しもべは聞きます―――闇の中で呼んでくださる神に      
                                           
サムエル記上第3章1〜18節


 先週、私たちの教会の総会で、今年度の主題と聖句が決まりました。それで今日は、その箇所を取り上げて、この1年間私たちが取り組んで行く働きと道について、聖書から共に聞いて行きたいと思います。
 今、神は、一人の幼子サムエルを呼び、語りかけられます。それに答えて言ったサムエルの言葉がこれです。「しもべは聞きます。主よ、お話しください。」 私たち教会と一人一人も、ここから、主なる神の呼びかけに耳を傾けて聞き、それに答えて生きて行く道について聞き、学びたいと思います。
 神は今、サムエルを呼ばれます。「サムエルよ、サムエルよ」。時は夜、闇の中でありました。真夜中に、神は繰り返して、何度も、神の宮に仕えて寝ていた 少年サムエルをお呼びになります。「サムエルよ、サムエルよ」。しかし、サムエルは、それが神の声であることに気づきません。育ての親であり信仰の師匠で もある祭司エリのところへ、その度に行って、「あなたがお呼びになりました」と言い、エリから「わたしは呼ばない、帰って寝なさい」と言い渡されるので す。
 神の呼び声に気づかない、それは少年の無知と未熟さでもあるでしょう。しかしそれ以上に、「この世の闇」とも言うべき、人間の罪と不信の状況があったの です。その一つの大きな表われは、祭司エリの二人の息子たちの不正と悪行でした。でもそれは、かれら宗教者たちだけの問題ではなく、その当時の社会が、上 から下まで、特に指導者層において堕落し悪と偽りの道を歩んでいたのではないでしょうか。その結果として、このようなことになっていました。「そのころ、 主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。」つまり、神の言葉を聞くということが、極めてまれで、それを多くの人々がほとんど経験することがなかったとい うことなのです。それは、「神様が」と言うよりは、むしろ人間の側に大いに問題があったのではないでしょうか。「神様の言葉、声」と言うと、縁遠く感じら れるかも知れませんが、言い換えれば「超越的な、人間を超える言葉、人間の真実・正しさを問う言葉、そしてそれに答えようとする自分の良心の言葉」と言っ てもいいかも知れません。そのような「神様の言葉を聞きたくない、だからそれを聞くことを求めることもしない、だから聞き方もわからない、聞けない、代わ りに何を聞くかと言えば、自分の願望と欲望の言葉だけを聞く、自分たちの言葉だけを聞く、ほかの人間の言葉だけ、自分にとって有利になり得になりそうな言 葉だけを聞く」。そうして神の言葉から遠ざかり離れて行くとき、人間とその社会は、どんどん悪と偽りと不正が横行して、闇の中へと転落して行きます。
 マーティン・ルーサー・キング牧師が語っています。「われわれの世界も今や真夜中である。そしてこの暗闇はあまりにも深くて、われわれの行くべき方向も なかなか分からない。まず社会秩序が真夜中である。ーーーこの真夜中は、同時に人間の内的個人的生活における真夜中と平行している。いまや心理的秩序も真 夜中である。あらゆるところで人を立ちすくませるような恐怖が、昼となく夜となく人々を苦しめている。不安と失望の深い暗雲がわれわれの精神的天空に立ち 込めている。ーーー道徳的秩序もまた真夜中である。真夜中にはすべての色合いは、はっきりとした区別を失い、にぶい灰色になってしまう。そのように道徳的 原理もはっきりとした色合いを失ってしまう。現代人にとっては、絶対的に正しいことと間違っていることは、大多数の人々がやっているか否かの問題であ る。ーーー真夜中の倫理によれば、主要な罪とは捕らわれることであり、主要な徳とはうまくやることである。つまり、嘘をついてもよい、しかし本当に巧妙に 嘘をつかねばならない。盗んでもよい。もしその人が十分威厳をもって盗むなら、たとえ逮捕されても、その嫌疑は使い込み程度になり、強盗とはならない。そ して憎むことさえも、その人がその憎しみをあたかも愛の行為であるかのごとくに、愛の衣に身を包んで行うならば、容認される。」(『真夜中に戸をたたく  キング牧師説教集』より)

 そんな闇の世のただ中で、今夜神は、この少年サムエルを選び、彼に向かってひたすら呼びかけられます。「サムエルよ、サムエルよ」。たとえ最初は気づか れなくても、ついに三度も神は呼びかけられます。「サムエルよ、サムエルよ」。「三度」というのは、聖書では象徴的意味をも持つ言葉です。パウロは自分の 祈りについてこう言いました。「三度も主に祈った」。それは、「徹底的に、どこまでも」という意味です。
 「サムエルよ、サムエルよ」、神は「三度も」、「徹底的に、どこまでも」、人の名を呼ぶ、人に呼びかける。このサムエル少年は、後に「預言者」として立 てられ活躍するわけですが、「預言者」はいわば「他の人間たちの代表」です。他の人間を代表して神に言葉を預けられ、代表して神の言葉を語るのです。それ は、単に「言葉だけ」のことではなく、「関係」をも代表します。神と預言者との関係が、神と人間との関係のモデルにもなっているのです。ですから、神様は サムエルだけを呼びたいのではありません。本当は、神はすべての人間に呼びかけ、すべての人の名を呼びたいのです。なぜならば、「神は愛だから」です。神 様は、人が大切なのです。神は、人間を欲し、人間との関わりを欲せられるからです。「神は呼び、人は答える」、この関係をどこまでも求められる神だからで す。
 サムエルの師匠エリは、ここでは損な役回りです。自分の息子たちをまともに育てられず、自分の健康も力も衰え、そして後には神の厳しい裁きを聞くことに なります。でも、「腐っても、鯛」です。彼は祭司として、神様という方をよく知っていました。その神の前に人としてどう立てばよいのかも、良くわかってい ました。だからエリは、サムエルの無知と未熟さを忍耐し、そして知恵をもって教えるのです。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きま す。主よ、お話しください』と言いなさい。」「神から呼ばれたら、神に聞き、神に応答しなさい。」神の恵みの呼びかけがあってはじめて、人は聞くことがで きるのです。神が愛をもって名前を呼んでくださるからこそ、人間は意志と自由をもって応答できるのです。「神から呼ばれ、それに答える」、この関係こそが 大切なのです。エリは良くわかっていました。

 サムエルは、神の声に答えました。「サムエルよ、サムエルよ」、「しもべは聞きます。お話しください。」その時彼が神から聞いたのは、厳しい裁きの言 葉、災いの預言の言葉でした。エリの息子たちを罰し、ひいては神から背いたイスラエルの民をも罰する。神が語られる言葉は、時に厳しく、つらいのです。ど んなにつらく、厳しくても、逃げてはいけないのです、隠してはならないのです、恐れてはいけないのです。どんなに厳しくつらい言葉であっても、そこに正し い関係があるから聞けるのです。そして何より、「神は、最終的・究極的には、愛し、祝福していてくださる」と信じているから、呼び声に聞き、それに答えて 行くことができるのです。エリはそのことを知っていました。だからエリは、サムエルに命じました。「主の言葉を、決して隠してはならない。それを、聞いた そのままに語りなさい。」サムエルは語りました。厳しい裁きの言葉を、一つも割り引かず、水増さずに語ったのです。エリはそれに聞き、それに従いました。 「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように。」「『それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように』と語る信仰は 実に立派で、感動的です。ーーーエリは自分の子の罪ゆえに、家に下される主の裁きを受け入れ、これに潔く服そうとします。その災いが主の裁きであるなら、 それに聞くところにまた主の救いがあります。ーーーそれが喜ばしい救いの言葉でなくても、主の言葉である限り、徹底して聞くところに救いがあります。」 (ホームページ「鳥井一夫 聖書の部屋」より)「サムエルが語った神の言葉は、その表面上の冷たさからは察することのできない恵みを、エリに対して及ぼし たのです。この言葉によって、エリは、自分の正義を主張する頑固な偽善者としてではなく、神にすがる憐れな罪人として死ぬのです。ですから、わたしたち は、ためらうことなくこう言いたいのです。『このように死ぬ者こそが、主にあって死んだのだ』と。」(ホームページ「悩める魂への慰め」より)そしてサム エルもまた、正しい預言者、主の言葉を曲げす落とさず語る預言者として立って行けるのです。

 人間の罪とこの世の悪の闇の中でも、主なる神、イエス・キリストの神は、人間に向かって呼びかけ、その名をもって呼んでいてくださる。「サムエルよ、サ ムエルよ」、「サウロ、サウロ」、「マルタよ、マルタよ」。これが、福音です。このことを象徴的に指し示す言葉が、この3章の中にあります。「神のともし びはまだ消えず」という言葉です。文字通りには、「神の宮の灯火は消えていない時刻であった」ということですが、「神の愛と真実の火はまだ消えていない」 とも読むことができるのではありませんか。
 この神の愛と真実を表す灯火が消えないように番をし守りつつ、サムエルはその傍らで寝ていました。十分に神様のことはわからなくても、忠実にその自分の 務めを果たしていたのです。今のこの時代にも、「神のともしびは消えていない」、神の愛と真実は決して消えていないし終わってもいない、そのことを信じ、 守り、それにじっと仕えて行く者が、者たちが求められているのではないでしょうか。私たち信仰者とその教会も、そのような者たちの中にあるようにと求めら れているのではないでしょうか。
 キング牧師はまた語ります。「教会が語らなければならない最も感動的な言葉は、真夜中は長く続かないという言葉である。ーーーわれわれが持っている永遠 の希望のメッセージは、夜明けは必ず来るというメッセージである。ーーー夜明けへの信仰は、神は善良で正しい方であるとの信仰から生まれるものである。人 がこのことを信じるとき、彼は人生のさまざまな矛盾は究極的なものではないことを知るのである。彼は暗夜を通して、神を愛する者にはすべてのことが相働き て益となるとの晴れやかな確信を持って、歩み続けることができるのである。」(前掲書より)主なる神、イエス・キリストの神は、その究極の愛と真実をもっ て、私たちをも丸ごと、存在ごと、名前をもって呼び、求められます。「サムエルよ、サムエルよ」。名をもって呼ばれるとき、私たち信仰者と教会はそれに答 えて、そこに座し、またそこから立ち上がることができます。「主よ、お話しください。しもべは聞きます。」そのように神の呼び声に、答えて聞く人々、世の 人々の代表として、答えて聞く人が必要なのです。

 そして、主の声に答えて、聞いた人は、また主の言葉を受け取り、預かって、それをまた語り始めるのです。最後に再びキング牧師の言葉をご紹介します。 「恐るべき戦争の最中には、人々が平和のパンを求めて、教会の戸をたたいてきた。ところが、教会はしばしば彼らを失望させてきた。現代世界の問題における 教会の不適切性を悲しくも示しているのは、何よりもその戦争に対する証しである。武力増強と排外主義的熱情と帝国主義的搾取に夢中になっていった世界にお いて、教会はこれらの行動を擁護するか、あるいは恐るべき程に沈黙を守ってきた。過ぐる二度の世界戦争において、諸々の国民教会は国家の忠実な下僕とし て、戦艦に聖水を振り掛けたり、『主をたたえ、弾薬を渡せ』と歌いながら巨大な軍隊を承認したりした。―――教会は、自らが国家の主人でも下僕でもなく、 国家の良心であることを、想起しなければならない。それは、国家の案内人であり批判者であって、断じてその道具ではない。もし教会がその預言者的情熱を取 り戻さないならば、それは道徳的ないし霊的権威を失った不適切な社交クラブに成り下がってしまうであろう。ーーーしかしながら、もし教会が死にゆく現体制 の束縛から自由になり、その偉大なる使命感を取り戻して、正義と平和のために大胆にかつ粘り強く語ったり、行動したりするならば、それは人類の想像力を掻 きたて、人々の魂に火をつけて、彼らに真理と正義と平和への輝かしい熱い愛を注ぐことになるであろう。かくして、いたるところで人々が、教会を真夜中の孤 独な旅人に光とパンを提供する、偉大なる愛の交わりとして認識するようになるであろう。」(前掲書より)
 今、私たちも、闇の中で呼びかけてくださる神に聴き、答えてまいりたいと切に願います。「サムエルよ、サムエルよ」、「しもべは聞きます、主よ、お話しください」。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 あなたは今も、この罪と悪の闇の世界で、私たちをも呼んでいてくださいます。どうか、「主よ、お話しください、しもべは聞きます」とその呼び声に聴き、答えて生きる私たち一人一人また教会として、この一年も私たちをお導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る