御名を知らせてくださる方と             マタイによる福音書第6章9〜13節
                              ヨハネによる福音書17章6〜11節


  「主の祈り」を共に聞き、共に祈って行くシリーズ。今日は、第一の祈り、「御名をあがめさせたまえ」です。と言ってみたものの、これほどわからない祈りは ないではないか、とも思います。「御名をあがめさせたまえ」と言うときに、それは毎週毎週のことですが、はたして私たちは何を祈り、何を願っているか、本 当に分かっているでしょうか。今回、正直、私自身はよく分かっていなかったなと思わされています。

 さて、「御名」と言ったら、「名前」です。それに「御」という丁寧語が付いていますので、これは「神様のお名前」という意味でしょう。「神様のお名前」、それはいったい何でしょう。
 まず一般的なところからお話ししまょう。イエス様が地上を生きておられた時代、古代一般において、「名」「名前」とは、大変大切なものでした。名前は 「極めて大切なもの」「他には代えがたいもの」であり、さらにはその名前を持っているその人自身、その人自身の人格そのものを表わすものとされていまし た。単なる「呼び名」「符号」などではないということです。この感覚が今でも残っているのは、芸能の世界ではないでしょうか。歌舞伎とか落語の世界では、 「何代目何とか」というように、一つの名前が人から人へと引き継がれて行きます。「襲名」「名を継ぐ」ということですね。だれでも名を継げるわけではな く、ふさわしい技量と人格を持っていると認められる人にだけ、それが許されます。そこで考えられているのは、そうして人から人へと一つの「名」が伝えら れ、受けつがれて行くときに、同時に「極めて大切なもの」「最も本質的なこと」もまた伝えられて行くということです。この場合は、「芸の本質・道そのも の」というようなことでしょうか。そのように「名前」は、「大切なもの」「本質的なもの」「その人自身」を表わしています。だから、「御名」「神様の名 前」とは、神様にとって極めて大切なもの、神様にとって最も本質的なこと、さらには神様ご自身そのもの、そして神様ご自身の何ものにもかえがたい人格とい うようなことを指し示すのだ、ということが言えるでしょう。
 そのような「神の御名」が「あがめられますように」、それは「その名前が、その大切さ、重要さにふさわしく認識され、受け止められ、大切にされ、正しく 扱われますように」、そもそも「名前」ですからそれにふさわしく呼ばれ、その相手つまり神様に対する態度や生き方がふさわしいものでありますように、とい う意味だと思います。

 また、この「名前は大切なものを表わす」ということは、その反対のことを表わすいろいろな表現によって、反対の方向からわかります。「名折れ」という言 葉があります。「名を汚す」という表現があります。「名がすたる」という言い方もあります。これらは、まさに先ほど言いました「大切なもの」「本質的なも の」が、悪く言われたり思われたり、また本当に損なわれ、時には失われてしまうという事態を表わしているでしょう。私たちがこの「あがめられますように」 ということを知りたければ、その反対のこと、「神の御名」が「汚れされる」「折れる」「すたる」ということを考えてみれば、よく分かるのではないでしょう か。どういう場合に、「神の名」はあがめられず、汚され、折れ、すたれてしまうかもしれないのでしょうか。
 一つは、「神の御名を、低く小さく見積もる」ことによってだと思います。今まで私たちは、「天にましますわれらの父よ」という「御名」について、少しで すが、共に聞いてきました。まず神は「天にまします」方というのです。「心の中にいる神」でも、「私たちのそばにだけいる神」でもなくて、「天にまします 神」。ところが、それをこう考えたらどうでしょう。「神様は、精神的・宗教的助けを与えることはできるけれど、経済的・政治的・社会的な助けまではおでき にならないのでは。」また、イエスの神は「われらの神」でした。どこまでも広がって行く「われら」、さらには「敵」にさえも及ぶ「われら」の神。それを、 「神様は、あくまでも私とその周囲の愛すべき人だけの神、教会だけに働く神、あるいはせいぜいまともに善良に生きている人たちだけの神」と思っているとし たらどうでしょう。それは、「神の御名」を著しく低く、小さく見積もってしまっていることにならないでしょうか。私自身が、そのようなものだと気づかされ たのです。
 もう一つは、この「御名」を自分や自分たちのために利用して、人間の罪や悪を弁護し正当化するために用いることです。そんなことがあるのかと思われるか もしれませんが、人間の歴史ではこれが絶えたことがありません。古来、奴隷制、人種差別、植民地主義、そしてあらゆる戦争が、「神の名」によって正当化さ れ、弁護され、よりいっそう強く、堂々と行われてきてしまったのです。まさに「十戒」が、「主の名をみだりに唱えてはならない」と禁じている通りです。
 このように、イエスを通して「主の祈り」を聞き、イエスと共に「主の祈り」を祈る時、私たちは皆自分自身の罪を知らされ、知るのです。この「御名」の 「誤用」「悪用」から逃れ、自由であるような人は、私たちのうちに一人もいないのです。私たちの誰一人も、この「御名」の広がりと大きさ、高さを信じられ ず、受け入れられず、それに従って生きようとすることができないのです。だからこそ、私たちは心からこう祈らずにはいられないのです。「願わくば、御名を あがめさせたまえ。」

 しかし神は、神こそは、「御名をあがめさせ」ることをなさいます。神は、ご自身の御名が汚され、折れ、すたることをお許しになりません。神ご自身が、ご 自分のお名前をはっきりと表し、高く上げ、その御名が正しく、ふさわしく、大切にされ、重んじられるようになさるのです。
 それは、具体的に一つの「御名」を、神御自身が表し、語り、与えることによってでした。神は、一つの決定的な「名」を語られ、それによってご自身を完全 に表されました。それは「イエス・キリスト」という「名」です。神は、「イエス・キリスト」という「名」、まさにこのイエス・キリストというお方そのもの によって、完全に、決定的に、究極的にご自身を表わされました。イエスは、私たちのためにこの「名」を与え、この「名」によって、神の御名とその世界の広 さ、高さ、豊かを開き、教え、与えてくださるのです。「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜った人々に、み名をあらわしました。」(ヨハネ17・ 6)
 「イエス・キリスト」という「御名」、そこには何より「神の愛はとてつもなく大きく、広い」ということが表されています。イエス・キリストは、「すべて の人」のために来られました。それは、文字通り「すべての人」です。そこには、「悪い者」「正しくない者」と呼ばれる人たち、さらには「敵」と呼ばれる人 たちすら入っています。神の愛は、その人にまで、そこにまで及んでいる。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによっ て、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。―――わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けてい る今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」(ローマ5・8、10)
 「イエス・キリスト」という御名、そこにはまた、「神の愛は、自由自在で、そのために最後まで行くのだ」ということが表されています。神は、その「敵」 でさえあった者たち、私たち一人一人を愛するために、「肉なる、弱く、死すべき人間」となりました。あの「ナザレのイエス」となったです。愛するために何 にでもなれる、それが神の愛の自由です。さらに神は、このイエスにおいて、愛するために、人を生かしつくすために、最後まで、どこまでも行かれました。あ の、「呪われた、最低、最悪の死」とされる十字架にまで行かれたのでした。
 このことを聞き、思うとき、私たちはもう「願わくば、御名をあがめさせたまえ」と祈り、願うことしか残っていません。神は、それに答えて、ご自身が「御 名をあがめさせ」てくださるでしょう。神ご自身が、この「御名」を、くり返し私たちに表し、聞かせ、ご自身を教え知らせてくださるでしょう。それによって 神は、くり返し私たちの考えと歩みを越えて行かれ、いい意味で毎日私たちを「裏切り」、私たちが考え計るよりもさらに良きことをなし、私たちを助け、導い てくださるでしょう。私たちは、それに対して「ああ」と驚き打たれ、最後には「アーメン」「そうです」としか言えないことでしょう。

 そうです、「神の名をあがめさせて」くださるのは神様だけです。しかしなお、私たちもこの「祈り」を祈るにふさわしいであろう、ささやかだけれども、それに答えて生きる生き方があるのではないでしょうか。
 それはまず、何と言っても、このお方の御名、そこに表された神の愛と真実に、少しでも答えて行きたいと願って生きる、生きようとすることではないでしょ うか。「私たちの知り合いに、家族の中で初めて大学へ進学したという学生がいます。最近、この学生は、『気分がよくなるから、やってみろよ』と違法なド ラッグを勧められたそうです。彼はその誘いを断りました。―――『母はぼくをこの大学に入れるために、ひとの家の掃除や床磨きまでして働いてくれた。いま ここにいられるのは、彼女のおかげなんだ。ぼくは彼女のためにここにいる。母がぼくのために払ってくれた犠牲を汚すことは、たとえどんなことでもしたくな いんだ』。私たちか聖なる神に応えて生きるのもこれと似ています。キリスト者は盗みません。結婚の約束を裏切りません。戦争を祝福しません。―――キリス トによって、神との義しい関係に置いていただいたからです。私たちは、神のみ名、聖なる神のみ名を知るという光の中に生きる者とされています。」(ウィリ モン、ハワーワス共著『主の祈り』より)
 もう一つのこと、それは、ご自身の「御名」をあがめさせ、大切にされる方は、私たち一人一人の「名」、私たち自身、私たちのかけがえなさをも愛し、大切 にし、重んじてくださるということです。それこそが、あのイエス・キリストの生涯と死そのものだったのです。だから、この愛をいただいた私たち自身、お互 いもまた、互いの「名」、その人自身、その人のかえがえなさを愛し、大切にし、重んじて生きようとするのではないでしょうか。「他者を生かすイエスの死に 至る生き様に啓発されてこれに参与することが、イエスの死の意義をもっとも適切に理解し、これを発信することに繋がると思われるからです。―――私たち神 学するキリスト者は大地に踏ん張って『畑を耕す』――イエスの生き様をこの社会で実践する――この尊さ、とりわけ日々『畑を耕す』方々の尊さを看過できま せん。」(浅野淳博『死と命のメタファ』より)
 「願わくば、御名をあがめさせたまえ。」こう祈りつつ、私たちは、このお方が、ご自身とその御名とを明らかにし、語れるのを聞きます。その「名」を信 じ、受け入れ、この「名」を持つお方に従い、このお方と共に、私たち一人一人お互いも、それに答えて、それにふさわしく、愛をもって共に生きられるよう願 い、祈り、歩み始めましょう。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 「御名をあがめさせたまえ」、そうイエスは祈り、私たちにも教えられました。私たちはイエスからこの「御名」を聞き、あなたご自身を知ります。あなたの 愛のとてつもなさと、その愛する自由とを聞き、知らされます。こう祈るたびに、私たちはあなたの愛に打たれ、その真実によって動かされます。
 どうか、ここに集められた私たち一人一人また教会を、日々そのように祈り、聞き、またそれに答えて、ふさわしく、日々少しでも歩み、生きる者たちとしてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る