神の御声に耳を澄ませ      
                                           
マタイによる福音書第6章5〜8節


 「しもべは聞きます」が、今年度の私たち教会の主題です。言い換えれば、「主に聞くこと」がテーマであるわけです。ここで問いたいと思います。 「主に聞く」と言いますが、いったいどこで聞くのでしょうか。具体的に何によって聞くのでしょうか。どのようにして、主の御声、御心に聞くのでしょうか。
 結論を初めに言ってしまえば、それは「祈りによって聞くのだ」「祈ることによって聞くのだ」ということになります。しかも、教会という視点をもって考え るならば、「共に祈ること」、さらに具体的に言うならば、こうして礼拝において、またできることなら祈り会等の共同の祈りにおいて「共に祈ること」、この ことによって共に主の声を聞き、主の御心に共に耳を傾けるのだ、ということになるでしょう。
 「人は森羅万象の中に自分の力のおよばないさまざまの力を認めて、これを神と呼びました。多神教の始まりです。これらの神々が暴れ出すと手も足も出ませ ん。地震も津波もすべてこれら荒ぶる神々の仕業だと考えられました。そこで何とかして神々の御機嫌を取り結ぼうと捧げ物をし、神々それぞれの得意技に応じ て自分たちに都合の良いおめぐみを願います。無病息災、家内安全、病気平癒、受験合格、良縁成就―――子孫繁栄。でも、これは神々を自分の都合で動かそう としていることだといってよいでしょう。―――こういう発想に正反対なのがユダヤ教です。天地万物の造り主である神さまこそ人間のあるじ。人は神さまのた めに作られた道具であり、ひたすら、神さまのお声を聴くことこそ最も正しい態度だと言えるのです。キリスト教もまた同じです。『神さま、お声を聞かせてく ださい。わたしをお役に立ててください。わたしはそのためにこそ神さまに造っていただいたのです。お役に立てることこそ、わたしの無上の光栄です。どう ぞ、お示しください。何をしたらよろしいのでしょうか。』もっぱら『祈る』と訳されてきたプロセウコマイは、『祈る=願う』ではなく、『神さまの声に心の 耳を澄ます』と訳すべきだというのがわたしの結論です。」(山浦治嗣『イエスの言葉』より)「祈りにおいて、主に聞く」、このことを、今日のイエスのお言 葉から後付けて行きたいと思います。

 そういうわけで、今日の箇所は、主イエスが祈りについて、祈ることについて語られた所です。ここは、大きく前半と後半に分かれています。前半で特に強調 されているのは、「隠れて祈れ」ということです。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。す ると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」ここで、「部屋に入り、戸を閉じて」というのは、「一人で祈れ、祈りはもっぱら一 人で祈るものだ」ということなのでしょうか。そうではないのだというのです。「これは礼拝や祈祷会など公の場でなされる祈りを否定しているのではないで しょう。公の場とという『場所』よりも、むしろ祈りがポーズになってしまうという『姿勢』が問題なのです。祈りはいったい誰に向かってなされるのか、とい う基本に立ちかえらされます。―――また私たちは一人で祈るといっても、そもそも祈ることをどこで学ぶのでしょう。礼拝や祈祷会のような交わりの中でこそ 学ぶことができるのではないでしょうか。祈ることを知らなかった者が、礼拝に出席し、祈祷会に出席し、人の祈りに連なることによって、生きた祈りを学ぶの です。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1』より)要するに、ここで大切なことは、「祈りはいったい誰に向かってなされるのか」、つまり「神様と正面か ら向かい合うのだ」ということです。それはいったい何のためかと言えば、「聞くため」です。「主にしっかり聞く」ためにこそ、「主に正面から向かい合う」 のです。「自分の部屋に入り」とか「戸を閉じて」とか、諸々の場や方法は、「主に聞く」ためにこそあるのです。
 また、イエスが「われらの父」「あなたがたの父」とお呼びになる神は、「隠れておられる」ということが注目されます。神は「隠れておられる」のです。そ れはつまり、「神の御心やご計画は、私たちにはなかなかわからない」ということではないでしょうか。つまり、私たちの予測、願いまた願望をはるかに超えて おられるのです。時には、それらに反するような形をとることさえあります。だから、「主に聞く」ことが必要なのです。「主よ、これはどういうことですか、 あなたの御心はどこにあるのですか。」また、「父は隠れたことを見ておられる」ともあります。つまり、神様の「目のつけどころ」、神が見ておられること、 関心を持っておられることもまた、「隠れている」、私たちにはわかにはわからないのです。世の中が注目していることや、私たちが求めつつ見ていることとは 全く違っておられるのです。「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのであ る。」(マタイ25・40)だからこそ、「主に聞かなければ」ならないのです。「主よ、あなたはどこを見ておられますか、どこの、どのような人に注目して おられますか。」

 このイエスの言葉の後半は、「くどく、長い祈りへの批判」です。「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれら れるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。」ここで批判されている「祈り」の姿勢とは、「長く、くどくどと、言葉かずを多くすることによって、 つまり自分たちの言葉や行動の力によって、神々を説得し、時には脅すことすらして、神を自分の思い通りに動かし、自分たちの願いをかなえる」、そういうあ り方なのだと思います。「そうではない。」
 それどころか、イエス・キリストはこう言われます。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」これがイ エスのお言葉であることに決定的・究極的に重みがあります。なぜなら、この神様こそは、このお方イエス・キリストによって、私たちをどこまでも、徹底的に また決定的に愛された方だからです。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物 をも賜らないことがあろうか。」(ローマ8・32)
 でもここで、こんな疑問を持つ方があるかもしれません。「じゃあ、なぜ祈るの? 神様が私たちに必要なものは、祈る前から知っておられるというなら、も う別に祈る必要はないのでは。」そうです、その通りです。だから、本来的には、もう何かの「願い」を神様に述べる必要はありません。しかし、「祈る」必要 と務めはあります。なぜ祈るのでしょう。それは「聞く」ためです。何のために祈るのでしょう。それは、「主に聞く」ためです。私たちは共に「主に聞く」た めに、教会において共に祈るのです。「あなた自身はもうすでに十分である。いや神は今も十分にあなたに対して与え、守り、祝福しておられる。だから、あな たは神への讃美と、御旨の成就と、他の人々の食と、赦しと、誘惑と、悪からの解放のために祈れ。それが救われたわたしの弟子の祈りであると、主イエスはお おせ給うて、わたしどもに祈ることを教えておられるのです。自分のために多く祈るけれども、神を賛美し、御旨の成就と他人の幸福のために祈ることの少ない わたしどもは、この戒めを心にしかととめて祈らねばなりません。自分のために祈っても祝福はありません。けれども神の御旨の成就と隣人の幸福の中に自分の 願いをこめて、『われらの』と祈るとき、神の祝福が与えられるのです。」(菊地吉彌『山上の説教』より)

 では、どうやって、何によって、共に祈り、共に主に聞くことが、私たちにはできるのでしょうか。そこで、主イエスはこう教え始められます。「だから、あ なたがたはこう祈りなさい。」こうして教えられたのが、「主の祈り」です。ですから、極めて具体的に、端的に言えば、「主の祈り」、私たちはこの祈りを共 に祈ることによって、「主に聞く」。
 なぜなら、この「主の祈り」こそは、まさに「聞く祈り」、「聞く」ための祈り、「聞く」ことなくしては決して祈り得ない祈りだからではないでしょうか。 「主の祈り」とは、決して自明の祈り、当たり前の祈りではないのです。ここでは、先のイエスのお言葉とぴったり合うように、「私の」、自分の願いや願望に ついては、一切語られてはおりません。むしろ最初に出て来るのは、「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心の天になるごとく地にもなさせ たまえ」、つまりすべて神様のための祈りです。「御名」とは、「御国」とは「御心」とは、はたして何でしょうか。私たちにはまったく分かりません。だから まず、「聞く」ことから始めなければならないのです。「主よ、あなたのお名前とは、あなたの国とは、あなたの御心とは何でしょうか。」また、「主の祈り」 の後半は、すべて「われら」のための祈りです。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆ るしたまえ」、「われらを試みにあわせず、悪より救いい出したまえ」。その「われら」とは、誰のことなのか。私たちは、その「われら」、誰のために、何を 願い、祈ればよいのか。これもまた自明のことではありません。私たちは、このこともまた「主に聞かなければ」ならないのです。「主よ、教えてください。 『われら』とは、どこの、どのような、だれのことでしょうか。私たちは、だれのために、何を祈るべきでしょうか。」
 そういうわけで、これからしばらく、「主の祈り」を取り上げて、ご一緒に神様の語りかけを聞いてまいりたいと思います。まさに「主に聞く」ことの実践としての「主の祈り」について、ご一緒に聞き、学んで行きたいと思います。お祈りとお支えを、心からお願いいたします。

 「宗教改革者ルターは、『祈りは神にとって必要なのではなく、われわれにとって必要なのである』と言いました。私たちは、神様と生きた関係に入るため、 生きた交わりをもつために祈るのです。」(松本敏之、前掲書より)「祈り」とは何でしょうか。それは「神の御声に耳を澄ます」(山浦治嗣)ことなのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 あなたは、イエス・キリストにおいて、その十字架と復活に至った全生涯によって、私たちを決定的に、究極的に愛された神として、ご自身を示し、与えられ ました。そのあなたに「祈れ」と、主イエスは教えられます。それは、まさにあなたと正しく向かい合い、あなたに心から耳を傾けて聞くためです。「しもべは 聞きます、主よ、お語りください」との思いをもって、共に祈り、共に礼拝し、共に生きることに献身して行く、私たち教会であり、その一人一人でありますよ うに、この一年もお導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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