共に食してくださる方と共に祈る           
                  
マタイによる福音書第6章9〜13節
                    マルコによる福音書第8章1〜8節

 「主の祈り」は、「聞く祈り」であるとお伝えしてきました。イエスが私たちに先立ってこの祈りを祈られるのを聞くときに、私たちのまったく知らなかったこと、聞いて驚くことが数多くあるからです。
 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」。「主の祈り」は、ここから後半に入ります。前半 は、神のための祈りでした。神の「御名」「御国」「御心」のために祈ったのでした。そして後半は、「われら」、つまり「私たち」人間のための祈りです。も うこれが、既に驚きでしょう。私たちはたいてい、まず自分のこと、せいぜい「自分たち」「自分の周りの人たち」という意味で、大変狭い意味での「われら」 のことを、最初に祈ろうとするからです。神様ご自身のことなど、祈ることはおろか、考えもしないように思います。しかしイエスは、何よりも神のことを先に し、神のことを祈ろうとなさるのです。
 さて今日の祈り、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」、ここの一番の驚きは、「われら」のための祈りの、いちばん最初に「糧」が問題になっていると いうことです。その次に、その後に「罪の赦し」が来るのです。この順番は、とても大切だと思います。イエスが「われら」のために祈ろうとされるときに、い の一番に祈られたのは「糧」のことであった。
 私にとっての今までの、宗教的・信仰的常識はこうでした。「神様との間の、私たち人間にとっての一番大切な問題は、『罪』だ。『罪』こそが、私たちと神 との間を隔て引き裂いている根本的で最大の問題。だから、『糧』とかこの世の物質的なことよりも、『罪の赦し』の方が大事。」しかしイエスは、その私たち の「常識」を、私たちの予想を、見事に「裏切る」のです。イエスはこう祈り、こう教えられました。「『われら』のためには、まず何よりも『糧』を求め よ」、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。いったい、なぜなのでしょうか。なぜイエスは、よりによって「糧」のことを「われらの祈り」の一番先に 持って来られ、「罪の赦し」にさえも先立たせたのでしょうか。

 まず言えることは、イエスが見ておられた世界、今も見ておられる世界は、「神の創造の世界」であるということです。「神の国」と「この世」が、それぞれ 独立して別々にあって、それぞれがそれぞれのやり方で勝手に動いているわけではないのです。イエスにとっては、一つの世界があるだけ、神が創造された一つ の世界があるだけなのです。そして、何よりそれは、神の御子であったイエスがまったき一人の人間となって、入って来られた世界であるということです。「遂 に神ご自身がイエス・キリストにおいて物質の中に入ってきてくださったという事実こそが、新約聖書全体の初めと終わりであり、その聖なる中心なのです。 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』〔ヨハネによる福音書一章一四節〕。―――キリストが人となられたがゆえに、社会問題、すなわち胃袋に関す る問題は神の問題となりました。神は私たちの肉体を真剣に取り扱ってくださるのです。神ご自身が肉体を受け取り、飢えや凍えや喉の渇きに苦しむ私たちの所 に降りて来てくださったのです。―――キリストが『我らの日用の糧を、今日も与えたまえ』祈るように弟子たちに教えられた時、キリストは文字通りの意味で 生活の糧を念頭に置かれていたことが私たちには分かるのです。それはつまり『私たちに衣食住や、そのほか私たちの生活に必要な物をお与えください。私たち に仕事、健康、自由―――をお与えください。私たちがいかなる時も心配することなく、私たちの隣人を通して、人間として尊厳ある扱いを受けることができる ようにしてください』ということです。」(ヴァルター・リュティ『主の祈り』より)「糧」とは、単なる「糧」「食べ物」ではありません。「食べ物がそれな りにあるならば、ホームレス状態で、人間関係は全くの孤独で、社会から差別され迫害される、それでも仕方ないよね」などと言われるイエスだとは、どうして も思えないのです。「糧」とは、すべての生きるために必要なもの、ことです。人間がそれぞれの尊厳を守られて、他のものと調和を保って生きるために必要な すべてのことです。もっと現代的な言い方をすれば、人の人権に関わるすべてのことです。そのような広がりと豊かさを思いながら、イエスについて、私たちも 祈るのです。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。

 そして、なぜ「糧」が最初に来るか、それは、「糧」こそ、神と人間との関係が明らかになる、そしてその人間の罪が、最も現実的に、あらわに現われ出ると ころだからです。皆さんは、「罪」の端的な、そして最もわかりやすい現われは何だと思いますか。それは、「糧」についての思いわずらい、生きることについ ての心配と不信仰です。イエスはこう教えられました。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、 あなたがたに、それ以上によくして下さらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと 言って思いわずらうな。―――あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6・30〜32) それなのに、私たちが「糧」のことで心配し、思いわずらうとしたら、それこそ不信仰であり「罪」ではありませんか。
 また、大きく言えば、こういうことがあります。「かつてある新聞記者が、インドの路上で飢え死にする人びとの介護を続けるマザーテレサにこう尋ねまし た。『もし神がいるのなら、なぜこのような悲惨を放置しておくのでしょうか』。その時、彼女はこう答えまし。『神様は世界中の人々が食べるのに十分な食物 を与えてくださっています。でも、その食物が平等に分配されていないのです。それが飢餓問題の本質です。飢餓の問題を神様のせいにしてはなりません」。こ れは本当のことだと思います。世界の四分の三の食料を四分の一の人々が独占しているという統計を見たことがあります。その四分の一の経済大国は軍事大国で もあります。―――力のある者があり余るほど食糧を備蓄しているのです。」(及川信『主の祈り』より)そうです、「糧」こそ、私たち人間の自己中心と貪欲 と傲慢の「罪」が、隠れもなく明らかになっているところなのです。

 しかしイエスは、そんな私たちを「天の父」のもとに連れて来られます。そしてイエスは、そんな私たちに「天の父よ」と呼ばせ、祈らせてくださるのです。 「天にまします我らの父よ」。それこそが、イエス・キリストの「仲保・仲立ち」であり、「贖い」であり、「救い」なのです。イエスはそんな私たちを、この ように祈り、生きる者へと変えてくださるのです。「天にまします我らの父よ」。そのように贖われ、救われた私たちは、この祈りをイエスと共に祈るのです。 「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。
 この「われら」とは、以前にお話しした通り、すべての人、とりわけ実際的に困窮し、苦しんでいるすべての人です。「あなたがたは、わたしが空腹のときに 食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。 ―――わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」(マタイ25・35、40)この解釈を裏付ける言葉 が、まさに今日の祈りの中にあります。それ「日用の糧」の「日用の」という言葉です。これはとても解釈の難しい言葉だそうですが、おそらく「今日一日分 の」という意味だということです。だからこの祈りは、「差し迫った」人々を特に念頭において祈られていると言えるのではないでしょうか。「今日一日分」の 食物にさえ事欠く人、今日まさに欠乏し苦しんでいる人、今まさに人権が侵され尊厳が奪われている人たちのことを思いながらイエスは祈り、私たちをもその祈 りへと招かれるのではないでしょうか。だからこそ、私たちは祈ります、祈らずにはいられません。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。

 そうです、「糧」こそ信仰の問題であり、生き方の問題なのです。「神様からいただくパンを、共に分け合う仲間を失う。皆が『わたし』のために食料を確保 しようとする。それも明日の分までも。それは結局こういうことに行き着きます。神様の愛の戒めを無視して、その口から出る一つひとつの言葉とともにパンを いただかないと、人は弱肉強食の世界の中で孤独になっていくのです。」(及川、前掲書より)「神と私たちもそのような関係にあります。私たちは不安な気持 ちに駆られて十年分のものを蓄え、五十年、二百年先の分まで蓄えるのです。―――人は不安な気持ちに駆られると、こんなにも愚かしいほどに貪欲になるもの なのです。その結果、もはや足りなくなるのは当然のことです。その結果、欠乏、不安、妬み、戦争が生じ、さらには生きるための祈りではなく『生存競争』が 生じ、飢えや伝染病や凶悪犯罪やあらゆる恐ろしいことが生じることになるのです。」(リュティ、前掲書より)
 しかし、イエスが、救い主イエス・キリストこそが、私たちすべての者のために、共に生き、共に食べる、そのような交わりを作り、場を作り、開き、与えて くださったのです。それこそが、イエスが宣べ伝えた「御国」であり、「神のお取り仕切り」であり、「御心」なのです。私たちはマルコ福音書8章で読みまし た。イエスこそ、このように思い、語って、食物を分かち与えてくださった方なのです。「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるの に、何も食べるものがない。」「そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子た ちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。」(マルコ8・2、6)このイエス・キリストを、私たちは毎月信仰において思い出し、新しく記憶に刻みま す。それが「主の晩餐」なのです。主が、この罪に生きる者たちをあえてご自分の場所に呼び、ご自分と共に食し、ご自分と共に生きるようにと招き、実際にパ ンを裂き、杯を配り、分け合ってくださったその交わりを、私たちは深く心に留め、そこから主が開かれる新しい交わりと生き方へと押し出されて行くのです。 「パンは自らの力で獲得するものではなく、神様から与えられるものです。そして、パンは『わたし』に与えられたものだけれど、『わたしにだけ』与えられた ものではありません。それは仲間と分けて食べるために、パン切れにして食べるものなのです。―――パンを求めるとは、共に食べる仲間、家族、友、兄弟姉妹 を求めるということなのです。『わたしたちに必要な糧を今日与えてください』には、そういう願いが込められている。イエス様は、『あなたがたは独りではな く、仲間と共に生きなさい。神様が与えてくださるパンを分け合って生きなさい。そこにあなたがたの命があるのだ』とおっしゃっていると思います。」(及 川、前掲書より)古代の神学者バシレイオスの言葉です。「あなたの家でたべられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下 で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入の中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中で錆びついて いる金銭、それは貧しい人たちのものです。」(同上)「われわれが日毎の食物を願う時、われわれはまた今日の搾取と利潤獲得に基づいた社会の変革を願う。 われわれは不安と欲望の克服を、さらに正当な労働と正当な賃金を、また失業者がいなくなることを願う。―――また自然が、偶像への奉仕の下に機能している 技術による破壊から救済されることをも願う。」(レオンハルト・ラガツ、ロッホマン『われらの父よ』より)
 私たちは今日もこの祈りを共に祈ります。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。それは、イエスに聞き、イエスと共に祈り、イエスと共に新しい世界、新しい人とものごとの見方、新しい生き方へと開かれ、押し出され、踏み出させられて行く道なのです。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスは私たちに先立ち、私たちのために祈りました。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」。その主の祈りによって、私たちは、「糧」にこそ現われた私たちの不信仰と自己中心と罪を知らされました。また「われら」を思わず顧みない、冷たさと愛のなさを知らされました。
 しかしイエス・キリストは、そんな私たちを「天の父」の前に連れ出し、「天にまします我らの父よ」と祈る者、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と 祈り、願い、生きる者たちへと創り変え、新しい道と生き方へと踏み出させてくださいました。どうか私たち一人一人と教会もまた、このイエスと共にこの祈り を祈り、イエスと共に、またお互い共に生きる者としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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