主の祈り―――イエスと共に神に聞く      
                                     
マタイによる福音書第6章9〜13節
                      ルカによる福音書第22章31〜32節



 先週もお知らせしましたように、これから「主の祈り」を1節1節、共に聞きながら学んで行きたいと思います。
 今日は、最初に、共に考えたいのです。「主の祈り」とは何でしょうか。それは、どんな祈りなのでしょうか。今年度のテーマに引き付けて、一言で言えば、それは「聞く祈り」なのです。いったい、どういうことでしょうか。

 まず、そもそも「主の祈り」とは、どういう、だれの祈りでしょうか。教会ではよく、「主の祈り」が、「主」つまりイエスが私たちに教えられた祈りとして 理解され、紹介されます。「主が教えられた祈り」、だから「主の祈り」というわけです。例えば、礼拝の中で「主の祈り」を導くとき、よく「主イエスは『こ う祈れ』と教えられました」と言われることがあります。イエスが教えられて、その通りに私たちが祈っている祈り、ということです。
 けれども、はたして本当にそうでしょうか。「主の祈り」、つまり「イエスの祈り」と言ったら、だれが祈っていることになるのでしょうか。例えば、「パウ ロの祈り」「モーセの祈り」と言ったら、どうでしょうか、誰が祈っているということでしょうか。そうです、「パウロの祈り」と言ったらパウロが語り祈って いる祈りですし、「モーセの祈り」ならモーセが祈っている祈りです。ならば、「主の祈り」「イエスの祈り」とは、だれよりも先に当のイエスが祈っている、 イエスの祈りなのです。「主の祈り」において、何よりも先に私たちは、まさにイエスが祈っておられるその御声を聞き、イエスが祈っておられる御姿を見るの です。「ルカによる福音書」の「主の祈り」の場面(ルカ11章)では、弟子たちが「主よ、私たちにも祈ることを教えてください」との求めに応じて、イエス が「主の祈り」を教えられたことになっています。一般的に言っても、自分がしてもいないこと、自分ができもしないことを、人に教えることはできません。主 イエスは、この祈りをイエスご自身がたびたび祈っておられたからこそ、それを私たちにもまた教えることがおできになるのです。「主の祈り」とは「イエスの 祈り」、イエスが祈られる祈りであり、「主の祈り」において私たちは、イエスが祈っておられるのを「聞く」のです。私たちは、イエスに聞き、イエスから教 えられつつ、イエスの後について祈りはじめるのです。「天にまします我らの父よ」。
 それは、先のルカ福音書にあるように、私たちが「祈ること」を知らないからです。私たちは、余りにも神から遠く離れ、しかも神の御心に背いている者たち であるからです。イエスがあの十字架において祈られたように、「何をしているかわからない、本当は何を求めているかわかっていない」者たちだからです。そ の私たちは、「主の祈り」においてイエスに聞き、イエスが祈るのを聞き、イエスから祈ることを学ぶのです。

 また、「主の祈り」とは、イエスと共に聞くこと、イエスと共に神に聞くことです。イエスが教えてくださること、それはただ祈りの言葉だけでなく、祈る姿 勢、祈りつつ生きる生き方です。そもそも祈りとは何でしょうか。「人が祈る時、それはかれが自分自身とかれの生きている世界をどのように見ているかという ことを示しています。祈る人は謙虚にうなだれる。そのことによって、かれは自分が経験してきたこと、またそこからみずから導き出した人生観や哲学を絶対の ものと思わず、自分を超えるものがあることに打たれているのです。かれは目をつぶる。つまり、自分が見てきたものだけに視線を注ぐことをやめて、『見えな いものに目を注ぐ』のです。またかれは手を組み合わせます。自分の力による業に、終止符が打たれている。―――祈りとは、私たちの自己主張がやみ、私たち が獲得したと思っている結論が沈黙し、わたしたちの自我がひざを折って、空しくなることです。自分が今まで見ていなかったものに向かって目を向け、今まで 聞いていなかった言葉に対して耳を開き、今まで受け入れていなかった真実に対して心を空しくすることです。―――弟子のひとりがイエスに、『主よ、わたし たちにも祈ることを教えて下さい』とお願いしたと書いてありますが、これはありきたりのこととは思われません。祈りを教えて下さいということは、単に祈り の言葉遣いなどの問題ではなく、人生や世界をどのように見、どのようにそれに対していったらよいか教えて下さいということであり、これは実は、すべてのひ とにかかわる、いわば人間存在の深みから発した願望なのです。」(村上伸『神の国の福音に生きて』より)
 まさにそのようにイエスは、自分の願いを求めるよりも真っ先に、いつも父なる神に聞いておられました。「わたしは、自分からは何事もすることができな い。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨 を求めているからである。」(ヨハネ5・30)自分の願いは後にし、イエスはいつも父に聞いておられました。それがイエスの祈り、「主の祈り」でした。
 まさにこのことが、私たちにはできないのです。この祈り、この姿、この生き方が、私たちにはできないのです。それが、聖書が語る「罪」ということです。 「罪人」である私たちを、イエスは御自身のもとに引き寄せ、御自身と共に、神との正しい関係の中へと入れてくださる、これこそが「イエス・キリストの救 い」なのです。イエスと共に、神に聞き、神に応える。そのようにしてイエスと共に、神の道を歩み、生きる。この救いの道を、私たちは「主の祈り」を祈るこ とによって実践し、その道を共に歩み行くのです。

 さらに、「主の祈り」とは、イエスを通して、イエス・キリストを通して、神に聞くことです。先に、「主の祈り」とは、聞くことなしには決して祈れない祈 りだと申し上げました。「御名」とは、「御国」とは、「御心」とは、「われら」とは? それらのことを、主に尋ね、「主に聞く」ことなしに、私たちは「主 の祈り」を祈ることはできません。
 その答えは、どこにあるのでしょうか。それは、決して、何かの書物に、「聖書神学辞典」のような本があって、そこに「御名とは何々、御国とはこれこれ、 御心はこういうことで、われらとは誰々」などと、箇条書きに書いてあるようなものではありません。その答えは、このお方、イエス・キリストにこそあるので す。イエスの全生涯、イエスがそのすべてをもって生きられた道、その十字架と復活に至ったそのイエスご自身にこそ、答えはあるのです。「そして言は肉体と なり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネ1・ 14)「主の祈り」、この祈りを絶えず祈り、この祈りにおいていつも父なる神に聞き、父の御心に従い、隣人を愛して共に生きられ歩まれた、イエスの歩み、 イエスの道の中にこそ、「御名」「御国」「御心」「われら」は現われ、示されているのです。私たちは、それを聞くのです。イエス・キリストを通して神に聞 くのです。「主の祈り」を祈りつつ、私たちもイエスと共に神に聞き、イエスと共に神に従って生きるのです。

 「主の祈り」とは、イエスの祈り。私たちはそこで、イエスが祈っておられるその御声を聞くのですが、その祈りの中に、私たちは私たち自身の名前をも聞き 取るのです。イエスの弟子シモン・ペテロは、このイエスの祈りの声を聞きました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかける ことを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさ い。」(ルカ22・31〜32)イエス・キリストがシモン・ペテロのために祈られる、その祈りの声、それをペテロは実際に聞いたのです。それは、彼が捕え られたイエスを「そんな人は知らない」と三度も否定したその直後でした。彼が、もうどうにも、決して取返しのつかない罪を犯し、イエスを裏切り捨てた、そ のどん底において、彼はこのイエスの祈りの声、イエスが自分のために祈ってくれるその御声を聞いたのでした。
 私たちは、きっと自分のことを真っ先に祈ろうと思うでしょう。しかし、それにはるかに、そして決定的に先立って、イエスが、イエスこそが、私のために、 私たち一人一人のために祈っておられるのです。それが「主の祈り」です。「『主の祈り』もそうなのではないかと思います。あれはイエスが私たちに教えた祈 りではなく、イエスが私たちのために祈った祈りだと。私たちが唱える『主の祈り』は、実は私たちが、主によってすでに祈られていたということを示してい る。―――『彼らに食べ物を与えてください』『罪を赦してやってください』『お互い赦し合えるようになりますように』『試練に遭わせないでください』。 ―――イエスに祈られている。だから私たちも『主の祈り』を祈ることができる。祈ることができない日も、あなたは『主の祈り』に包まれています。主は、あ なたの信仰がなくならないように祈られたのです。」(奥田知志『ユダよ、帰れ』より)
 それは、具体的にどのようにわたしのために、私たちのために祈ってくださっているのでしょうか。それは、「神の御名」において、「御国の計画と道」の上 で、「神の良き御心」の中で、「われら」と呼ばれる人々と共に歩み生きる道において、です。私たちは、自分のことも、いや、自分のことこそ、自分たちの小 さな尺度と思いとまなざしの中でしか、捉え、理解し、願い、祈ることができません。そこには何の展望も、解決もないのです。どんな力も、愛も湧いては来な いのです。しかしイエスは、その私たちを、広く、大きな「御名」「御国」「御心」の中に置いてくださる。大きく、広く、豊かな、「われら」と共に生きる世 界と道の中に置いてくださる。そのようにした上で、祈ってくださるのです。「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心の天になるごとく、地 にもなさせたまえ」。
 「イエスは言われる。『そんな数日なんて、小さな『スケール』で勝負をしたらだめ。数千年に及ぶ神の歴史という大きな『スケール』でとらえなさい』と。 ときとして私たちは、小さな『スケール』に合わせて事柄を捉え、考え、悩み、絶望する。―――絶望している者の『スケール』は小さく貧しい。『スケール』 が小さいから、すぐにわかったような気になり、その結果絶望する。でも、それは真実を根拠としているか。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)イエ スは私たちを、私たち一人一人を、神のとてつもなく大きく、広く、そして高い『スケール』の中に、「御名」「御国」「御心」「われら」の中へと置き、そし て祈っていてくださるのです。「天にましますわれらの父よ」。私たちも、このイエスに聞きつつ、イエスと共に、イエスの後について、祈り始めましょう。 「天にましますわれらの父よ」。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスこそが祈っておられます。「天にましますわれらの父よ」と。それは、私たちが祈ることを知らない祈りであり、本来私たちは決して祈ることのできな い祈りでした。しかし、イエス・キリストは、その私たちをご自身のもとへと招き、引き寄せ、あなたとのこの正しい、幸いな関係の中へと引きいれてください ました。
 この恵み深い救いのゆえに、私たちも祈ります。イエスと共にあなたに聞き、イエスの後について祈り始めます。「天にましますわれらの父よ」。どうか、こ の私たちの祈りを導き、教え、聞き届けてください。イエスと共に、あなたと共に、また「われら」と共に生きる私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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