空っぽと絶句から始まる       マルコによる福音書第16章1〜8節


 イースター、主イエス・キリストのご復活、おめでとうございます!
 私たちの考えやイメージは、他のいろいろなものによって影響され、作られています。イエス・キリストの復活については、どうでしょうか。私たちは、イエス・キリストの復活について、どんなイメージを抱いているでしょうか。
 「イースターと言えば、メサイア、ヘンデルのメサイア」ということがあります。キリスト教が伝統的に信じられてきた国や、キリスト教の世界では、この受 難節からイースターにかけての時期になると、よく「メサイア」が演奏されるのです。「メサイア」の中では、イエス・キリストの受難そして十字架、そしてそ の復活と勝利が歌われるわけですが、その曲の内容やイメージによって、逆に私たちの復活に関するイメージが形作られて行くという面もあると思います。それ は、「メサイア」だけのことではなく、ほかのいろいろな音楽や文学また美術などによって、私たちの信仰のイメージ、復活についても影響を受け、作られてき ている面が強くあると思います。
 それで、どういう「復活」のイメージかと言うと、やはり「ハレルヤコーラス」のイメージですね。まずファンファーレが高らかに鳴り響く。次第に音楽が高 まり、盛り上がり、やがて満を持して「ハレルヤ」と歌われる。「そのようにしてイエス・キリストはよみがえった。」雰囲気が盛り上がり、本当に天からラッ パの音くらい響いたかもしれませんね、「そら、来るぞ、来るぞ」と期待が高まり、やがて墓の扉、大きな石がぎりぎりと開き、満を持して輝きと栄光のうち に、堂々とイエスは墓から登場する。
 あるいはもう少し世俗的なイメージで行くと、新年のカウントダウン・イベントみたいなイメージかもしれませんね。人々は次々に集まって来る、そうして次 第に雰囲気は高潮し、期待は高まって来る。やがて、「10、9」とカウントダウンが始まり、ついに「3、2、1、0」と叫ばれる。その瞬間、まぶしい照明 が輝き、花火や爆竹が破裂して祝いが最高潮に達する。「こうしてイエスは、墓からよみがえった、ハレルヤ」。

 ところが、です。ところが、本当の復活、聖書が語る本当のイエス・キリストの復活は、全然そんなようなものではなかったのです。今日、この「マルコによ る福音書」が語るイエス・キリストの復活の出来事、この実に短い記事、その一つのキーワードは、「空っぽ」です。主イエスが十字架につけられ、殺され、死 なれた金曜日、次の日はユダヤの安息日。その安息日が明けた翌日、週の初めの日の早朝、イエスの弟子であった女性たちは、墓へと急ぎます。イエスのご遺体 に少しでも最後の礼を尽くし、せめて香料を塗ってお送りするために、と思っていたのです。ところが、墓に着いてみたところ、入口の大石はすでに転がされ、 のけられていて、墓の入口は空きっぱなし、そして墓の中にはイエスのお体は何もなく、「空っぽ」であったというのです。あっけに取られて呆然とする女たち に、不思議にも天使かと思われる若者が急に呼びかけます。彼もまた、この墓が既に「空っぽ」であること、イエスは既に復活されて、もうここにはおられない ということを、強調しつつ告げるのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえっ て、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。」
 墓は既に「空っぽ」だったのです。先ほど見ました通俗的な「復活」のイメージとはだいぶ、と言うか全然違うでしょう。「墓は空っぽだった」、それは既に 「終わっていた」ということです。「終わっていた」、それは先ほどのイベントのたとえで言えば、よく分かります。期待をして会場に行ってみた、しかし、時 間を間違えたのか、イベントは既に終わっていた、会場は「空っぽ」、ガラーンとしてだれもいない、あたりには花火のかすやゴミだとかが散らばっている。こ の「既に終わっていた」という感じは、前のナレーションでも強調されていると思います。「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった」と。 そこで感じる気持ちは、どんなものでしょうか。皆さんが、もしそんな「空っぽ」のイベント会場に遅れて着いたら、いったいどんな気持ちになるものでしょう か。私はそれは、「空虚」「虚しさ」だと思います。この女性たちも、ある意味で、同じような「空虚感」「虚しさ」を感じたことだろうと思います。彼女たち は、あくまでもイエスの死体を求めて来たのであって、彼女たちの考え、予定ではちゃんと墓にはイエス様の遺体があり、そこに香油を塗ることが目的だったわ けですから。
 しかしまた、同時に、それは「神による大いなる慰め」ともなるような「空虚感」であり、「空っぽ」の感じではないでしょうか。なぜなら、それは、人間が 見る前に、人間が関わる前に、人間が何かをなそうとする前に、神は既にご自身の業、働きをなさったということだからです。人間が行ってみたら、イエス・キ リストの復活は既に終わっていた、成し遂げられていたのです。キリスト教信仰において、イエス・キリストの復活は、救いの完成、完全な表われです。そし て、この「空の墓」が何を意味しているのかと言えば、それは、「復活は完全に神の自由と決断によって成し遂げられた」ということです。人間が行ってみた ら、それはもう完全に「既に終わっていた」のです。人間の関わる余地はありません。人間の思いには拠りません。「イエスの復活」、そんなこと人間は考える ことも、予想することも、計画することもできませんでした。特にイエスの弟子たち、この女性たちも含めた者たちすべてにとって、あるのは「絶望」だけだっ たのです。しかし、そういう人間の思いや願いや計画とは全く関係なく、神はただご自身の自由と決断によって、イエスを墓の中から起こし、引き上げ、復活さ せられたのです。だから私たちには、希望があるのです、救いが起こるのです、私たちの考えや状態や期待とは全く関係なく。
 「希望は『事後報告』だということです。女性たちは、三日目の夜明け前にお墓に行ったのですが、すでに『遅かった』わけです。イエスは復活して墓の中に おられませんでした。―――天使は、『これからすごいことが起こるぞ。希望を抱いて待っていなさい』とは言いません。『すでに起こった事実』を伝えたので す。『とっくに復活させられた。その証拠にイエスはここにいない』と、天使は事後報告をしたのです。絶望が私たちの思いによってなされるのに対し、希望は 私たちと関係なく与えられる。絶望より希望のほうが一枚上手です。―――本当の希望は人間の認識とは関係なく与えられるものです。私たちが闇の中にとどま り、絶望し、希望のかけらさえ見いだせないとしても復活は起こり、すでに希望は与えられたのです。―――『信じる者は救われる』と言います。果たしてそう でしょうか。『信じられない、認められない、分からない、けれどもすでに救われている』が正解だと思います。なぜなら、救いは神の主体的行為だからです。 あの女たちのように、私たちはこの事実を『事後』に知らされます。『間抜け』な私たちですが、神の救いは、そんな『間抜け』な私たちのためにあるので す。」(奥田知志『ユダよ、帰れ』より)

 復活が、そのような神の行為であり、神の全き自由の業であるなら、それは人間の考えや力を超えています。それは、本当の意味では理解し、信じ、受け入れ ることも困難です。だから、復活のもう一つのキーワードは、「絶句」となるのです。あの天使による復活の知らせを聞いた女たちの反応は、こうでした。「女 たちはおののき恐れながら、墓から逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」彼女たちは何も言えなかった、「絶句」したの です。
 私は、ずっと同じような思いを感じてきました。「十字架」は、イメージできる、よく分かる。いかに十字架がむごたらしく、ひどい苦しみであるか、そこに おられるイエスの苦しみ、痛み、そこに表された人間の罪、この世の悪、そういうものは比較的イメージしやすいし、分かる気がする。でも、復活は違う、どこ かぼんやりしていて、イメージできないし、よくわからない、表現できない。でもそれは当然だったのです。「十字架」は、まさにこの私たちの世界の出来事、 罪と苦しみによって動いている世界のことであるのに対し、「復活」は「向こう側」の出来事、私たちの全く知らない世界の出来事、全く見たことも聞いたこと もない出来事であるからです。「神が死を克服し、罪に勝利された」、それは罪によって縛られ、死によって支配されている私たちにとって、本当なら、全然信 じられるようなことではないのです。だから、それに直面されられた女たちは恐れ、「絶句」しました、何も言葉が出て来なかったのです、何も言えなかったの です。「今、聖書は、時間と場所の自然性がくずされた出来事を告げようとしている。そのことを言い表すのに、どのような言葉がふさわしいというのだろう。 ―――女たちは墓から飛び出して逃げた。―――彼女たちは、恐れとおののきでいっぱいだったのだ。おののき恐れる以外に何があろうか。時間と場所の秩序が メチャクチャになったこの出来事に遭遇して反応する人間のありようは、おののき恐れること以外にはない。」(清水恵三『手さぐり聖書入門』より)「空っ ぽ」と「絶句」、それがイエス・キリストの復活の出来事であったのです。

 でも、それならば、大きな疑問、謎があります。それならば、なぜ、このことが伝わったのでしょう。女たちが「だれにも、何も言わなかった」のなら、どう してイエス・キリストの復活の知らせが、他の人に伝わり、ついには全世界にまで伝わり、こうして私たちにまで伝わったのでしょうか。それは、そこに、まさ にその「空っぽと絶句」の彼女たちの前に、彼らのために、天使の告知がなされたからです。彼女たちのために神の言葉が与えられ、その指し示しがなされたか らです。「イエスはよみがえられて、ここにはおられない。―――今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えない。イエスはあなたがたより先にガリラ ヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」
 天使は言いました。「ガリラヤへ行け。そこでこそ、あなたがたは復活のイエスとお会いできるであろう。」「ガリラヤ」は、彼女たちにとって生まれ故郷で あり、生活の場であったと思います。「そこへ行きなさい」と天使は告げたのです。それは、私たちのためにはこう翻訳できるのではないでしょうか。「あなた の場所で生きて行きなさい。そこでこそ、あなたは復活のイエスとお会いできる。」復活の出来事そのものが人間の考えと力を超えているのと同じく、復活の体 験、復活の認識、復活の信仰もまた、人間の力と思いを超えているのです。私たちが一所懸命考えて、探求して、求道して、そうしてある時悟りを開くように 「復活」が分かるというのではなく、イエスご自身が、復活されたイエス・キリストご自身が、イエスの方から私たちに出会ってくださる。私たちが生きる場 で、私たちが生きている場で、この世の罪と悪と苦しみによって私たちが信仰をなくし、希望をなくし、ついには愛をも失っている場所で、私たちの「ガリラ ヤ」で、それでもこの天使の言葉、神の言葉によって促されて私たちが歩んでいる時に、その所へと、復活のイエスがご自身の方から私たちに歩み寄り、私たち にご自身を示し、ご自身の復活と命への信仰を与えてくださるのです。
 ここからこそ、彼女たちの信仰と伝道と証しもまた始まったのだと思います。「何も言えなかった」、その「絶句」状態から、少しずつ言葉が与えられて行 く。「女たちは、『こわかった、ものも言えなかった』と語り続けたに違いないからである。―――『わたしたちは信じなかったのです。しかし主イエス は・・・・』と語り続けたに違いない。」(清水恵三、前掲書より)そのようにして、私たちも語り始め、語り続け、そして私たちに出会わされ、与えられて来 るその奉仕、その働き、その共に生きる道を続けて行くことがゆるされるのです。無力な者、無力にさせられている者に力を与え、絶句させられている者、言葉 を奪われている者たちに言葉を与えるのが、イエス・キリストの復活なのです。また、私たちが信仰をなくし、希望を失い、愛することをやめてしまったそこ に、私たちによらないで出来事を起こし、救いを起こし、命を与える、それがイエス・キリストの復活なのです。「イエス・キリストの復活にささえられて『わ れわれは、事物であれ、人間であれ、個人であれ、民族であれ、すべて踏みつけられても、殺されたものの復活を信じる。キリストの十字架が打ち破った、その 開かれた墓の裂け目を通して、世界につきることなき復活と生命の流れがしみ通った。それが復活節であり、復活節信仰である。」(レオンハルト・ラガツ、 ロッホマン『講解・使徒信条』より)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、引き上げ、復活させられた神よ。
 あの朝、女たちが墓に着いた時、すべては既に終わっていました。あなたの手で、あなたの力によって、あなたの決断と自由とによって、既にイエスは復活さ せられ、あなたは勝利と栄光を取っておられたのです。私たちの思いによらず、願いによらず、計画にもよらずにイエスは復活され、復活の主は私たちと共にお られます。また「何も言えなかった」女性たちに、主イエスは御自身から出会われ、彼女たちと共に歩み、彼らにも少しずつ言葉を与え、共に生きる力を与えて くださいました。
 主よ、どうか私たちにも、あなたの復活への信仰と、それに伴う証しの言葉、証しの行い、証しの生き方をお与えください。そのようにして私たち一人一人と教会をあなたの復活の証人としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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