来たらせたまえ、御国を             マタイによる福音書第6章9〜13節
                        マルコによる福音書第1章14〜15節
  「主の祈り」は「聞く祈り」であると、これまでずっとお伝えしてきました。まずイエスに聞き、イエスが祈られるのを私たちは聞き、そしてイエスの後につい て、イエスと共に祈るのです。それは、大いなる招きです。私たちは、イエスが「主の祈り」へと私たちを招いてくださるのを聞くのです。「イエスが、『だか ら、こう祈りなさい』と言われた時、それは命令とか指示というよりも、むしろ、豊かな招きであるということが明らかでしょう。それは、喜びへの招待、広 い、『人知ではとうていはかり知ることのできない』平安の世界への招待です。わたしたちは、『天にいますわれらの父よ』と祈ってよいのです。そのことに よって、自分の狭い心、かたくなな思いを芯にして回転していた貧しい世界が、今やひらけます。大きな可能性に向かってひらけるのです。」(村上伸『神の国 の約束に生きて』より)「主の祈り」をイエスと共に祈ることの中で、私たちは全く新しいこと、全く知らなかったことを聞くのです。

 「御国を来たらせたまえ」。これは「国」に「御」が付いているので、「神様の国」「神の国」です。マタイの福音書では、「神」と直接的に言うことを避け て、「天の国」と言い表します。この祈りそのものが、そもそも意外なのです。私たちにとって全く新しいこと、私たちが全く知らなかったことを語っているか らです。
 「御国」「神の国」に対する、私たちの多くのイメージはこうではないでしょうか。「『神の国』は、はるかかなたにあり、それこそ『天』にあり、私たちは そこに、いつかは行く。おそらくは、この世の生活、生涯を終えて、はっきり言えば死んだ後に。」これは、一面において、全くの真理と言ってよいでしょう。 この世を超えたた命、死を超えた命、復活と永遠の命の希望。それは、毎年の召天者記念礼拝や、個々の信仰者の葬儀などで、毎回繰り返し語らせていただいて いることです。
 しかし、それが、「神の国」「御国」のすべてではありません。もしそうであったならば、イエスが私たちに教えられた「主の祈り」は、こうなっていたで しょう。「御国へ行かせたまえ」、「願わくば、われらを御国へ行かせたまえ」。しかし実際は、そうではありません。イエスはこう祈れと、私たちに教えられ ました。「御国を、来たらせたまえ」。「御国」は、「行く」のではなく、「来る」のです。
 イエスの宣教の「第一声」、第一の言葉はこうでした。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」「神の国」は「近づいた」、「来つつ ある」「来ようとしている」のです。これは、「もうそこまで来ている」という意味です。比喩的に言えば、「もうドアの前まで来ている」、まだ見えはしな い、しかし確かに来ている、もうすぐそこに来ている、もうそこにある。私たちの日常的な場面の言葉で言えば、「電車が来ます」というのに近いかもしれませ ん。まだ来てはいません、でももう来るのです、もうほとんど来ているのです、もうすぐにでも来るでしょう。
 よくよく注意しなければならないのは、この「御国」は、私たち人間の業、努力、頑張りによって来るのでもなければ、さらに言えば、私たちの願いや祈りに よって来るのでもない、ということです。ただ神によって、ただ神の御心とご計画によって、ただ神の力と業によってだけ来るのだ、もうすぐそこに来ている、 いやもう一部はすでに来て、始まっているのだということなのです
 なぜならば、イエスはこう言われたからです。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのであ る。」(ルカ11・20)「わたし」イエスが、もうすでに人々から悪霊を追い出し、苦しみ悩む人々を助けている、それは神の指が働いていることなのだ、そ の「指」を動かし使っているのは、まさにこの私なのだ、それは「神の国」が「すでにあなたがたのところにきた」ということなのだ。イエス・キリストによっ て「神の国」はすでに来たのです。イエスが私たちの世界に来られたということは、イエスと共に「御国」もまた私たちの世界のただ中に到来し、突入し、もう 既に始まっているということなのです。だから、こう言われました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」しかし、まだすべて、完全に来たとい うのでもありません。「神の国を何に比べようか。―――それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、ま かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」(マルコ4・30〜32)それは、まだ見えないほど に小さく、しかし、成長と前進のただ中にあり、完成に向かっているのです。だからこそ、私たちは祈るのです、祈らざるを得ないのです。「御国を来たらせた まえ」。

 そのようにイエス・キリストが語り、示し、来たらせ始められた「御国」、「神の国」とは、いったい何でしょうか。それは、どのようなものなのでしょう か。「『国』といっても、『神の国』は、日本やブラジルというような、ある地域のことではありません。それは『支配』(あるいは『統治』)、『神の支配さ れる世界』ということです。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)「日本語で『国』といえば、一定の位置と面積を持つ国土を思い浮かべます。です から『天の国』というと、雲の上のどこか、あるいは死後の異次元世界か、そこに一定の神聖な国土があって・・・・と考えます。でも、それはイエスの真意と はちがうらしいのです。―――『神さまのお取り仕切り』とするほうがことば本来の意味です。」(山浦治嗣『イエスの言葉』より)「人の不幸というものは、 ある人間が他の人間を好き勝手に取り仕切るから起きるのだ。もうそのような時代はおわり、神さまが人の世をあるべき姿になおしてくださる。人が本当に幸せ になるためにはどうすればいいのかということを、神さまからよこされる『お助けさま』がしっかりと示してくださり、人を幸せにする神さまのお取り仕切りが この世になるのだ。」(山浦、同上)
「神さまのお取り仕切り」、それは「神様の方法」「神様の考え方」「神様がお取りになり、私たちと共に歩まれる道」と言い換えてもいいでしょう。それは、 「この世」、この世界、この社会の方法、考え方、原理・法則といったものとは、全く異なる、正反対だと言ってもよいくらいのものなのです。そのような「神 様のお取り仕切りが、私たちところに来て、もう始まっている。」主イエスが語り始め、伝えられたのは、そのことでした。
 イエスは、それを、具体的にはどのように語り、示されたのでしょうか。「イエスによる神の国の宣教を特徴づける言動として、ここでは2つの側面に焦点を あてましょう。その1つは周縁者(注 今でいうなら「社会的弱者・困窮者」)への憐れみと正義の行為であり、もう1つは罪の赦しの宣言です。―――イエス が貧者、障がい者、徴税人、売春者、そしていわゆる『罪人』らからなる周縁者という括りの個人や集団と意識的に交流を持っていたことは間違いないでしょ う。―――じつにイエスの活動は、近づく神の国の価値観である憐れみと正義を体現する行為と表現することができるでしょう。」(浅野淳博『死と命のメタ ファ』より)
 そのようにして表され、示された、「御国」「神の国」、「神さまのお取り仕切り」とは、次のような内容を持つものでした。まず何より、それは「とてつも ない愛」です。神様のとてつもない愛、限界も終わりもない、深く高い愛が、私たち一人一人とこの世界に、イエス・キリストによって与えられ、注がれたので す。そしてこの「愛」は、私たちの間にどんな「線」をも引かず、「すべての人」に、どのようなだれにでも、どこまでも広がり、達し、届くのです。さらにこ の「愛」は、人間を、またすべてのものを、すべての面において全面的に助けるのです。イエスの活動は、「罪の赦し」と、また「いやし」でもありました。 「いやし」とは、「身体的・精神的・社会的」に人を助けることを示しているのです。

 この「御国が来る、それはもう来ている、もう始まっている」、それがイエスの宣教でした。でも、そんなことを宣べ伝えたならば、どうなるでしょうか。 「この世とは全く違う考えと方法が始まっている。(裏を返せば)この世は全く間違っており、むしろこうあるべきである。そして、それは必ず、そうなる。」 そういうふうに語る人は、たいてい迫害されます。それは今も、世界中の国々で起きています。イエスも迫害されました、いや、イエスこそ迫害され、十字架に までつけられ、殺され、死なれました。普通なら、それで終わりです。しかし、終わりませんでした。こうして十字架で殺され、死んだイエスは、神の愛と正義 の力によって起こされ、復活させられ、すべての人の救い主、全世界の主として立てられたのです。
 こうしてイエスの宣教は、全く新しく、さらなる力と愛とをもって始められました。「神の国は近づいた」。だからこそ、今こそこのように呼びかけられてい るのです。「さあ、心をスッパリ切り換えろ。神さまのお取り仕切りは、今まさにここにあり!」(山浦治嗣訳)「まもなく電車が来ます」、そう聞いた人は、 今までと全く同じように、ただのんびりと歩いてはいないでしょう。「御国はまもなく来る、来ようとしている、もう来ている」と聞く人は、違う歩き方、新し い生き方を始めるに違いないのです。「私たちは、自分の目の前にある課題に振り回されます。いろいろな問題が私たちをぐらぐらと揺さぶります。自分を見失 いそうになります。しかし、かの日には、それらすべてが克服されることを知る時に、私たちは自分を冷静に見つめ、考えることができるようになります。 ―――信仰によって目の前にある現実を、もう一つの視点、将来の視点から、希望をもって見つめ返すことができるようになります。約束を先取りして生きるの です。また私たちの世界は、数知れぬ社会の問題を抱えています。私たちは、こうした問題に立ち向かおうとしても、『小さな力ではどうしようもない』という 思いにとらわれて挫折しそうになったり、あるいは懐疑的になったりします。しかし『神の国が来る』という約束をもっている者は、生き方が違ってきます。ど んなに絶望的な状況になっても希望があることを知っているからです。―――そして『何とかならないものか』といういらだちから解放されて、かえってゆとり をもって、その業の一端を担っていくことができるのではないでしょうか。」(松本敏之、前掲書より)

 でも実際の私たちは、いつもいつも、くり返し、苛立ち、焦り、不信に陥り、挫折します。でも、だからこそそんな私たちのために、イエス・キリストは私た ちを招き、呼びかけ、導いてくださるのではないでしょうか。「だからこそ聞け、そして祈れ、『御国を来たらせたまえ』。だからこそ、この祈りにふさわしく 信じ、行い、生きよ。『来たらせたまえ、御国を』!」

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスはこう祈り、私たちに「こう祈れ」と教えられました。「御国を来たらせたまえ」。これもまた、いや、これこそ私たちの知らない祈り、私たちが決し て祈ろうとはしなかった祈りでした。私たちは、ぼんやりと不信仰にもこう考え、生きていました。「この世とその法則はずっと、いつまでも続く。私たちは、 この世を終えて、いつかは御国へ行く。」しかしイエスは祈られました。「御国を来たらせたまえ」。「御国は来る、神のお取り仕切りは始まり、行われる。だ から、心をスッパリ切り換えろ。」イエスこそこの御国の道を行かれ、十字架の苦しみと死を通って、復活と勝利にまで至られました。
 このイエスの呼びかけと招きを受けて、この私たち一人一人と教会もまた、この祈りを共にしながら、イエスと共にここから歩み出し、私たちお互いもまた主の愛と真実に基づいて共に歩み、共に生きて行きたいと願います。どうか、その一歩一歩を導いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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