ゆるしの第二幕を祈り、生きる           
               
マタイによる福音書第6章9〜15節
                      第18章26〜35節

  「主の祈り」の前回の分に引き続き、「われらの罪」に関する祈りです。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしく ださい。」この祈りは、いわば「第二幕の祈り」です。それは、前回も読みましたマタイ福音書18章と併せ読むと、よくわかります。
 そこでわかりますことは、「ゆるし」には「第一幕があった」ということなのです。18章のたとえでは、「一万タラント」という莫大な負債を抱えた男が、 王の前に引き出されて来ました。それは、前回見ましたように、なんと「16万年分の賃金」という、私たちの想像や秤をはるかに超えた、とんでもない額だっ たわけです。到底返すことなどできない、「一生かかったってできない」、いや、もう一人の人間という枠組みを超えるような、それほどの数字だったのです。 しかし、なんと王は、この彼の負債を、ことごとくゆるし、一挙に帳消しにしてくれたのです。その巨大な負債をいっぺんになしにし、ゆるしてしまったので す!そしてその男を自由にしてやったのです。「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」なんという気前の良さ、なんという恵み 深さ! イエス様はこうおっしゃりたいのです。「私たちは、これほどの赦しを神から受けている者だ。」神の赦しが先立っている! 一方的に、圧倒的に、そして無条 件で、神の赦しが先立っている!そうです。神の圧倒的な赦しが、「第一幕」として先にあるのです。
 この大いなる赦しの神を「天の父」と呼べる、そういう者へと私たちはイエス・キリストによって移され、変えられたのです。。これこそが、救い主イエス・キリストの「仲保、仲立ち」であり、「贖い」であり、「救い」であったのでした。

 そういう者としての私たちに、イエスによってこの祈りが「第二幕の祈り」として与えられたのです。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わ たしたちの負債をもおゆるしください。」あの大いなる「第一幕」を踏まえて、ゆるしの「第二幕」として、改めて「負債」が問題となるのです。それは、「わ たしたちの負債」です。それは、前にも言いましたように、専ら「人と人との問題」です。「負債」とは、私たちと他の人との間で起こること、人と人との間で 起こる様々な事柄、事件が問題になっているのです。それはまさに「負債」、貸し借りであり、ある人が他の誰かに対して一方的に負担をかけているという状態 です。それは一つの比喩であり、具体的に挙げるなら、それはわたしがだれかから負担をかけられていることであり、時には迷惑をかけられることであり、また 損害を受けることであり、さらには何らかの被害と言えるようなことを受けることなのです。そういう、人と人との間の葛藤、行き違い、トラブル、争いといっ たことが問題とされているのです。
 またそれは、単に個々人の間の事柄に留まりません。それは社会的な問題へと、広がりと深まりを見せて行きます。「すなわち、糧と罪との間には特別な結び つきがあるということ、生活の糧を得るための私たちの闘いや、生活の糧に関する私たちの不安は、ことのほか、私たち人間が互いに対して罪を犯す原因となる ということです。罪はいわば社会的性格を有する」。(リュティ『主の祈り』より)「つまりわれわれは、われわれが考えているよりもずっと頻繁に他人を犠牲 にして日毎のパンを食し、それを得るために戦っている―――それはわれわれが今日の社会で特権階級に属する者、またその民族の一員であることによって証明 される。したがってわれわれはそのことに気がつかず、気がつきたいと思わないまさにその時に、負い目との関係、負い目の状態の中に巻き込まれているのであ る。」(ロッホマン『われらの父よ』より)それは、「この世」の罪です。神が愛し、関心を持ち、しかし互いの間で罪を犯している「われらの負債」の問題で す。イエスは、その「世」にあって、その「われら」のために互いに祈れと、この祈りを私たちに与え、教えられました。「「わたしたちに負債のある者をゆる しましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」「赦しを願う祈りの中でキリスト者が考えているのは自分のことだけでなく、『この世の罪』のこ とである。キリスト者は、罪に巻き込まれた人類すべてと連帯的に結ばれて祈るのである。」(ロッホマン、同上)

 その「第二幕」では、「百デナリ」が問題です。「その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い」(18・28)。「王の宮殿」からゆ るされて外に出た彼が最初に出会ったのは、彼が「100デナリ」を貸していた彼の「仲間」友人だったのです。この「百デナリ」という金額、それは実は相当 大きな額なのです。前回のお話の中で、当時のお金を考える上で基準となる単位をご紹介しました。それが「デナリ」でした。「1デナリ」は、当時の平均的な 1日分の賃金でした。では、「百デナリ」は? もうお判りですね。そう、百日分、つまり約三か月分の賃金です。皆さんだったら、どうですか。三か月分の賃 金に当たる額を、簡単に見過ごせますか。「百デナリ」、それはかなりの額のお金なのです。そこで彼は、その「仲間」に対してこのように行動しました。「彼 をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし、承知せずに、その人 をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。」(18・28〜30)「百デナリ、それほどの借金は、なにがなんでも返してもらわなきゃ。借金を返すの は当たり前のことだよ。返せないなら、ひどい目にあっても仕方がないね。」それは、実はかなり「常識的」な、「普通」の言動です。とりわけ、私たちも生き ているこのような社会にあっては、です。「つねに人間は他の人間に貸したものを催促します。私はお前のために何かをしてやったではないか。お返しをしても らおう。お前は私を侮辱して怒らせたではないか。お返しをしてもらおう。お前は私より弱いではないか。私の助けた分を返してもらおう。お前は他の集団に属 しているではないか。その埋め合わせをしてもらおう。お前は私とは違っている。その埋め合わせをしてもらおう。」(ゴルヴィッツァー『新しい天と新しい 地』より)それは、一言で言えば「自己責任」と「責め合い」によって成り立ち、回っているような世界です。
 しかし、しかし、あの「第一幕」の出来事こそが、彼自身が受けたあの大いなる、驚くべき恵みこそが、この「普通」の無慈悲と非寛容とを、徹底的に「おか しなもの」「愚かなもの」「もはや決してあってはならないもの」とするのです。私たちの間の「百デナリ」、それは確かに大きなものです。しかし、あの「一 万タラント」のゆるしを前にするなら、その意味と価値とは一変するのです。だからこそ、この「一万タラントのゆるし」を踏まえるからこそ、イエスはあえて こう言われたのです。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆる さないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」だからこそ、イエスは私たちにこう祈れと教えられるのです。 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」
 それはすなわち、このイエス・キリストによって、「ゆるす」という全く新しい生き方へと押し出され、送り出され、歩み出させられることです。「私たちに ゆるすことを命じられるとき、主イエスは私たちを招き、私たちに責任を委ね、この世界の方向を転換させ、永遠に続く怨念と復讐のいたちごっこの輪を断ち切 らせようとしておられるのです。私たちはじっと黙って痛みに耐え、敗北を甘受し、うずくまり、自分たちが食らった一撃を相手に返すことができるようになる 日を待つ必要はありません。私たちは主導権を握り、方向を転換させ、犠牲者にではなく勝利者になることができます。私たちにはゆるすことができるので す。」(ウィリモン、ハワーワス共著『主の祈り』より)

 私たち、イエス・キリストを信じ、「主の祈り」を与えられ、教えられ、週ごとに祈る、私たち教会に委ねられた使命と働きは、あの神の大いなる「一万タラ ントのゆるし」を聞き、語り、讃美し、指し示すことです。「互いにゆるし合う勇気は、私たちがすでにゆるされた存在であることに目覚めることから生まれる 謙虚さから始まります。ゆるしは贈り物であり、しかも私たちが誰かにそれを贈ることができるようになるよりも前に、まず私たちに与えられた贈り物です。で すから、教会は毎週日曜日、私たちがすでにゆるされた者としてここに集っていると繰り返して語り、私たちを目覚めさせます。それは、そうすることによっ て、ゆるすことのできる勇敢な魂を生み出したいと願っているからです。」(ウィリモン、ハワーワス、同上)
 そしてまた私たち教会の使命と働きは、この「一万タラントのゆるし」を覚えるからこそ、今ここで、私たちのただ中で、そして私たちも生きているこの社 会、この世界の中で、「百デナリのゆるし」に生きるよう、互いに呼びかけ、招き、励まし合うことです。「信仰者の生活は、特に、赦しの生活であります。教 会は、愛の生活と言いますが、ほんとうは、赦しの生活です。この人間の生活は、愛し合う生活である、とだれでも願うのですが、ただの愛の生活でありませ ん。愛することができないわれわれであります。それなのに、愛と言っても仕方がないのです。不完全な愛によってしか生きられないとしたら、それを赦し赦さ れる生活にしなければなりません。」(竹森満佐一『講解説教 山上の説教』より)「あなたは支払いの代わりに憐れみを受けたのだ。だから赦しなさい。あな たのかたわらにいる人があなたと異なっており、あなたより弱いことを赦しなさい。その人が怒っており、あなたにとって重荷となっていることを赦しなさい。 その人があなたに借りをつくっていることを赦しなさい。その人を生かし、その人が生きることができるように助けなさい。死の世界、ある人が他人につかみか かって支払わせる世界の中に、新しい生活態度を持ち込みなさい。」(ゴルヴィッツァー、前掲書より)
 それは、意外なようですが、実はそこまで大きなことではありません。「一万タラント」を赦された人に求められたのは、「一気に借金をなしにする」ことで はなく、ちょっとだけ、もう少しだけ「待つ」ことであったのです。「ちょっとしたこと、小さいこと」、「ちょっとした」忍耐とゆるし、「小さな」配慮と工 夫と努力から、主イエスに従う道は始まるのです。

 「しかし」「それでも」と思うでしょうか。「しかし」「それでも」と思ってしまうような私たちなのです。でも、「だからこそ」祈るのです。「これは、主 イエスが私たちに『こう祈りなさい』と教えられた祈りです。ですから口ごもりながらでも『わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように』と祈れば いいのです。そう祈ることが許されているということであり、『そう祈れ』という命令でもあります。そして、『私も人を赦せる人間になろう』と祈るたびに決 意を新たにするのです。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)「だからこそ」私たちは、主イエスに教えられ、主イエスに導かれ、主イエスと共にこ う祈るのです。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 私たちは、あなたによって大いなる、驚くべき赦し、「一万タラント」の赦しをいただきました。イエス・キリストこそ、十字架の道を歩み復活へと至ったその全生涯によって、この「赦し」を私たちのために開き、成し遂げ、与えてくださいました。
 だからこそ今、イエスは、私たちに向かって「こう祈れ」と教え、招かれます。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもお ゆるしください。」「一万タラント」を赦された者だからこそ、私たち一人一人また教会も、互いの「百デナリ」を待ち、ゆるし合うことができますように。ま たこの「ゆるし」に基づく新しい生き方と道、「新しい天と地」への希望を、今なお「自己責任」と「責め合い」と「罪」とによって生きてしまっている「この 世」に向けて指し示し、語り行い証しし、分かち合って行くことをさせてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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