わからないけど、そこにおられる       マルコによる福音書第15章32〜41節


 「十字架」は、「試練」「苦しみ」を意味するけれど、それはまた「ハードル」でもあると人は言います。「『神の子イエスが十字架で死に、すべて のひとびとの罪を背負った。そして、そのイエスを信じる者は救われる』 キリスト教の中心的な教えだが、こんなにも理解不能な救いはない。神の子イエスが 二千年前この地上にやってきて、すべての人類の罪を赦すために十字架にかかった。それを救いだと信じる者がクリスチャンであるとしたら、こんなにも難解で ハードルの高い宗教はないと思う。わたしはこう感じている。『多くの奇跡を起こし、この地上でいのちを捧げたイエスは凄い。でも、そのイエスを信じ生きる ことと今日生きるわたしと何の関係があるのだろうか。そもそも頼んでもいないイエスを送って来てそれを信じろと言われても困る』。わたしはイエス・キリス トを信じて30年、牧師として15年生きてきたが、今日でもそう思っているのだ。」(関野和寛『天国なんてどこにもないよ』より)

 そして「信仰のハードル」は、ほかにもまた、根深いものがあるのです。それは、理不尽な苦しみ、到底理解することも受け入れることもできない不条理な苦 しみ、どうしようもないこの世の不正・悪、そういうものに直面した時に、私たち人間が思わず発する問いです。「神はいったいどこにおられるのでしょう か。」「神はそもそもおられるのでしょうか。」2001年アメリカでこの問いが激しく問われたと言います。「2001年の、あの9月11日の悲劇ののち数 週間のうちに、この問いは、ほかの多くの問いをさしおいて、教会で信者が問う第一の質問になったのではないかとわたしは思います。『9月11日にあなたは どこにおられたのでしょうか』。凶悪な犯罪者たちが、二つのタワービルディングを標的として航空機を飛ばし、大きな塔が二つとも崩落して、破壊と死の地獄 の炎に包まれていたとき、神はどこにおられたのでしょうか。」(W.H.ウィリモン『十字架上の七つの言葉と出会う』より)それは、この事件の時だけでは ありませんでした。大津波や大地震が起こって、甚大な被害が引き起こされた時には、いつもこの問いが沸き起こってきました。それは、私たちがそれまで持っ ていた「神」のイメージを打ち壊す出来事であったと言えるのです。「こういう神の姿勢は、数年前のクリスマスに起こった津波のときに、わたしたちの根底に あった神のイメージだったように思います。『いったいどうして、良き神がこのような苦難と悲劇の発生をお許しになるのだろうか』。これを言い換えると、 『もし神が面倒見のいい、同情的な、思慮深い(そして、全能で、注意深く、力強い)神で、わたしだったらこんな神になるのだと思うような神であったなら、 目の前で、こんな苦難、不正義、悲劇を起こらせはしないだろうと思う」。(同上)その結果はこうでした。「神さまは完全な力を持つお方であって、わたした ち人間に対してほんとうに悪いことが起こるのを決してお許しにならないと考えていた人たちには、文字通りの幻滅が起きました。」(同上)

 そのようなつまずきと不信の中に、今日のイエス・キリストの十字架の言葉は立ち上がり、語り始めるのです。「昼の十二時になると、全地は暗くなって、三 時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになっ たのですか』という意味である。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そこに現れているのは、私たちとは全く違う神のお姿で す。私たちが思い、描き、願うのとは全く違う、本当の神のお姿なのです。「ところがいま、この十字架上の祈りにおいてわたしたちが発見するのは、どんなに 有能な思いやり深い神を描いても、神は必ず、わたしたちからかけ離れておられるということです。神は『苦難の僕』となられました。二人の盗賊の間で処刑さ れ、犬のように死んでいく者となられました。自ら望んで十字架にかけられ、公衆の面前で屈辱を味わうお方となられました。―――わたしたちはイエスさま に、立ち上がってください、神のような行動を見せてくださいと頼みますが、イエスさまは十字架にかかったままでおられます。そこでわかることは、わたした ちが『神』と呼ぶもののイメージは、一般に、当時の支配者ポンティオ・ピラトの権力の変形であるにすぎないということです。その権力とは、崇高な目的(実 は利己的な目的)を果たす手段としての軍事力、政治権力、衝撃と恐怖と露骨な暴力などです。」(ウィリモン、前掲書より)
 ほかでもない、この十字架のイエスのお姿を通して、今や私たちはこの問いに対する答えを受けます。「神はどこにおられるのか」。神はそこにおられる。イ エスがおられるところに、神はおられる。この理不尽で不条理な苦しみの中に、そのただ中に、そこに神はおられる。そこで行われているすべての人間のすべて の罪を担いつつ、苦しむ者と共に苦しみ、嘆き、叫びを共にしておられる。「なぜですか」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです か」。「あの日、神はおられませんでした。ただし、私たちの想定したその場所には、です。しかし、十字架のイエス・キリストの神は、あの津波のただ中で流 されておられたのです。吹き出す放射能にさらされ続けておられたのです。3・11という十字架のただ中に神はおられたのです。」(奥田知志『いつか笑える 日が来る』より)

 そして今日とりわけ申し上げたいことは、「イエスが共に」ということだけでない、いや、イエスこそ、私たちの叫びを、私たちの代わりに、そして完全に叫 んでおられるということです。キリスト教会では、イエスを「罪なき方」と信じ、告白します。その意味は、「神と全く正しい関係にあった方」ということで す。
 しかし、私たちは皆、違うのです。私たちは皆、なにがしか、神への不信、神に対する「ひねくれ」の中に生きているのです。それが、私たち人間の罪なので す。初めに申しました、私たちの多くが神に対して抱く問い、「神様、なぜ」「神様はいったいどこに」、それを考えながら「もっともだな」と思うと同時に、 実は疑問や反発も感じることがあるのです。日頃から、別に神を信じているのでもない人、むしろ「神などいない」かのように生きてきた人が、いざとなると口 々に言うのですね、「なぜ神が」「神がいるならどうして」。「おや、あなたは神様を信じてきたのですか。誠実に、真剣に神を信じて来たのですか。そうでな いなら、今さら、どうして神に向かってそんなことを問うのですか。そうでないなら、いったいどこにそんな資格があるのですか。」(決して実際には言いませ んが)思わずそう言いたくなることもあります。でも、これは決して他人事ではないのです。私たちは「神を信じる」と言いながら、実は本当には信頼していな い、どこかで別のものやことを信じ、ひそかに神を裏切っているのではないでしょうか。そんな私たちが、思いもかけない苦しみに出会ったとたん、「わが神、 我が神、どうしてわたしを」なとど、どの顔で語ることができましょうか。
 しかし、イエスは、イエスお一人だけは、違います。イエスは、イエスこそは、ここに至るまでに、いつも、絶えることなく神を信頼し、神に従い、神と共に 歩んで来られました。このイエスだからこそ、今間違いなく神に向かってこう言えるのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです か」。これは、このイエスだからこそ、本当に語ることができる言葉なのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そして、そ れは決して私たちが語ることのできない言葉なのです。それを、まさにイエスが代わりに、私たちに代わって、そのようにして私たちの不信と不真実の罪を担 い、私たちのために問い、叫んでくださったのです。だから、このイエスの叫びと問いは、私たちの救い、またいやしとなるのです。「『わが神、わが神、どう してわたしをお見捨てになったのですか』という『僕』の叫び。ああ、この叫びが『わたし』の、『われわれ』の叫びでなくて、どうして『僕』が『いやし』に なるであろうか。世の不条理に打ちのめされ、苦しみ泣く者が、いつかはどうしても『神』に向かって叫びたかった、叫ばねばならなかったあの叫びを、他なら ぬあの『僕』が十字架上で言ってくれた。我々に『かわって』、我々の『ために』言ってくれたのである。ここに『いやし』と慰めがある。我々に先立って『人 に捨てられ、病を知り、忌みきらわれ、侮られた』僕であるからこそ、我々の『いやし』がある。」(関田寛雄、『説教者のための聖書講解 イザヤ書』より)

 ただ、最初の「なぜ」という問いには、答えられてはいません。わからない、「わからないけど、そこにおられる」。「神はどこにおられるのか」、「わから ないけど、そこにおられる」、理不尽、不条理な苦しみの中でも、いや、苦しみの中でこそ、苦しむ者と共に、苦しむ者のために、そこに共におられる。「わか らないけど、そこにおられる神」、この神、イエス・キリストの神によって、私たちは、不信と不真実の罪にもかかわらず、それを赦されて、新しく生きる力を 受けるのです。
 「あの日、『信じられないこと』が起こりました。『なぜ』と多くの人が嘆きました。身体の痛みや不幸な出来事が人を苦しめました。それ以上に人を苦しめ るのは、この『なぜ』という問いに『答えがない』という現実です。『なぜ、こんなことに・・・・』、『なぜ、私の愛する人が・・・・』、『なぜ、あの日 だったのか・・・・』。答えてもらいえないまま、人々は生きなければなりませんでした。―――信仰者は、『信仰こそ人生に答えを与えるものだ』と言いま す。そうでしょうか。神を信じると、『すべての問い』が解決するのでしょうか。私は、3・11後を生きる信仰とは、『問い』にとどまることだと考えていま す。『なぜ』という問いに答えが見いだせなくとも生きる。生きることができる。それが十字架の信仰だと思います。イエスは、十字架で『どうしてわたしを』 と問われました。イエスは神の御子でしたが、神はこの『問い』に沈黙されました。―――『懐疑』という闇の中に救い主はおられたという事実です。答えなき 『問い』のただ中に、救い主はとどまった。そうであるならば、答えなき『なぜ』とともに生きることができるのではないでしょうか。―――キリスト教をはじ め3・11後を生きる宗教者は、『なぜ』に答えを与えるのではなく、『なぜ』の中で祈ること、共に生きることを役割としたのです。」(奥田知志、前掲書よ り)
 初めの問い、「なぜ、十字架のイエスを信じるのか」、「十字架のイエスを信じることが、どうして私たちの救いとなるのか」。納得の行くような答えはない かもしれません。しかし、今日私たちに示され、与えられたことがあります。「わからないけど、そこにおられる」、そこでこそ、苦しみにおいてこそ、神が私 たちに出会ってくださる、そして私たちにも、「『なぜ』の中で祈ること、共に生きること」、生きる力、互いに愛する力を与えてくださる。この不思議な出会 いと共に、このイエスと共に、この信仰と共に、私たちも生き、歩んでまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストにおいて、とりわけその十字架と復活において私たちに出会い、私たちを救い、導かれる神よ。
 今日私たちは、あの主イエスの十字架の問いと叫びに耳を傾け、深く集中し、そこへと思いと心と生き方とを向けたいと思います。そこから、私たちも自らの 不信と不真実の罪にもかかわらずそれを赦され、新しい生き方へと、「なぜ」ということの中でも共に祈り、共に生きる道へと導かれ、歩み出すことができます よう、私たち一人一人と教会を招き、呼びかけてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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