イエスと共に祈り、立ち向かい、共に立つ           
                 
マタイによる福音書第6章9〜13節
                            第4章1〜11節


 「主の祈り」の中の「願い」の祈りとしては最後の言葉となります。「試み」に関する祈りです。「我らを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ」。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」
 今まで何度も申し上げてきましたが、これは「主の祈り」、イエスの祈りです。この祈りの中心には、イエス・キリストが立っておられるのです。イエスもま た、いえ、イエスこそ「試み」にあわれました。マタイによる福音書第4章の「荒野の誘惑」です。何より、誰よりイエスが「われら」に先立ってこの祈りを祈 り、「われら」のためにこの祈りを祈っていてくださるのです。

 さて、イエスからこの祈りを聞かされ、イエスからこの祈りを教えられて、私たちは全く新しく知らされることが数多くあります。それによって私たちは、自 分自身の「祈り」、自分たちの「願い」というものを、改めて考えさせられるのです。「救いとは、私たちを悩ませていることすべてに対する解決方法のことで あるかのように扱われることがどんなに多いことでしょう。『孤独な方はいらっしゃいますか? 主イエスのもとに来てそれを解決してください』。―――『悩んでいる方はいらっしゃいますか? 教会に来て、あらゆることに対する答えを見つけ出してくだ さい』。福音がこのように表現されるとき、救いとは、あなたが抱えている問題すべてを解決することであり、あなたを悩ませているものが何であれ、それを解 決してもらう方法であるとされるのです。」(ウィリモン、ハワーワス共著『主の祈り』より)しかし、「主の祈り」から私たちが聞き、学ぶのは、「救い」と は私たちの悩みの解決ではない、ということです。この祈りそのものが「救い」を端的に表しています。「天にまします我らの父よ」。このように神に呼びかけ る者とされたということ、事実このように神に向かって、イエスと共に私たちもまた呼べるということ、これこそが「救い」にほかなりません。「天の父」との 生きた愛の関係の中へと呼ばれ、招き入れられること、それこそが救い主イエス・キリストの「仲保・仲立ち」であり、「贖い」であり、「救い」なのです。

 そのとき、「天にまします我らの父よ」と神に呼びかけて祈り、生き始めるとき、「試み」もまた私たちの前に立ち上がって来、問題となります。「天の父 よ」と呼びかけ、祈るということ、それは「天の父」なる神の道、神が思い、願い、歩まれる方向へと、私たちもまた移され、向けられ、導かれるということで す。この道、この歩みは、罪に生きようとする「この世」から離れ去ることであり、「この世」に逆らい、「この世」に抗って歩むことになります。これからバ プテスマを受けようとする方々に、必ず私がする話があります。それは、「イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、クリスチャンとして信仰に生きるとい うことは、激しく流れる川に踏み入り、その流れに逆らって歩いて行くようなことです」ということです。「この世」は、罪の世です。その意味は、「悪いこと がいっぱいある」ということよりも、「神を知らず、神に逆らい、神なしに」ということです。「この世」とその人々は、そもそもこの聖書の神、イエス・キリ ストの神を知りません。だから、圧倒的に多くの人々は、「神様なしに」、神のことを考えず、神に頼らず、「神様なんていない」かのように考え、行動し、生 きています。それが聖書が言う「罪」、神に逆らい、神から離れ、神に背く道なのです。この流れは圧倒的です。この世のほとんどの人がそのように歩み、生き ることによって、その流れは強さと激しさを増して、とうとうと流れています。でも、神を知り、「天の父よ」と呼び始めるとき、私たちはそのとうとうたる流 れの中に足を踏み入れ、あえてその流れに逆らい、逆方向へと歩み出すことになるのです。「神を信じ、神に聞き、神に従って生きよう」とする方向です。
 そのとき、まさに「試み」がやって来るのです。激しい流れに逆らって歩もうとするなら、当然強い抵抗と歩きにくさを感じるはずです。「試み」とはまさに それなのです。だから、「試み」は確かにあるし、必ずやって来るのです。正直に言えば、「試み」とういうものをなしにする、ゼロにすることはできません。 だからイエスも、「試みをなしにしてください」とは祈らずに、「試み」は当然あるしやって来ることを前提として、「われらを試みにあわせず」と祈られたの だと思います。
 「試み」、意外なようですが、それは時に「美しい姿」「正しい姿」「有無を言わせず納得せざるを得ないような姿」で現れます。それは、あの主イエスの 「荒野の誘惑」の通りです。「悪魔は―――二本の牙があったり、しっぽがはえていたりして、いかにも『悪魔でございます』という顔をして登場するわけであ りません。ある時はやさしいおじいさんであったり、またあるときはうっとりする美女であったり、変幻自在です。最初は、それが悪魔だとわからないところに こそ悪魔性があるのではないでしょうか。―――主イエスのところに、悪魔は賢い助言者のようにして近づいてきたのでした。」(松本敏之『マタイ福音書を読 もう1』より)だからこそ、私たちは祈るし、祈らずにはいられないのです。「われらを試みにあわせず、悪より救い出だしたまえ」。

 では、その「試み」「悪」とは、いったい何でしょうか、どんなことなのでしょうか。これについては、極めて多くの人々が数多くのことを語っておられますが、今日私は特に二つのことを申し上げたいと思います。
 一つは、この「試み」とは、大変に具体的な事柄であったという説です。私はこの夏コロナ感染症などのために、長く家にいることを余儀なくされましたが、 その利点もありました。それは、いつも以上に色々な本に触れ、それを読めたことです。その中に、クロッサンというアメリカの神学者の「主の祈り」に関する ものがありました。クロッサンは、この「試み」とは何かについて、こう言います。「この『誘惑』の内容は―――イエスの生涯の前、その間、またその後の、 非暴力で抵抗するのかあるいは暴力で抵抗するのかという選択肢を前提にしています。特に、ローマの暴力的支配に対して暴力的に抵抗する誘惑へと『私たちを 導き入れる』――そう、私たちを導き入れる――ことをしないでほしいと願っているのです。その代わりに、むしろそのような悪しき行為、あるいは悪しき者か ら私たちを救い出してほしいと、神に願い求めているのです。言い換えれば、神の名を崇め、神の国を打ち立て、それによって神の意志が『天にあるように地に も』成就するよう働く時にさえ、むしろそうする時にこそ、暴力を回避するということです。」(クロッサン『最も偉大な祈り』より)それは、まさに現代の私 たちの「試み」「誘惑」でもあるのではないでしょうか。現代の戦争の時代、とりわけ現実に戦争が今なお続いているこの時、私たちもまた「教会も、非暴力と 平和主義の信仰を捨てても仕方がない」と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。「『話し合いで平和がやってくるなんて、頭の中がお花畑の平和ボケ が言っていること。ロシアのウクライナ侵攻を見ればわかるだろ!』そんな声を聞くようになりました。」(久保木聡、『いのちのことば』2022年8月号よ り)それは、「仕方がない」と言ってしまう誘惑です。「この世の有様は仕方がない。だからある程度、あるいはかなりの程度でも、教会や私たち信仰者たちが 『現実』に妥協して語ってたり行動したりしても、仕方がない。」しかし主イエスは、私たちのために祈り、教えられます。「われらを試みにあわせず、悪より 救い出したまえ」。「『剣を取る者はみな剣で滅びます』と主イエスは語ります。―――武装することには同意できませんが、安心・安全を求める気持ちには共 感できます。できることなら、その人の友となり、その不安に寄り添い―――そんな中でこちらの思いに耳を傾けてくださる日も来るでしょう。それがわたしな りの花の植えつけです。そうやって、お花畑を広げていけたらと願うのです。」(同上)

 もう一つのことは、『世の光』の今年の9月号に載りました、西南学院宗教主事の劉ぶん竹先生のお証しです。先生が教会の働きに献身される前の出来事で す。「入社して半年後に会社が経営不振に陥り―――会社が吸収合併されてしまいました。―――新しい運営体制により仕事の割り振りが不平等になり、元社員 たちは立場的に意見を言えない状況となりました。ある日、これらの問題が明るみに出る小さな『事件』が社内で発生しました。その事件をきっかけに会社の運 営体制に対して自分の意見を伝えたところ、翌日の朝、社長室に呼ばれました。『あなたはもう明日から来なくてもいい』と突然解雇を言い渡されたのでした。 本当にショックでした。―――家族を失望させたくない、心配もかけたくないとばかり考えて、『もう一度チャンスをください』と社長の前で頭を下げながら、 『おとなしくするから、二度と意見を言わないことを約束する・・・・』と自分でも疑うような言葉で交渉し始めたのです。」(劉ぶん竹「もう一度チャンスを くれないか」より、『世の光』2022年9月号)これこそ「試み」「誘惑」だと思いました。自分を守るために、悪に自分を売り渡し、奴隷となる。劉先生の この交渉が成功していたなら、先生はまさにこの社長、この会社の「奴隷」となってしまわれたでしょう。今後そこでどんな不平等、不正、悪が行われたとして も、口をつぐんで黙認し、傍観する。私たちの前にやってきて、私たちを時に脅し、特に甘く誘惑するその悪に引きずられ、悪に従ってしまうことです。「そう いう者にはしないでください、私たちを決してそのような者にしないでください。」それがこの祈りで祈られ、願われていることではないでしょうか。「われら を試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。劉先生のあの願いは受け入れられず、失業されることになります。しかし、それが教会へ行き、信仰を求めるきっ かけとなり、イエス・キリストを信じ、献身をして行く出発点ともなったのです。それを振り返ってこう言われます。「『もし最初の就職先で私の願う『チャン ス』を手に入れることができていたなら今、自分はどうなっていたのだろう』と。」それは、「もしそうだったら恐ろしい、そうならなくてよかった」という思 いではないでしょうか。先生のためのこの祈りは聞き届けられたのではありませんか。「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。

 この祈りを祈る者は、「平穏に」「安楽に」生きられるのでしょうか。苦しみも災いも何もない「安全地帯」「温室」のような所へと移されるのでしょうか。 もしそうなら、イエス・キリストは十字架にかからなくても良かったことでしょう。しかし事実、イエスは「荒野の誘惑」に勝利してから、その公生涯を始めら れ、その苦しみと試練の道を歩み始め、ついにあの十字架の死にまで至られたのです。
 私たちにおいても、そうなのだと思います。イエス・キリストを信じ、イエスと共にこの祈りを祈ることは、一つには「立ち向かう」ことです。この世にいつもあり、いつも私たちの前へとやって来る「悪」に立ち向かい、逆らい、そして神に従うことです。
 そして、イエスと共にこの祈りを祈ること、それは二つ目には「共に立つこと」です。既にイエス・キリストが私たち一人一人のために、そして「この世」に ために祈り、共に、連帯して、共感的に、罪を引き受け担い、「とりなし」をもって立たれたように、私たちもまた「われら」のために祈り、歩み、語り、行動 することです。「ある人がイエス・キリストにおいて救われたならば、その人はこの世のいかなる災いや欠乏を見る時にも、この祈りへと駆り立てられ、とりわ け、いかなる不正を見る時にも、この最後の祈りの必要性を感じさせられ、この最後の祈りの約束の中に招き入れられます。その人は、そもそもそこの世の悲惨 さや戦争や飢饉やペストや地震を我慢することができなくなります。その人はもはや『これらすべてのことは運命であり、それゆえに変えることはできない』と いうことができなくなります。その人は今やこの世の悲惨さに対して、どんな状況にあっても、私たちにできることがあることを知っています。すなわち、沈黙 するのではなく『我らを救い出したまえ、我らをそこから救い出したまえ!』と叫ぶことができるのです。」(リュティ『主の祈り 講解説教』より)
 それは、確かに葛藤や迷い、さらに苦しみをも味わい、経験することでもあると思います。私たちの信仰の経験がそれを証ししています。しかし、最初に申し 上げたことを思い出していただきたいのです。これは「主の祈り」、救い主イエス・キリストの祈りです。イエスこそは、私たちに先立って、私たちのために 「荒野の誘惑」を受けられ、この祈りを祈られ、そして勝利を取られました。イエス・キリストは、「御名と御国と御心」のために、その後あえて十字架の道を 歩まれ、そして復活の勝利へと至られました。このイエス・キリストが、私たちと共におられます。私たちと共に祈り、私たちと共に歩み、私たちと共に生きて いてくださるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 私たちに日々やって来る試み、誘惑、悪においても、主イエスが共にあり、共に歩み、共に生きてくださることを感謝いたします。私たちをもご自身の十字架 と復活の道へと招き入れ、私たちをも、苦難にもかかわらず復活の勝利へと至らせてくださる恵みを心より感謝いたします。どうかあなたの道を、今週もあなた と共に歩ませてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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