大いなる赦しの中でゆるしを祈る           
             
マタイによる福音書第6章9〜15節、第18章21〜27節

  こうして「主の祈り」から共に聞く中で、つくづく感じるのは、これは本当に「とてつもない祈り」だということです。まともに考えて行くならば、「とても祈 れない」と思われるような内容と深みを持った祈りなのです。でも、私は思うのです、だからこそ祈るのではないでしょうか。私たち人間が、自分の考えや力で たやすく祈れ、できることだったら、何もわざわざイエス様から教えていただいて、祈る必要はないのです。「私たちにはとてもできない」と思われるようなこ とだからこそ、イエスに聞き、イエスについて祈るし、祈らずにはいられないのではありませんか。
 順番では、今日から「罪の赦し」に関する祈りです。これを、今回は2回に分けてお話しします。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪を も赦したまえ」、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」。これもまた「とてつもない祈り」、簡単には 決して祈れない祈りなのです。三浦綾子さんの小説の中で、どの小説かは忘れてしまいましたが、ある登場人物が、いつも「主の祈り」のこの部分でためらい、 立ち止まってしまうという記述がありました。それは、いつもここで、「ゆるせないと思う人の顔が浮かんでしまうから」ということでした。

 「罪のゆるし」という内容、主題もさることながら、私たちは、この祈りの内容が展開される、その順番に驚き、つまずくのではないでしょうか。「われらに 罪を犯す者をわれらがゆるすごとく」、それが最初に来ているのです。これをこの順番で聞くと、何か「私たちが他の人をゆるす」ことが、私たち自身が神から ゆるされるための「条件」のように聞こえ、思われます。「私たちが人をゆるす」、そのことに応じて、その私たちが人をゆるすその度合い、その程度に応じ て、それらと全く正比例して「私たちも神からゆるされる」のだ、というふうに読めるのです。それは、私たちの今までの信仰的な常識・経験からするならば、 あまりにも「律法的」であり、「福音的でない」ように思われるのではないでしょうか。「神の恵み、神の赦しが、まずなによりも先に、最初に来るべきではな いか。神の赦しが先にあるので、何よりも先に神様が私たちを赦し、恵みによって私たちの罪を赦してくださるので、それに応えて私たちも他の人を少しはゆる そうかという気持ちになる」、ということではないのだろうか。「それくらいだったら、私たちにもできそうだし、祈ろうか、ゆるそうかという気になる」ので はないでしょうか。
 しかしイエスは、このすぐ後のところで、「罪のゆるし」についてはわざわざ説明をつけて、さっきの私たちの疑問を大きくし、つまずきを補強しています。 「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなた がたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」これは、もう疑問の余地がありません。私たちが他の人の罪あやまちをゆるすなら ば、それをまさに「条件」のようにして、「天の父」も私たちを赦してくださるし、もしも私たちが人の罪をゆるさないならば、それに応じて神もまた私たちを 赦されないだろうと、イエスは告げるのです。
 これは、いったいどういうわけなのでしょうか。イエスの真意は、どこにあるのでしょうか。その答えの糸口となることがあります。それは、私たちがいつも 毎週祈っている、この「主の祈り」の中の「われらに罪を」や「われらの罪を」の「罪」は、実は「罪」であって「罪」ではないということです。まさに聖書の 訳が、それを示してくれています。「負債」と訳されているのです。別の訳の聖書では「負い目」とも言われています。「負債」「負い目」、つまり「借金」な のです。言葉の響きが、急に生々しくなってきました。「負債」。そうです。つまり私たちにとって、より「具体的」であり、より「現実的」と思えることが問 題になっているのです。それは、まさに私たちと他の人との間で起こること、人と人との間で起こる様々な事柄、事件が問題になっているのです。それはまさに 「負債」、貸し借りであり、ある人が他の誰かに対して一方的に負担をかけているという状態です。それは一つの比喩であり、具体的に挙げるなら、それはまさ にわたしがだれかから負担をかけられていることであり、時には迷惑をかけられることであり、また損害を受けることであり、さらには何らかの被害と言えるよ うなことを受けることなのです。そういう、人と人との間の葛藤、行き違い、トラブル、争いといったことが問題とされているのです。

 では、「罪」の問題は、どうなっているのでしょうか。この場合の「罪」とは、神様との間の私たちの問題を意味しています。その「罪」は、どうなっている のか。「それは、すでに解決済みだ」というのが、イエスの答えです。それを示すために、同じ「マタイ福音書」第18章で、イエスは一つのたとえを話されま した。実は、ここも「負債」の話なのです。しかしそれは、もう「負債」とは言えないような「負債」、「負債」の次元を超えてしまった「負債」の話です。そ れは、「一万タラント」という莫大な「負債」です。「天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のと ころに連れられてきた。」(18・23〜24)イエス様は、「『負債』という言葉をあえて使うなら、あなたがたと神との間の『負債』とは、こうだ」という つもりで、これを話されたのではないでしょうか。
 皆さん、この「一万タラント」という数字がいかに凄まじいものかおわかりになるでしょうか。一つの「ものさし」となる数字をご紹介しましょう。それは 「一デナリ」です。「一デナリ」は、当時の標準的な労働者の一日分の賃金であったとされています。あの「一万タラント」は、「六千万デナリ」に当たりま す。それで、これがどれだけ期間分の賃金かということを知るために、この「六千万」という数字を、「一年365日」で割りますと、驚くなかれ、これは 「16万4千3百83年と半年分」の賃金ということになるのです! こんな借金があるということ自体、驚きです。一人の人がこんな莫大な負債をこしらえる ことができるということそのものが、あり得ないような話なのです。それでも男は、王に「どうぞお待ちください。全部お返ししますから」と言って懇願しまし た。しかし、あの巨大な負債額を思うとき、それは虚しく響く弁解の言葉にしかなりません。到底返すことなどできない、「一生かかったってできない」、い や、もう一人の人間という枠組みを超えるような、それほどの数字なのです。
 なぜ、イエス様は、こんな途方もない数字を出されたのでしょうか。主イエスは、ご自身のすべての譬えを、「神の国の譬え」として話されました。これは 「神の国の話」なのです。それは、神様の前に、この世界を創り、私たち一人ひとりをお創りになった神の前に、私たち人間とはそういう者なのだ、ということ ではないでしょうか。神の前に、私たちは皆、到底返せない負い目、罪を負っている者だということではないでしょうか。「イエスがこのような巨大な負債額を 選んだのは、罪の問題に関しては、神の審きの前では―――聖なる神の光のもとにさらされた者は、もはや自己弁護しなくなります。自分はもうだめだ、自分は どんな正しさも失った、ということを知るようになるからです。」(ゴルヴィッツァー『新しい天と新しい地』より)

 しかし、ここに驚くべきことが起こりました。その王、その主人は、その負債の返済を待ってやるどころか、なんと、その巨大な負債をいっぺんに帳消しに し、ゆるしてしまったのです!そしてその男を自由にしてやったのです。「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」なんという気 前の良さ、なんという恵み深さ! イエス様はこうおっしゃりたいのです。「私たちは、これほどの赦しを神から受けている者だ。」神の赦しが先立っている! 一方的に、圧倒的に、そして無条 件で、神の赦しが先立っている!
 その証拠が、この「主の祈り」そのものです。「天にまします我らの父よ」、この呼びかけそのもの、私たちが神に向かってこう呼びかけることができるとい うことそのものが、すでに「奇跡」なのです。イエスが、そう神を呼ぶようにと、私たちを招き、教えてくださいました。聖書が語る「罪」とは何でしょうか。 それは「関係」のことであり、「関係の断絶」であり、「関係の拒絶」です。私たち人間は、神から離れ去り、神を信じ認めず、神とその御心に逆らう者でし た。神との間に、「罪」という巨大な拒絶、断絶が立ちはだかっていたのです。私たちは、決して神を「天の父」とは呼べない者たちであったのです。しかし救 い主イエス・キリストが、その私たちと神との間に立ち、私たちと神とを再び結び付け、私たちを神の前へと連れ戻り、神との関係を全く新しく回復してくだ さったのです。そしてまさにこのように神を呼べる者へと、私たちを創り変えてくださったのです。「天にまします我らの父よ」。これこそが、イエス・キリス トの仲保・仲立ちであり、贖いであり、救いなのです。

 そのように圧倒的に神から赦されたあなたがたは、これからどう生きるのか。この「大いなる赦し」を受けたあなたがたは、これから、あなたと他の人々との 間で、人と人との間でどう生きるのか。それが、この祈りによってイエスから問われ、教えられ、導かれていることです。「われらに罪を犯した者をわれらが赦 すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。「彼が宮殿の門の前に歩み出るやいなや、全世界が―――天使も人間も―――彼を取り囲みます。そして全世界がかた ずをのんで彼を見守っています。事態は今後どうなるのだろう。あれほどの特別な経験をしたこの人は、今後どんな生き方をするのだろう。」(ゴルヴィッ ツァー、前掲書より)
 私たちが生きている「この世」とは、このような言葉によって動かされているのだというのです。「つねに人間は他の人間に貸したものを催促します。私はお 前のために何かをしてやったではないか。お返しをしてもらおう。お前は私を侮辱して怒らせたではないか。お返しをしてもらおう。お前は私より弱いではない か。私の助けた分を返してもらおう。お前は他の集団に属しているではないか。その埋め合わせをしてもらおう。お前は私とは違っている。その埋め合わせをし てもらおう。」(同上)そのような世界で、私たちは、あの「大いなる赦し」を受けた者として生きるのです。「あなたは支払いの代わりに憐れみを受けたの だ。だから赦しなさい。あなたのかたわらにいる人があなたと異なっており、あなたより弱いことを赦しなさい。その人が怒っており、あなたにとって重荷と なっていることを赦しなさい。その人があなたに借りをつくっていることを赦しなさい。その人を生かし、その人が生きることができるように助けなさい。死の 世界、ある人が他人につかみかかって支払わせる世界の中に、新しい生活態度を持ち込みなさい。神ご自身がイエス・キリストにおいてそのような生活態度を教 えており、あなた自身がそれによって生かされており、イエスがあなたを強めてそのような生活態度を取ることができるようにしてくださっているからです。」 (同上)
 それは、「天の父」の前で「われら」のために祈って生きることですから、すべての人に関わる、すべての領域での、すべての事柄に関わる生き方です。です から、それは決してたやすい生き方ではないかもしれません。「かつて日本軍は、中国で『新兵教育』とか『度胸試し』だとか言って、柱に縛り付けた捕虜や民 間人を銃剣で刺し殺したという証言がいくつもあります。―――そういう時に新兵の誰かが、『わたしにはこの人を殺す理由はありません』と言おうものなら、 どれだけ酷い目にあわされるか分かりません。―――『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』なんてことを言うイエス様は、正気を失っていると思われて 当然です。―――愛と赦しに生きることは、敵意と憎しみが肯定される世界の中では異常なことであり、時に命がけのことです。自分に罪を犯した者を赦すこと ができるようにという祈りは、常軌を逸した祈りなのです。」(及川信『主の祈り』より)
 「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。しかし、私たちに先立ってこの祈りを祈り、生き、十字架の道を歩み通して、復 活と勝利に至られた方、イエス・キリストが、私たちと共におられます。今週も、このお方と共に歩み、生きてまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ。御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエス・キリストにより、私たちは罪から贖われ、救われて、あなたに向かってこう呼びかけ、祈る者とされました。「天にまします我らの父よ」。この大い なる赦しの中で生かされている私たち一人一人また教会も、お互いの間で、またすべての人に向かってこのように祈りながら、語り、行い、生きて行くことがで きますように。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る