天にまします神にこそ      
                                     
マタイによる福音書第6章9〜13節


 イエスの祈り、「主の祈り」を、順々に取り上げていくシリーズ。今日は、神への呼びかけの第一回目です。「天にましますわれらの父よ」の、「天にまします」の部分です。
 「天にましますわれらの父よ」。私たちは、この最初から、神についてまったく思いがけないことを「聞く」のです。イエス・キリストが「われらの父」と紹 介し、私たちに、呼びかけ、祈るように導くのは、「天にまします」方、「天にまします神」です。イエスがおっしゃるのは、「私たちの心の中に働きかける」 方でもなく、「私たち、また一人一人と共におられる神」でもありません。もちろん、それらのことは間違ってはいません。神は、そういう方でもあられます。 しかし、イエスが、何よりも先に神について語り、私たちにも「祈れ」と呼びかける、その相手のお方は、「天」におられる方、「天にまします」神なのです。
 「天にまします」神、神は「天」という御自身の「場所」を持っておられるのです。もちろん、神様は、どこにでもいることがおできになります。神はどこに もおられます。これを、「神の遍在」、神はあまねくどこにでもおられるという言葉で表します。しかし、「神はどこにおられるかを一つだけ言え」と言われた ら、それは「天」におられる、「天にましますわれらの父よ」なのです。「天」とは、いわば「神様の本拠地」なのです。この「天」ということで表わされてい るのは、どういうことでしょうか。

 まず、「天」という言葉で表わされているのは、高さ、すべてのものを超えているという意味での卓越性、そして広さ、だと思います。「天」ということでま ず思うのは、「天は高い」ということです。私たち人間の目でさえ、少し高い所に登ると、日頃地上からではあまり見えないことが、よく見えます。私はたま に、少し北にある「垂坂公園」に歩きに行きます。その公園の中には、小高い丘があり、展望台があります。それはせいぜい数十メートルぐらい登った高さで す。でもその高さでも、少し上るだけで、四日市の街並みが、地上とは全く比較にならないくらいよく見えます。私たち人間でさえそうなのに、神様がおられる 「天」からは、どれほど多くのものが、どれほどよく見えることでしょうか。
 「天にまします」神は、とてつもなく「広く」見ておられるに違いありません。「天の神」が見ておられるのは、私たちの小さな「心の中」や、せいぜい私た ちの周りの数人のこととか、そういう狭い範囲ではありません。また、敢えて言うならば、私たちの教会、あるいせいぜいキリスト教の世界、そこまででもあり ません。神がおられる「天」からは、全世界が見えるはずです。神は「天」から、全世界のあらゆることを、あらゆる人のことを、あらゆるものの姿やあり方 を、広くしっかりと見ておられるに違いありません。
 また、高い所からは、遠く、長く見渡すことができます。神が「天」から見ておられるその仕方は、とてつもなく遠く、また長いはずです。それは、私たちの 小さく短い視野や射程とは比べ物になりません。神は、何十年、何百年、何千年、いや宇宙的な規模で言えば、もう私たちにも考えることも、語ることもできな いほどの広い視野と長い射程でもって、文字通りすべてを見、さらにそのすべてについて深い関心をもって見ておられるはずです。
 神様を、私たちのちっぽけなスケールやイメージの中に押し込めてしまってはいけません。イエス・キリストの神は、「天にまします」方なのです。「主イエ スから『我らの父よ』と語りかけるようにと教わったその神は、宇宙全体を支配しておられる唯一の神であり、地震や風や火の中からもお語りになることもでき る神です。―――もしも主イエスが、こっそりと私たちの心の中にしまい込まれている方でしかないなら、もしも神が、人間の最大の願望や最高の経験の投影で しかないなら、祈ることには何の意味もありません。しかしも私たちは『天にまします』父なる神に向かって呼びかけます。だからこそ私たちは、途方もなく大 きな贈り物が与えられることを大胆に求め、世界への食物を、国家間の平和を、結婚生活の癒しを、癌の治癒を、そして雨を求めて祈るのです。私たちがそのよ うな贈り物を求めて大胆に祈るのは、私たちの祈りの相手が天地を支配しておられる唯一の方、天におられる父だからです。」(ウィリモン、ハワーワス共著 『主の祈り 今を生きるあなたに』より)

 「天にましますわれらの父よ」、その「天」ということで表されている、もう一つのことは、「遠さ」「隔たり」ということだと思います。ヨーロッパのこと わざ、格言にこういうのがあるそうです。「神は天におられ、人よ、あなたは地にいる。」神がおられる「天」と、私たちがいる「地」とは遠いのです。はるか に離れているのです。「天」におられる神は、私たちをはるかに遠く超えているのです。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの 道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ 55・8〜9)だから、「天の神」は、私たちには引き下ろせないし、私たちの思い通りにはならないのです。
 さらに、神様と私たち人間との間には、「罪」という決定的な隔たり、「壁」、断絶があります。物理的な距離とかの問題ではないのです。神の見、思い、 願っておられることと、私たちが見、思い、願うこととは、全く食い違い、逆らい、対立し、ことごとく違っているのです。預言者イザヤが、この「天」にいま す聖なる神の臨在を見、経験した時、彼は思わず叫びました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびる の民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから。」(イザヤ6・5)だから本来なら、地にいる私たちが、この「天にまします」神 に向かって呼びかけ、祈るなどということは、全く成り立たない、絶対にあり得ないはずのことだったのです。

 しかし、今ここに、イエスという方が立ち、私たちに向かって、あえてこの方に呼びかけ、祈れと言われます。これこそが、イエスのキリスト、救い主、「仲 保者」仲立ちとしてのお働きと力です。「天にまします」神に向かって呼びかけ、祈れと言ってくださる、だからイエスは救い主なのです。この神に向かっては とうてい呼びかけ、祈ることなどできないはずの私たちを、イエスはご自身のもとに招き、引き寄せ、イエスご自身と共にこのお方に祈り、このお方に聞き、こ のお方に従って生きる道また生き方へと、私たちをただ恵みによって入れてくださるのです。
 そして、そもそもイエスがそのようにしてくださるのは、なぜでしょうか。それは、神が「動く方」だからです。ご自身の意志をもって、積極的に「動く」神 だからです。その神様の動きとは、「下る」という動作です。「天」におられる神は、「下って」来られるのです。旧約の「創世記」の中で、人間たちが傲慢に も「天に届こう」とバベルの塔を建てようとした時、神は「下って」来られ、彼らの互いの言葉を乱し、その作業を中断させ、その人間の行いを裁かれました。 また、「出エジプト」において、小さな弱い民イスラエルがエジプトで奴隷とされて苦しみ、叫んだ時、「天」におられる神はこう言われました。「わたしは 下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って」。「天」におられる神は、天地創造の昔からずっと、そのように生き、働いて来 られた方なのです。
 そして何より、イエス・キリストです。このお方こそ、「天から下り」、私たちに近づき、私たちを救う神なのです。「すべての人を照らすまことの光があっ て、世に来た。」「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」(ヨハネ1・9、14)それは、もう徹底的にです。それは「天を引き下ろす」ほど に、「十字架に至るまで」でした。イエス・キリストこそ、このような「天の神」と私たちとをつなぎ、結び付けてくだるのです。そして、ご自身と共に、こう 祈らせてくださるのです。「天にましますわれらの父よ」。イエスは共に祈りつつ、言われます、「聞け」。「あなたがたが思い、願うことではなく、天におら れる神が思い、しようと思われるところを聞け。あなたがたができないところ、したくないと思っていることではなく、天の神ができること、この神がしようと 思っておられるところを聞け。」

 20世紀最大の神学者と呼ばれるカール・バルトは、この「天にまします」神に触発されて、この世の事柄、特に政治の領域にも深い関心をもって考え、語 り、動いた人でした。バルトが生きた時代、それはアメリカを中心とする資本主義の西側と、今のロシア、旧ソ連を中心とする「社会主義国」の東側とによる、 東西対立の時代でした。バルトは、その中で1960年代後半に東側のチェコスロバキアで起こった「プラハの春」という運動に深い関心をもって見守っていま した。「思想・言論の広い自由を伴った社会主義社会を作ろう」という動きです。しかし、この運動は、間もなくソ連の権力によってつぶされます。
 「バルトが亡くなったのは1968年12月のことだった。彼が希望をもって見守っていた≪プラーハの春≫の実験は、この年の八月に東欧五ヵ国軍の介入に よって戦車のキャタピラの下に粉砕された。バルトの亡くなる前夜に、60年来の友人トゥルナイゼンはバルトに電話をかけて、互いに心を暗くするような世界 情勢について話し合った。最後に、この談話を打ち切ったバルトは、トゥルナイゼンを勇気づけて、こう言った。『さあ、意気消沈だけはしないでおこうよ。な ぜなら治めていたまう方がおられるのだから。―――モスクワやワシントンや北京だけではない。全世界を、まったく上から、天から、治めていたまう方がおら れる。神が統治しておられるのだよ。だから心配はない、どんな暗い時にも心配はないよ! 希望をなくさないようにしようよ。すべての人にたいする希望を。 神は、私たちを滅びるままに委せられはしない。―――治めていたまう方がおられるのだよ』。」(宮田光雄『キリスト教と笑い』より)
 イエス・キリストは、私たちの耳と心と生き方を、このお方へ向け、ご自身と共にこのお方に聞き、祈り、このお方に聞き、従って生きるようにと招き、促し、導かれます。「天にましますわれらの父よ」。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスは、私たちがまったく聞いたこともなかったこと、まったく知らなかった、あなたのことを私たちに教え、示し、命じて言われました。「あなたがたはこう祈りなさい、天にましますわれらの父よ」。
 神よ、あなたは天におられます。「天」においてあなたは、私たちの見ないものを見、知らないことを知り、思いもしないことを考え、進めておられます。 「天にましますわれらの父よ」、私たちもイエスと共に、イエスについてこう祈る中で、そのあなたに聞き、あなたと共に、あなたに従って生きることを教え、 お導きください。私たち一人一人とその教会を、そのように祈り、語り、行動し、生きる者たちとしてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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