わたしもこの地でイエスと共に祈り、生きる           
                  
マタイによる福音書第6章9〜13節
                     マルコによる福音書第14章36節


 「主の祈り」は、私たちにとって、まずは「聞く」ほかはない祈りです。イエスが、私たちに先立って祈るのを「聞く」ほかはない祈りなのです。なぜなら、 それは「とてつもない祈り」だからです。こんなふうに言う人さえいるのです。「『主の祈り』に取り組み始める時から、私はやはり一種の恐怖を感じていまし た。『とてつもない世界に足を踏み入れることになる。この祈りの言葉に向き合っていくと、それまでの自分でいることはできなくなる』と。この祈りを真実に 祈ることは、簡単なことではありません。と言うより、人間が持っている力で祈ることはできないと言うべきだと思います。」(及川信『主の祈り』より)

 今日の祈りもまさにそうです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。「御心」 は、「心」に「御」が付いていますから、「神様の心」、神の意志、神の願い、神の御計画ということでしょう。この祈りについて、宗教改革者ルターはこう 言ったそうです。「ルターによれば、『「御心が行われますように」とわれわれが言うということは、驚くべきことなのである』。なぜなら、このようにわれわ れが日ごとに祈らねばならないということは、まさに神の意志がわれわれのところでなされていないという証拠である。神の意志は神の戒めの中に表されてい る。しかしわれわれの意志を行う時、われわれは神の戒めを通り過ぎてしまう。」(ロッホマン『われらの父よ 主の祈り講解』より)なぜならば、本来私たち は、「御心天になるごとく」と、「ごとく」とは祈らないからです。私たちは、「みこころが天に行われるとおり」と、「とおり」とは、決して祈らないからで す。
 私たちの隠れた本心、私たちの「本音」は、このようなものではないでしょうか。御心、神様の心、意志、御計画、なるほど、それは「天において」は、神様 のおられる「天」においては、まさにその通りになっているでしょう。それは、神の愛、平和、正義、あわれみといったものです。なるほど「天」においては、 愛が満ちあふれ、平和があまねく満ち、正義とあわれみが見事なまでに行われているでしょう。しかし「地」においては、私たちの住むこの「地」、この世、こ の世界には、この世の法則、常識、しきたり、決まり、習慣、そして現実があるのです。「地」には、「地」のやり方があるのです。「地」には「悪い人」たち がおり「悪いこと」が行われているのです。「地」に、いじめがあり差別があるのは、仕方がないのです。「地」の中に、格差があり、貧富の差があり、そのた めに困り苦しむ人がいるのはやむを得ないことなのです。「地」には、常に争いがあり、戦争が起こるのはどうしようもないことで、それを私たちにどうこうせ よと言われても困るのです。だから、「地」のことは「地」のやり方に従って、私たち自身のことは私たちの好きなように、私たちが理解でき納得できる仕方で やらせてください。
 だから私たちは、「ごとく」とは祈らない、「とおり」とは祈らないのです。ある人は、それを「二分の一」の、あるいは「三分の一のキリスト教」と呼びま した。「私たちは自分自身を半分に分け、それどころか三つに分けることさえできます。―――私たちは、神が私たちの知性や心に入り込むことを神に許します が、自分の意志を進んで神に委ねようとはしません。私たちは自分自身の意志を自分のために取っておこうとします。私たちにとって、あまりにもよく知られた あのなまぬるいキリスト教、あの平凡なキリスト教、あの二分の一のキリスト教、あの三分の二のキリスト教はそのようにして生まれるのです。―――すなわ ち、人は特定の場所や時間を限定することによって半分にするのです。その特定の場所や時間の範囲内においてのみ、人は神の御心に、ある限られた活動を許可 します。」(リュティ『主の祈り』より)
 しかしイエスは、それとはまったく違う世界、まったく違う世界の見通しを開き、示し、それを知り、信じ、受けて生きるようにと祈り、私たちをもその祈り と祈りの世界へと招くのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」。「御心」、あ なたの愛、真実、正義、公平、いつくしみが「天」に行われているまさにその「ごとく」に、まさにその「とおり」に、この「地」にも行ってください。そのこ とを、私はまさにその「とおり」に願い、求め、祈ります。また、その祈りにふさわしく、私たちはそのために私たち自身をゆだね、まかせ、ささげます。その 「ごとく」「とおり」になるために、私たちは祈り、行動し、生きて行きます。

 しかしながら、決定的そして究極的な線引きは、「この世」と「神の国」との間、「地」と「天」との間にあるのではありません。それは、「神の国」「御 心」と、「私の願い・私の計画・私の求め」との間にあるのです。私たちは、ひたすら自分の願い、心、思いが貫かれることを祈り、願うのです。「祈りという と、普通どういう祈りを思い浮かべるでしょうか。『家族みんなが健康でありますように』『希望の大学に入れますように』『いい会社に就職できますように』 『あの人と結婚できますように』。―――これらの祈りに共通するのは、『神様、私の願いをかなえてください』ということでしょう。これらは、言葉を換えれ ば『私の思いが実現しますように』ということです。『祈りがかなえられる』とはどういうことでしょうか。それは、神様が私の望み通りになってくれること、 神様のほうが私の言う通りに従ってくれることではないでしょうか。いわば、私のほうは変わらず、神様が私にあわせて変わってくれるのを求めているので す。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)あえて言いましょう、それが私の「罪」なのです。神の「御心」ではなく「私の思い」を求めるというこ と、神よりも人の思いを優先させようとすること、それが私たちたちの「罪」なのです。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われ た、『サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』。」(マルコ8・33)だからこそ、私たちは「私の思い」を貫きたい から、自分を守りたいから、この世で自分が傷つきたくないから、自分がいろいろな面倒やリスクを引き受けたくないから、「ごとく」とは、「とおりに」とは 祈らないのです。それが、私の「罪」なのです。

 しかし、まさにこの「破れ口」に立って、生き、祈られた方がおられました。それは、イエス・キリストです。イエスはまさにこのように祈られたのです。 「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。それは、十字架の苦しみと死を前にしたゲッセマネの園においてでした。今イエスの前に置か れ、開かれようとしている苦しみ、恥辱、拷問と死、その裁きと呪いは恐るべきものでした。とうてい受け入れ、受け止め、担うことはできないと思われまし た。しかし、だからこそ、イエスは父なる神にこう切に祈られたのです。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから 取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」(マルコ14・36)こうして、イエスは罪に勝利したのです。 この私を縛り付け、この世界を束縛し、この私たちを囚われの身としていた、この罪に、まさに今イエス・キリストは勝利されたのです。
 そしてイエスは、ご自身と同じ祈り、同じ道、同じ生き方へと私たちを呼び、招き入れ、歩ませてくださるのです。それがイエス・キリストの「仲保・仲立 ち」であり、「贖い」であり、「救い」なのです。こうしてただイエス・キリストによって、「御心は地に成った」のです。「私たちは、神のみ心はすでに『天 になるごとく地にも』なされたことを確信しつつ祈ります。私たち人間の心と、心にある思いを冷酷で惨忍なやり方に訴えてでも実現しようとする私たちの決断 とが、主イエスを十字架に釘で打ちつけました。しかし、神のみ心と、み心を天になるごとく地にもなすという神のご決意が、十字架に現れ出たのです。十字架 こそ、私たちの心と神のみ心が最終的かつ決定的に正面からぶつかり合った場所です。キリストの十字架において、神がこの世の国と力にぶつかり、その姿を暴 き、武装解除させたのです。今なお、神と悪の力との戦いは、癌患者のいる病棟の中で、ボスニアとセルビアにおいて(注 今私たちにとっては、コロナ感染者 のいるところ、またウクライナやミャンマーや世界各地、そしてこの日本でも)、飢餓の中で―――そして毎日の私たちの言葉や行いの中で続いています。しか し、決定的な戦いはすでに終わっています。神が勝利を収めたのです。―――すでに神のみ心はなされたのです。」(ウィリモン、ハワーワス共著『主の祈り』 より)

 今や私たちは、イエスに招かれ、イエスに聞き、イエスと共にこの祈りを祈り、「御心」を祈ります。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。それ は、ある意味で、私たちへのとてつもないチャレンジであり、大きな問いかけです。また、この祈りをイエスと共に祈ることは、私たちにとって苦しみ、試練を も意味するかもしれません。「御子イエスと共に、『アッバ、父よ』と呼ぶことは、キリストと共に苦しむことをも意味します。」なぜなら、この祈りこそイエ スにとって「ゲッセマネの祈り」、十字架を前にしてそれに向かい進んで行く祈りであったからです。
 しかしまた、それは私たちにとって「救い」となり「幸い」となる祈りです。「『みこころをなさせたまえ』とは、自分の欲しいものを願う祈りではなく、私 たちの人生よりもずっと大きな計画に、自分の人生が捉えられていくことを求める祈りです。この祈りにおいて、私たちは―――自分の人生を、さらに大きく、 すばらしい何ものかに、つまり神がこの世界においてなしておられる冒険に、今ここで捉えていただくのです。」(ウィリモン、ハワーワス、前掲書より) 「『神さま、お声を聞かせてください。わたしをお役に立ててください。わたしはそのためにこそ神さまに造っていただいたのです。お役に立てることこそ、わ たしの無上の光栄です。どうぞ、お示しください。何をしたらよろしいのでしょうか。』―――信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。―――この訳 は―――大きな誤解を招きます。祈りはアラジンの魔法のランプではありません。『神さまに全幅の信頼をおきつつ、自分の使命について神さまのお声を聞きた いという思いで、乞い求めるなら、それはすべて必ずかなう』という意味であり、これこそが人間が神さまに対してとるべきもっともふさわしい態度なのだと、 聖書は教えているのです。」(山浦治嗣『イエスの言葉』より)
 そしてそれはまた、私たちをも、この私をも、神の愛の中へと、神の愛と真実の世界「御国」へと招き入れてくださった、イエスの親愛とその恵みを知らされ て行く祈りともなるのです。「『地にも』と祈る時、私たちは自分もそこに立っているということを忘れてはならないでしょう。御心が自分をも支配すること、 つまり御心が自分を通して、自分が用いられて実現することを祈るのです。この自分への課題が何であるかを、大胆に尋ねていきたいと思います。」(松本敏 之、前掲書より)わたしも、この地で、イエスと共に祈り、生きるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスが「主の祈り」を、私たちに先立って祈られるのを聞きます。その中で私たちは、自分が「御心の天になるごとく」とは祈れない、いや、「みこころが天でおこなわれるとおり」とは決して祈らない者であることを知らされました。
 しかしイエスは、その私たちのために祈ってくださいました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。そしてこの祈りの通りに、イエスは生きてく ださり、死に、そして復活させられました。このイエス・キリストの祈りによって、私たちは救われました。このイエスによって私たちは「御名」を知り、「御 国」へ招き入れられ、「御心」を祈り求める者とされました。
 どうか今こそ、イエスと共にこの祈りを祈り、「御心が天になるごとく」、この「地」にもなされるよう求め、働き、生きる者へと、私たち一人一人また教会を変え、導き、用いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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