イエスの『われら』に向かって」             マタイによる福音書第6章9〜13節
                             ルカによる福音書第10章29〜37節

 「主の祈り」から共に聞くシリーズ、今日は、「天にまします我らの父よ」の「われら」です。
 のっけから申し訳ないですが、実はこの「われら」というのは、「要注意用語」なのです。一つには、この「われら」が、人と人とを分断し、冷たい、愛を狭 くするような使われ方をすることがある、ということです。それはつまり、「われら」と「他人、かれら」という言い方です。「われら」とは、愛し、助けるべ き人たち。それに対して「かれら、他人」というのは、「われら」の外の人たち、「どうなろうが関係ない人たち、助ける必要もない人たち」というわけです。 この場合の「われら」を「隣人」と言い換えてもいいでしょう。一人の律法学者が、イエス様に尋ねたのも、まさにそういう意味でした。「わたしの隣り人とは だれのことですか。」「私にとっての『隣り人』『われら』というのは、どこまでの人のことですか。」家族までですか、仲の良い友人までですか、せいぜい 「ユダヤ人」という同じ国の人たちまでではありませんか。どこまでが「われら」ですか、どこからが「かれら」ですか、その線はどこに引かれるのですか。
 これがさらに進んで行くと、「われら」が敵対をあおり、憎しみを掻き立て、さらには戦争へと駆り立てる使われ方さえされるようになります。この場合は、 「われら」と「やつら」です。「われら」は、愛すべき、そして誇るべき「国民」、それに対してあの「やつら」は憎み、攻め、殺しても飽き足りない者ども、 「敵」というわけです。このような「われら」の使われ方が、歴史上数えきれないなされたきましたし、今まさにこの世界においてなされているのではないで しょうか。
 はたしてイエス様が「主の祈り」で言われる「われら」とは、そういう意味なのか、そういうものなのか。「違うだろう」、私は思いますし、きっと皆さんも そうだろうと思います、「違うだろう」。これは、ある意味では「勘」、直感のようなものでしょうが、それはおそらく間違っていないでしょう。イエス様の言 う「われら」は、そんなものではない。

 では、イエス様の言われる「われら」とはいったい誰なのでしょう、どんな人たちなのでしょうか。私は、イエスご自身が、それを明確に語っておられる聖書 の箇所があると思います。それは、「マタイによる福音書」25章の「最後の審判」の場面です。「最後の審判」ですから、そこにまさに最終的なこと、究極的 な事柄が語られているはずです。そこで審判者・「王」としてのイエス・キリストが、集められた全世界の人々に向かってこう告げておられるのです。「あなた がたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」「この人たちに対してしたことは、 まさに私自身にしたのと同じなのだ。」これは、まさにイエス様にとっての「われら」そのもの、究極の「われら」ではないでしょうか。その「この人たち」、 「この最も小さい者」たちとは、だれのことでしょう。どういう人たちのことでしょう。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに 飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」イエスにとっての「われら」 とは、そのように食べ物、飲み物がなく、宿り住むところがなく、着るものをはじめとする生活に困り、病気のために痛み苦しみ、そして獄に囚われているよう な、あらゆる弱さと困窮の中にあるすべての人たちにまで広がり、深まり、及んで行くのです。「『われら』という時には、わたし一人のためではないのです。 そうではなくて、わたしどもが連帯し、責任を負わねばならぬ隣り人、全世界のための祈りなのです。ですから、祈りは、神と隣人への奉仕なのです。―――神 は今も十分にあなたに対して与え、守り、祝福しておられる。だから、あなたは神への讃美と、御旨の成就と、他の人々の食と、赦しと、誘惑と、悪からの解放 のために祈れ、それが救われたわたしの弟子の祈りであると、主イエスはおおせ給うて、わたしどもに祈ることを教えておられるのです。」(菊地吉彌『山上の 説教』より)
 そしてイエスの「われら」は、さらなる広がりと深まりを見せ、ついに極限にまで至るのです。この「主の祈り」があるのと同じ「山上の説教」の中に、「敵 を愛せよ」というイエス・キリストの言葉があります。「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、 わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5・43〜44)「敵を愛せよ」、こうなるともう、「われらとかれら」とか、ま して「われらとやつら」とか、どこにも「線」の引きようがありません。イエスはこのような「天の父」を紹介し、私たちと出会わされます。「敵を愛し、迫害 する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも 正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイ5・44〜45)「天の父とは、このような『われら』の父なのだ。」

 イエスは、このことをまさに具体的に語られます。それが、あの「善きサマリヤ人」のたとえです。ある人、おそらくは「ユダヤ人」、この人がエリコへ向か う街道で強盗に遭い、身ぐるみ剥がれ、半殺しにされ、そのまま道端に放置されました。そのうちそこを、二人の人、彼にとっての「同胞」とされる人たち、 「祭司」と「レビ人」が通りましたが、二人とも見て見ぬふりをして彼のそばを通り過ぎました。そのうちそこを三人目の人、一人の「サマリヤ人」が通りかか りました。当時「ユダヤ人」と「サマリヤ人」とは、対立・敵対関係にあるとされていました。と言うより、「ユダヤ人」が、「サマリヤ人」を憎み、差別、排 除し、苦しめていたのです。そんな中で、この「善きサマリヤ人」は、この傷つき、倒れ、苦しんでいる人を、「あわれに思い」、到底そのまま放って置くこと ができず、このように行動しました。「彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。」(ルカ10・33〜34)イエス様はこの話をされた後、あの律法学者、「わたしの隣人とはだれのことですか」と問うた学者 に尋ねられました。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人となったか。」「隣り人となったか」、「隣り人」とは「なる」ものなのです。この 「隣り人」を、「われら」と言い換えても良いのではないでしょうか。「サマリヤ人」は、この倒れている人を見たとき、そこに「線」を引きませんでした。 「ああ、この人は『われら』じゃない。なぜって、『かれら』は、いや『やつら』は、私たちを差別し、いじめ、苦しめたからだ。だから、この人は『われら』 じゃない。どうなろうと助けるには及ばない。」決してそんなふうには考えなかったのです。「気の毒に思い」、あわれに思ったのです。それは、神の前で、 「この人も愛するべき人、助けるべき人、共に生きるべき人、『われら』なのではないか」、そう、とっさに我知らず思ったのではないでしょうか。「だれが、 この人の『われら』になったか。」「われら」もまた、「なる」ものなのです。
 そして、何より、誰よりイエス・キリストが、この「われら」となられました。神に背いた者たち、「罪人」である私たち一人一人を、イエスはあえて「われ ら」と思い、「われら」として行動し、「気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に 連れて行って介抱した」のでした。それこそが、あのイエスの全生涯、私たちのために愛をもって生き、それがために十字架の道を歩み、殺されて死に、ついに 復活に至ったイエスの道だったのです。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。」「しか し、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5・6、 8)

 ここで疑問が沸くかもしれません。この「われら」、「主の祈り」における「われら」とは、まず何より「教会」ではないか。伝統的には、かなりそのように 考えられてきたと思います。それは、「広がって行く」というイメージです。まず、イエス様を信じた「われら」つまり教会があって、それは今はまだ小さく、 狭いのだけれど、それが外の人たち、より多くの人たちへと段々広がって行く。実は、私もどちらかと言うと、そんな風に考え、イメージしていたかと思いま す。けれども、今回、それはどうも違うのではないかと思わされたのです。
 今までご一緒に聞いてきたように、「主の祈り」によってイエスが、私たちに見せ、示し、開く「われら」の世界、「イエスの『われら』」は、とてつもなく 広く、深く、大きいのです。イエスが私たちを導いて、私たちと共に祈ろうとなさる、「われらの父」の世界は、とてつもなく広く、限りなく大きいのです。 「イエスの『われら』」の世界は、初めから、私たちが知り、信じ、見る前からそこにあり、私たちをはるかに超えて大きく、深く、広がっているのです。
 教会は、このイエスを信じます。それはまた、イエスが開き、見せる、その「われら」の世界をも信じ、受け入れることです。この時、私たちが痛感せざるを 得ないのは、「私たちの狭さ」です。イエスが見せ、開く、あの「われら」の世界を思い、それと比べるときに、私たちはあまりにも狭く、せせこましく小さ く、そして先入観や偏見に満ちている、と思わずにはいられません。だからこそ、私たちは「主の祈り」を祈るのです。だからこそ、私たちは「主の祈り」を祈 らずにはいられません。だからこそ、私たちは「主の祈り」を祈りつつ、聞くのです。教会とは、そのようにイエスと共に「主の祈り」を祈りながら、この「イ エスの『われら』」を聞き、それを信じ、受け入れ、かえってその「イエスの『われら』」に向かって自分たちを開き、合わせようとして生きる人々、群れ、共 同体のことではないでしょうか。
 「天にまします我らの父よ」、このようにイエスと共に、イエスについて祈るところから、私たちの見、知る世界と、そこにおいて生きる私たちの生き方とがまったく新しく変わり、思いもよらず開かれ、不思議にも導かれて行くのです。「イエスの『われら』に向かって」。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエス・キリストは、私たちに先立って、私たちのために祈られます、「天にましますわれらの父よ」。そのように聞く「われら」は、私たちの知らない「わ れら」、まったく知らない「われら」でした。それは、私たちが「関係ない」と思うその「一人」にまで、さらには私たちが「敵」と思う人にさえ至り、及んで いるような「われら」でした。 
 イエス・キリストがまさに、私たちを「われら」としてくださいました。イエスによって、私もまたこの広く、大きく、豊かな「われら」の世界、「われらの父」の世界へと招かれ、導き入れられました。
 狭く、小さく、様々な偏見と差別に囚われているような私たちですが、イエスの招きに答えて、イエスと共に私たちも祈ります、「天にましますわれらの父よ」。どうか私たち一人一人と教会を、そのように、この道へと導いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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