主の息吹に送り出されて             ヨハネによる福音書第20章19〜23節


 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは、日本語では「聖霊降臨祭」と言います。父なる神のもとから「三位一体」のもう一人 の方である聖霊が降って、私たちにイエス・キリストへの信仰を与え、教会をまったく新しく始めさせ、福音を伝え、証しして生きて行く力を与えてくださるこ とを、共に祝い、喜ぶ日なのです。
 今日は、その聖霊降臨、聖霊が降って来るという約束が、復活の主イエス・キリスト御自身によって実現されたことをご一緒に聞きたいと思います。「彼らに 息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』。」こうして、このヨハネの福音書は、聖霊を、復活のイエス様の息、息吹によってもたらされるものとして描 いています。そうしますと、あの使徒行伝にあるペンテコステの記事はどうなるのかと疑問にも思いますが、聖霊は様々な時に様々な仕方でおいでになるのだと 考えればよいのでしょう。それこそ、「風(神の霊)は、思いのままに吹く」のです。

 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という中国の言葉があります。「朝正しいまことの道、生き方、真理を聞いたならば、その日の晩に死んでもかま わない、悔いがない」という意味でしょう。しかし聖書は、それとはまったく異なる人間の現実を描いています。「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、 弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおるところの戸をみなしめていると」。「その日、すなわち、一週の初めの日」とは、あのイースターの日、主イエ スの復活が起こった日にほかなりません。その日の朝、弟子たちは、確かに「復活の知らせ」、「道であり、真理であり、命」である方の復活の知らせを聞いた のでした。真理の中の真理、まことの中のまことを聞いたのであると言ってよいでしょう。しかし、なんともうその日の夕方には、彼らは「復活を聞いたのだか ら、何も恐れるものはないし、迷いも、悔いもない」という生き方をするどころか、恐れの中に閉じこもり、部屋に閉じこもり、自分のかたくなな心の中に閉じ こもるという生き方の中にあったのです。
 彼らは何を恐れていたのでしょうか。なぜ、閉じこもらなくてはならなかったのでしょうか。一つには、「ユダヤ人を恐れ」ていたとあります。「ユダヤ人」 とは、ヨハネの福音書で特別に使われている言葉です。これは、当時のユダヤの支配者たちと彼らと一緒になって、イエスに敵対した人たちを呼ぶ言い方です。 イエス様を捕らえ、苦しめ、十字架につけて殺した人たちが今も力をもってこの世と社会を支配している。そんな中で、自分たちとその力がいったい何だろう か、この自分たちに何ができるだろうか、そんな中で「復活」と言ったところで何になるのか、どうしようもない無力感と空しさに彼らは捕らえられていたと思 うのです。在日大韓基督教会牧師であり、NCC(日本キリスト教協議会総幹事)の金性済さんは、この「ユダヤ人をおそれて、戸を皆閉めていた」弟子たちの 有様を、右傾化が進む現代の日本社会の状況と、その中で声をあげずにいる者たち、とりわけ私たちキリスト教会の現状になぞらえて聖書を読んでおられます。 「日本社会において、その流れ(歴史の真実を認め、侵略とそれに伴う諸行為を深く反省・謝罪しようとする)を封じ込める運動と論調が高揚し、―――以来今 日に至るまで、政治的影響力のある人物たちのアジア侵略と、『従軍慰安婦』問題を否定する発言がやみません。―――苦しみと悲しみの記憶の中から絞り出さ れた証言さえ封印され、もはや国を挙げて黙殺に流れていくナショナリズムとは・・・―――このような日本の時代状況にある今、キリスト教会はどこに立ち、 何をしているのでしょうか。この重苦しい右傾化の空気が充満する中で、私たちは、あの鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっていた弟子たちの姿を、我が身を映す 鏡と」するほかないのだと言われるのです。
 そしてもう一つには、意外かもしれませんが、彼らにとって「イエス様の復活」ということがもし本当だとしても、彼らの喜びとは必ずしもならなかったので はないかと思うのです。彼らは、イエス様にどうしようない負い目、罪を感じていました。「イエスを見捨てて、逃げ去った」、これが彼らにとって「最後の言 葉」でした。「ペテロは『三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」、これがペテロについて の「最後の言葉」でした。そんな彼らにとって、たとえイエス様がよみがえって来られたとしても、彼らはどんな顔をしてイエス様にお会いできるというので しょうか。また、イエス様も、彼らにどんな顔で、どんな言葉をもって出会ってくださるというのでしょう。「ペテロよ、よくもわたしを知らないなどと三度も 言ってくれたな。」「お前たち、私が最も危機に瀕した時に、よくも私を見捨てて逃げ去ってくれたな。」そう言われても仕方のない彼らであったのです。
 さらに、今、何がなくても「自分を閉ざす」「閉ざさせていく」、そういう力が世の中に働いているのではないかと思います。こんな言葉があるそうです。「ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も入れない」。

 しかし、そんな彼らのただ中に驚くべきことが起こりました。「弟子たちは―――自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの 中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとをお見せになった。」閉ざし閉ざされた弟子たちの心と場所、しかし、ここに入って来られた方がお られたのです。無理やりぶち壊すのではなく、あたかも何事もないかのようにすーっと、固く閉ざされた戸と壁を通り抜け、そして責めや裁きを語るのではな く、「平和」の宣言と祝福をもって。その方は復活の主、勝利者イエス! このお方にとっては、どんなに不信で閉ざされた扉も、頑なに閉じこもり、恐れで縮 こまった心も生き方も、問題ではありません。主は、その中へと、あの命の力をもって、赦し生かし救う愛の力をもって、どんな恐れをも克服し慰める平安の力 をもって、今彼らのただ中にお立ちになるのです。「安かれ、あなたがたに平安があるように。」
 すると、ここに不思議なことが起こりました。「弟子たちは主を見て喜んだ」。あんなにもかたくなに閉ざされていた弟子たちの心が、生き方が、そして体そ れ自体緩められ、そこに息が吹き込まれたのです。体が緩められ、息が吹き込まれる時、何が起こりますか。笑いが起こり、喜びが起こります。どうしてでしょ うか。何がそんなにも急に彼らを突き動かしたのでしょうか。彼らは朝に「復活の知らせ」を聞いても、信じられず、むしろ恐れに取り付かれたような者たち だったのです。また、自分たちが裏切り、見捨てたイエス様に再びお会いしたとしても、どんな顔して会えるのかと罪と責めにおびえていた者たちだったので す。そして、今の今まで恐れと不信でガチガチに凍りつき、固まりきってしまった者だったのです。
 しかし、今平和と赦しをもって入って来られた方、復活の主はその氷のような彼らの魂を全き愛をもって解かしてくださったのです。彼らに取り付いていた不 信と恐れを打ち破り、彼らをその鎖から解放して、不思議な驚くべき喜びで満たしてくださるのです。「弟子たちは主を見て喜んだ。」とりわけイエス様がこう なさったからです。「『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとを彼らにお見せになった。」イエス様の手とわき腹には、何があると思いますか。手に は、あの十字架で打たれた釘の跡、わき腹には槍で刺し貫かれた傷跡があるのです。それは、今この弟子たちを苦しめている罪と死の力が、あの時どんに強く、 またひどくイエス様に対して全力で襲い掛かり、恐るべき打撃と傷を与えたかを、まざまざと示すものです。それは、彼らの罪の傷跡・しるしでもあるのです。 彼らの罪が不問にされ、「ないこと」にされたのではありません。聖書の「赦し」、神の赦しとは、「なかったこと」にすることではありません。神は、私たち の罪、世のすべての罪を、イエス・キリストの十字架において、しっかりと取り上げ、はっきりと明らかにされました。それは厳然として、今もなおそこにイエ ス様の傷に明らかにされています。
 しかし、なんとその傷を受けたイエスが今生きておられる、それほどの攻撃と傷を受けたにもかかわらず復活して生きておられる、ということは何を意味する でしょうか。主は、それらすべて、罪と死の力を完全に打ち破り、それらに対して全き勝利をお取りになった。今や、何ものもこの主イエスの勝利を揺る動かす ものはないのです。この主が、不朽の愛をもって、すべてを赦し生かす平和をもって来たり、彼らの前に立ち「平安あれ」と語りかけてくださる。ならば、この 弟子たちもまた、今や罪も死も、何ものをも恐れる必要はないのです。「弟子たちは主を見て喜んだ。」

 そして、ことはこれだけでは終わりません。復活の主は今この弟子たちを、あれほど恐れと不信に取り付かれていた者たちを、ご自身のために立ててくださる のです。そして、神が愛しておられる世とその人々のところへと送り出してくださろうとするのです。「イエスはまた彼らに言われた。『安かれ。父がわたしを おつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪 は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る』。」イエス様が、自らを閉ざし閉ざされていた弟子たちに、息を吹きかけられ た。その息吹こそが、聖霊の力であり、働きなのです。「イエスは弟子たちを送り出します。恐れの中から、他者へ、世界へ。希望、愛、平和を分かち合うため に。教会の原点、使命、シゴトがここに示されています。(谷本仰氏、『バプテスト』2022年6月号「MESSAGE」より)
 復活の主イエスが聖霊を吹きかけて彼らを遣わしてくださるのは、一言でいうならば「赦し」のためです。「赦し」を目指して、彼らは送り出されるのです。 復活を信じ生きる私たちキリスト者また教会にとっての課題は、「赦し」です。「あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」、「では、赦さないで、痛 い目にあわせてやろうか」、そんなことはできません。この驚くべき赦しを受けた彼らは「赦す」ことしかできないのです。
 それは一つは、この「驚くべき赦し」を信じ、語るということです。イエス様が復活されたのは、この言葉を語るためだったと言ってもよいと思います。私た ちはそれを本気で信じることができるだろうか。こんなやつがゆるされるのか、「自分を愛してくれた先生を裏切り、見捨てて逃げ去った人たち」、「その先生 の目の前で、『そんな人は知らない、決して知らない』と三度も誓って言った男」。聖書が語るのは、復活の主は、そんな人たち、そんな男に、開口一番「安か れ」と言って出会ってくださったということです。
 もう一つは、「共に生きていく」ということです。イエス様は、「あなたがたをゆるす、しょうがないからゆるす。ただし、もうそんなあなたがたとはさよな らだ、もうこれきりだ」とは言われませんでした。それでは、本当のゆるしととは言えないでしょう。主はそんな彼らをもう一度立て、新しくご自身と共に生か し、再びご自身の働きのために遣わしてくださったのです。「わたしは、あなたがたとどこまでも共に生きる」と語ってくださったのです。
 復活の主は、私たちに先立ってもうすでにそのように生きていてくださいます。そして今も聖霊を注ぎつつ、私たちを送り出してくださいます。私たちも主イエスの後から、この主によって導かれ押し出されつつ、そのように生かされ、生きてまいりたいと願います。

(祈り)
天の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちすべてのものを愛された神よ。
 主イエスは復活されて今も私たちのただ中に立ち、聖霊の息吹を吹きかけて、「安かれ」と語りかけてくださいます。その恵み、その真実を心から感謝し、御名をあがめます。
 どうか、ここに集われた一人一人、私たち教会が、主の息吹に送り出されてそれぞれの場へ赴き、そこであなたが成し遂げてくだった、大いなる「罪の赦 し」、「神に愛され、赦されて、共に生きる」ことを指し示し、表し、実際に行って生きることができますよう助け、お導きください。
十字架と復活の主、教会のかしらでありまことの兄弟であるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る