、いや、このお方こそ休むことなく、決してやめることなく、「御国」を求め続け、「神の国」がこの地に来ることを求める信仰の旅を、私たちと共に続けて いてくださるからなのです。
 「私たちは『み国をきたらせたまえ』と祈り、そして『限りなく』と祈ります。神の国はここにありますが、しかし同時に、ここにある神の国は完全なもので はありません。神の国は今ここにあります。しかし同時に、永遠に待ち受けられるべきものなのです。教会は神の国の前触れとなることができますが、どの教会 も神の国そのものではありません。今なお悪がはびこり、痛みは痛みとして、悲劇は悲劇として存在しています。神は、私たちを、あるいはこの世界を、まだ完 成してはおられないのです。私たちはその道の途上にあり、旅の終着点にはまだたどり着いていません。神の恵みによって、旅を続けることがゆるされているの です。」(ウィリモン、ハワーワス、前掲書より)

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 主イエスから教えられたこの祈りを祈るとき、私たちはいつも自らの弱さと不信と罪を痛感いたします。しかし、だからこそ、私たちは祈ります、「天にまし ます我らの父よ」。また、だからこそ私たちは祈り、讃美するのです、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。どうかこの祈りと讃美、そこに表さ れた約束と希望とによって、私たち一人一人また教会を、いつも慰め、力づけ、この世へと、それぞれが送り出され生かされているその場へと押し出してくださ い。そこにおいて、あなたによって出会う「われら」すべて、その一人また一人と共に生き、その「一人」に仕えて生き、働く私たちとしてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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