らしくない神と共に              マタイによる福音書第6章9〜13節
                        ルカによる福音書第15章20〜24節



 「主の祈り」シリーズ、今日は「天にましますわれらの父よ」の「父よ」です。「主の祈り」において私たちは、主イエスに聞き、神に聞くということなのですが、ここでも、私たちは、まったく知らなかったこと、思いもかけないことを、イエスから聞くのです。「父よ」。
 今日は、ここでちょっと「クイズ」的趣向を盛り込んで、このお話を始めて行きたいと思います。クイズとかで、正解を言えた時「ピンポーン」と言い、残念 ながら不正解の時「ブブー」と言いますね。あれです。さて、問題です。皆さんは、この「父よ」という言葉を聞いた時、どんなことを思い浮かべ、イメージし ますか。ここで、どこかの「お父さん」の存在、姿、特徴、あるいはもっと広く「男性」の姿、イメージを思い浮かべた方。「ブブー」、残念ながら違います。
 なぜなら、イエスが「父」として私たちに紹介される神は、私たちが知っている「お父さん」のような方でもなければ、まして「男性」でもないからです。そ もそも旧約聖書の中には、こんな神様の語りかけ、お姿があります。「女が乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとえ彼ら が忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」(イザヤ49・15)「あなたがたは乳を飲み、腰に負われ、ひざの上であやされ る。母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。」(イザヤ66・12〜13)ここでは神は、圧倒的な「母」のイメージによって、ご自身を表 わしておられるのです。この世のすべてのあらゆる「母」に優る愛をもって、イスラエルまた人間を愛する神のお姿です。「神様は男をも女をも超えた方で す。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)

 そして何よりも、イエスが私たちに紹介する「父」は、全然「父」らしくない「父」だからです。このことは、あの有名な「放蕩息子とその父」のたとえにお いて、明らかです。そこでイエスが描く「放蕩息子の父」は、全然「父」らしくないのです。古代には「父」に求められている性質・特徴・生き方がありまし た。それは、権威と威厳をもって支配し治める「強い父」が求められ、賞賛される時代でした。現代で言うならは、「ぶれない強さ」、「妥協しない強さ」、 「どんなことがあっても、どんなことを言われても、今までのやり方や法に反すると言われても、断固として、粛々として物事を押し進める」、そういう 「父」、そういうリーダー、指導者が求められ、愛されます。それに比べて、この「父」は、なんとも「弱すぎる」のです。
 この「父親」に、二人の息子がありました。弟息子がある日、こんな申し出を父親にいたしました。「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をくだ さい。」財産を分けることは、通常親が亡くなった後です。それを、まだ父が生きているうちに「くれ」と言う。そんな法外で理不尽な要求に、この「父」は あっさりと「その身代を二人に分けてやった」というのです。実に不思議な父、そして弱い父です。ほどなく弟息子は、受けた財産を持って旅立ち、旅先で放蕩 の限りを尽くし、落ちぶれてしまいます。
 こんな息子でしたが、とうとうこのどん底で「本心に立ち返る」ということが起こります。彼は、不安と怖れを抱えながら、故郷へと向かい、とぼとぼと道を たどって行きました。すると、どうでしょう!「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り」。当時の基準ではもうここで「父親失格」 だそうです。当時の「父」は「家長」であり、権威と威厳がなければならないので、決して走ってはならず、堂々と歩かなければならなかったということです。 しかも、裏切ったのは息子の方ではありませんか。向こうが反省して帰って来るならよし、何もこちらから迎えに行くことはない。それを前後の見境なく、息子 を迎えるうれしさに舞い上がり、走り寄って行ってしまうとは。
 息子は、「悔い改め」のせりふを言い始めます。「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませ ん。」これに対して、父から「そうだ、もうお前には資格はない、お前など子でもなんでもない」と言われても仕方なかったでしょう。あるいは、父はたとえ受 け入れるにしても、「そんなに言うなら、お前の反省の気持ちを確かめる期間を置かせてもらうぞ、その間にしかるべき実績を見せてもらおう、そうしたらお前 を受け入れてやってもよい」とも言えたでしょう。
 しかし実際は、父は息子の言葉を最後まで言わせませんでした。「しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指 輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか』。」それは、完全な息子としての地 位・立場の回復を示しています。しかも、この息子のために宴会を開いて、大歓迎をしようというのです。この常識も人情も超えてしまっているような父の言動 に、後から帰ってきた兄息子がつまずき怒ったのも無理ありません。
 
 イエスが紹介する「父」は、全然「父」らしくないのです。しかし、イエスは私たちに向かって、この方に「父よ」と祈れ、と言われます。イエスの後について、このお方に「父よ」と祈ることは、私たちにとって何を意味するでしょうか。
 第一に、それは、この「父」から、私たちの、また「この世」のあらゆる「らしさ」に対する根本的な問いかけ、挑戦を聞くことです。「お父さんは、外で働 き、お金を稼ぎ、上に立って主導し、支配する。お母さんは、お父さんの横に立って、手伝い、助け、補助し、仕える」。「男らしさ」、「女らしさ」、「何々 らしさ」。そういうあらゆる「らしさ」に向かって、イエスの「父」は問いかけるのです。なぜなら、この「父」とは、このようなお方だからです。「地上のだ れをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイ23・9)
 第二に、このお方に向かって「父よ」と呼ぶことは、私たち自身にとっての、あらゆる「らしさ」からの解放また自由です。私たち自身が、そのような様々な 「らしさ」によって縛られ、圧迫され、「わたし」自身として自由に生きられれなくされてしまっているのではないでしょうか。「こうした固定観念はあらゆる 差別に通じる現象です。『男のくせにダメなヤツだ』『これだから女はダメなんだ』『ゆとり世代は困り者ばかり』・・・。どれも実際の個人を見ることなく、 世間が貼ったレッテルで決めつけてしまったために起きる差別的な言動ではないでしょうか。」(平良愛香『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあな たのそばにいる』より)この「らしくない」神様に出会い、触れ、関わりをいただくことの中で、私たちもまた少しずつ、それぞれを縛っている「らしさ」から 解き放たれて行くのではないでしょうか。
 そして第三に、イエスと共にこのお方に「父」と呼びかけることは、私たち自身が、お互いの間で、また私たちが生きている社会に向かって、さまざまな「ら しさ」に向かって問いかけ、時には抗議をし、またそれを変えて行く努力をする生き方を始めて行くことではないでしょうか。「あなたがたの光を人々の前に輝 かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5・16)

 さて、そうは言ったものの、大きな疑問が残ります。では、なぜ「父」なのでしょうか。イエスはなぜ、神を、「父よ」と呼びかけよと言われたのでしょう か。「父」という呼びかけ、それはこのお方が、イエスと特別な関係の中に立っておられるということを表し、示すのです。「『天の父』のもとから来られた主 イエスが、私たちにも『そう呼びなさい』と言われたからこそ、私たちも親しく『父』と呼ぶことが許されるということもできるでしょう。」(松本、前掲書よ り)このお方は、「イエスの父」だから「父」なのであり、イエスを「子」とするから「父」なのです。イエスとこの「父」との特別な関係、それは「愛」で す。それは、とてつもない愛、はてしのない愛、破格の愛です。
 その「愛」は、どこに現われているでしょうか。それはほかでもない、イエス・キリストにおいて表わされているのです。イエスこそ、まったく「らしくな い」方でした。イエスこそ、全然「救い主らしくない」方であったのです。当時の多くの人々が「救い主」に対して抱くイメージ、期待する「らしさ」というの は、「栄光」であったり、「強さ」であったり、「支配」であったりしました。しかしイエスは、これらをことごとく裏切り、それから遠く離れたあり方と道に 生きられました。その究極が、あの十字架、そこでの死であったのです。何の栄光も持たず、弱さの限りに至り、とことん支配するではないあり方を生き抜か れ、死なれたのです。だからこそ、人々はイエスを見捨て、十字架につけたのでした。
 そのようにイエスが生き、死なれたのは、愛するためでした。「父」との間で持っておられた、その究極の愛をもって愛するためでした。この愛は、乗り越え て行く愛です。この世の、全世界のあらゆる「壁」、「溝」、また「らしさ」という隔てを越えて行き、ついに最後まで行くのです。「らしさ」によって排除さ れている者へさえも、いや、そういう一人の人のところにこそ行くのです。
 自らが同性愛者であることを公にしつつ牧師をされている、平良愛香という方がおられます。その方の証しです。「心の拠りどころであるはずのキリスト教が 僕から生きる道を奪い、僕の逃げ場を奪い、僕という存在をただただ責めたてるのです。キリスト教は同性愛者である僕を苦しめました。しかし、命を終わらせ てしまおうとまで思い詰めていた僕を死ぬことから思いとどまらせてくれたのもまた、キリスト教でした。子どものころから両親に言われてきた言葉が僕の胸の 内で響きました。『神様はあなたをあなたとして造ったのだから、精一杯あなたらしく生きていきなさい』『世界中の人が敵になったとしても、イエス様だけは あなたの味方だから』」「僕自身が、自分を肯定できないときに、自分を大切だと思えなかったときに、自分を好きではなかったときに、それでも『わたしを肯 定し、大切に思い、命がけで愛してくれる絶対的な存在がいる』と信じることで、命をつなぐことができました。そこから初めて、自分をいとおしい大切な存在 なのだと受け入れられるようになったのです。今も落ち込むことはあります。死んでしまいたい、消えてしまいたい、と思うこともときどきあります。そのたび に思い出すのです。『私が私を愛せなくても、私を愛してくれる存在がいるのだ』と。」(平良、前掲書より)
 この「父」と「子」イエスとの愛は満ち満ち、溢れ流れて、この世へと届き、私たちへと届き、一人一人へと届きました。私たちが思いもよらないその「一 人」に対して、この愛は届いているのです。そのように、この特別な愛をもって、神は私たち一人一人、すべての人を愛していてくださるのです。

 「天にましますわれらの父よ」、「父よ」。イエスと共に、この「らしくない神」に祈り、呼びかけるとき、毎回、私たちはこの特別な愛を受け取り、確認 し、このお方から愛と励ましと力づけを受けて、このお方と共にそれぞれの場へと、この世へと、私たちの社会へと出て行く、送り出されて行くのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスの「父」として、まったく「らしくない父」として、あなたは御自身を現し、示し、与えてくださいました。イエスもまた、まったく「らしくない」救 い主として、その愛を貫き、生き、死なれました。このイエスの道により、イエス・キリストを通して、あなたの特別な愛は現われ、行われ、与えられました。 その愛は今私たちにも届き、私たちをもこの世のあらゆる束縛と圧迫、さまざまな「らしさ」からも解き放ち、自由とし、私たちをあなたのもとへと招き、引き 寄せ、至らせます。
 どうか、私たち一人一人また教会が、あなたのこの愛を今まさに受け、それによって救われ、生かされますように。また私たちが、あなたのこの愛の証人、実行者、奉仕者して、ここから送り出され、今週もそれぞれの場に置かれ、導かれ、用いられますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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