十字架につけるために―――この人間の罪を        
                                                マルコによる福音書第15章1〜20節


 今私たち教会は、イエス・キリストの苦しみと十字架の道を覚える、「受難節」の季節の中を歩んでいます。そこで、今日から三回にわたって、「マルコによる福音書」の十字架の場面を読み、そこから神の語りかけを共に聞いて行きたいと願います。

 私が聖書を読むときに、有力だと思い、また実際によく用いている一つの方法があります。それは、「言葉の回数に注目する」というものです。ある聖書の箇 所を読んだ時に、「そこに出て来る回数の多い言葉は大切だ」と考えるのです。私たちでも、重要だと思う言葉、強調したい言葉は、何度も繰り返すことがあり ます。聖書も同じだと思うのです。
 さて、そういう意味で、この20節の短い箇所の中で、二度繰り返されて語られることはが一つだけあります。それは、「十字架につけるために」という言葉 です。まず15節、「それで、ピラトは―――イエスを―――十字架につけるために引き渡した」。そして20節、「それから、彼らはイエスを十字架につける ために引き出した」。「イエスを十字架につけるために」、そう繰り返し語られています。ここからして、「マルコによる福音書」は、まさにこのことを強調し たかったのだと思うのです。「イエスを十字架につけるために」。
 「イエスを十字架につけるために」、誰が、でしょうか。人間が、です。この二つの節では、直接的にはピラトとローマの兵士たちが主語ですけれども、実質 的にはさらに多くの人たち、ここに関わるほとんどすべての者たちが、「イエスを十字架につけるために」、語り、行動し、生きています。「祭司長たち、長 老、律法学者たち」と言われているユダヤの宗教指導者たち、彼らはまたサンヒドリンと呼ばれる議会の議員、つまり政治的指導者でもありました。それから、 ローマのユダヤ総督ピラトとその兵士たち、そこに代表されるローマ帝国の権力。そして、そこに集まっていたおびただしいユダヤの群衆たち。彼らは直接的 に、はっきりと意思を表わしています。「(イエスを)十字架につけよ」と。「十字架につけよ」、「十字架につけるために」。イエスを十字架につけたのは、 人間でした。それは人間の意思であり、人間の業であり、人間の行いであったのです。
 私たち信仰者一人一人や教会は、「神がかり的」な物事の見方や考え方に慣れています。要するに、神様の視点や立場を先取りするにようにして、物事を見た り、語ったりするのです。(でも本当は、そんなことは、人間である私たちにはできない話なのですが。)例えば、「イエスの十字架は、神の御心、神の御計画 であった」とか、「神がイエスを十字架へと導かれた」とかです。言っておきますが、それは決して間違ってはいません。最終的には、私たちもそう信じ、そう 告白するでしょう。しかし、聖書は語っているのです。その前に、「十字架につけるために」、それは人間の意思であり、人間の行動であり、人間の業であっ た。イエスの十字架は、何よりも人間の罪なのです。十字架は、何よりも人間の罪の隠れも無きな表われであり、決定的な結果であったのです。

 ここが大切です。「イエスの十字架は、私たち人間の罪そのものであった」、この認識と告白こそが、私たちの信仰の始まりなのです。罪を認めることなし に、悔い改めることはできないのです。罪を認めることなしには、赦しを受けることも、罪から救われて新しく生きることもできないのです。
 丸山真男という日本の政治学者が、大変興味深く、意味深いことを語っています。それは、「大東亜戦争」とも「太平洋戦争」とも呼ばれる、日本が長く行っ た戦争において、その戦争を始め導いた政治指導者たちが、戦後東京軍事裁判で裁かれたときに、いかに無責任に語ったかということです。その戦争の準備とし てのドイツ・イタリアとの軍事同盟参加について、このように語ったというのです。「その着想は、どれほど問題のある作戦や行動でも『決まっていたので従わ ざるを得なかった』と、敗戦の弁として当人たちから出てきているところから来ています。―――政治家の木戸幸一は―――具体的には、『私個人としては、こ の同盟には反対でありました。しかしながら・・・現実の問題としてはこれを絶対に拒否することは困難だと思います』と述べました。さらに、外務大臣を務め た東郷茂徳も、『私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります。・・・すなわち前にきまった政策が一旦既成事実となった以上 は、これを変えることは甚だ簡単ではありません』と述べました。これらの例が示すのは、戦時中の有力者と思えないくらい、あまりに弱々しい権力者たちの発 言だということです。そして、多くの人がこれほど無責任な人たちに流される形で悲劇にのめり込んでいったということを、丸山は伝えようとしているので す。」(富田宏治、北畑淳也『今よみがえる丸山真男』より)それは、大きく、今にもつながるような仕方で述べるならば、こういうあり方だというのです。 「絶対に何が起こっても責任を認めないし、それから謝罪をしない。あるいは、謝罪をして、いろいろな責任が私にあるといっても、責任は取らない。こういう 無責任性というのは、実は悪をなしえないという、悪をなしうるという自覚が欠如しているところに初めて生まれてくるということです。」(同上)罪を認めな いところには、赦しも救いも、新しい命もないのです。

 「イエスの十字架は、人間の罪であった。」それは、いったいどんな罪であったのでしょうか。それは、この十字架という処刑の形式が、よく示しています。 十字架は、当時のローマ社会・世界においては、究極的な恥と呪いを与える、「どん底」の刑罰でした。それは、普通の犯罪に対するものではなく、内乱や国家 に対する反逆、権力と支配、秩序に逆らい、それを脅かそうとする者に対する、国家の威信を懸けた究極の刑罰であったのです。
 だからそれは、まず、イエスをできるだけ貶め、苦しめたいという思いによって基礎づけられていました。権力や秩序、また力ある者たちに逆らう、世の中の 秩序を乱すと見られることを、私たちの多くはとりわけ嫌い、憎み、責める傾向があるのではないでしょうか。ただ苦しめ、ただ死なせるだけでは足りない、で きる限り恥ずかしい、惨めな、呪われたような死に方で、しかもできるだけ長く、苦しめるだけ苦しんで死なせたい、さらに死んだ後もその立場や名誉は回復さ れない、どこまでもいつまでも恥との呪いの中に留め続ける、それが十字架であり、十字架に込められた、イエスに対する人間の思いであったのです。
 そしてそれは、その目的のためには、手段は選ばない、「なんでもあり」という不誠実、不真実な姿勢とあり方でした。祭司長たちは、「神を汚した」という 宗教的・信仰的な罪でイエスを告発し断罪しました。そうであるならば、ユダヤの律法に従って「石打ち」の刑に処さなければならないはずです。しかし、彼ら はイエスを亡き者にするためならば、異国のローマの法律による「十字架」でも構わないと語り、行動しました。イエスの罪名を「神を汚した」から、「ローマ への反逆を企んだ」へと変えたのです。ここに、彼らの神への不真実と不誠実があらわになっています。
 そしてさらに、そこには、人々に、とりわけ強い者たちに忖度して行く、大きな流れに流されて行くという、先ほど見たような、多くの人々の弱々しい、「へたれ」た罪があったのです。
 「イエスを十字架につけるために」、この聖書の言葉を通して、私たちははっきりと告げられ、逃れようもなく知らされるのです。「イエスの十字架は、人間 の罪であった」。私たちが、この私が、私の罪が、イエスを十字架につけたのだ。「私は彼らが主を十字架に釘付けにした時、そこにいた。ああ、それは何と私 を悲しませることか。―――私は彼らが主を降ろした時、そこにいた・・・・ああ! それは何と私の霊を震えさせることか。」(アフロアメリカン・スピリ チュアル「Were you there?」の一節より)

 「イエスを十字架につけるために」、「イエスの十字架は、私たち人間の罪であった」、その上で私たちは信じ、語ることができるのです。イエスが、まさに この人間の罪を、自ら引き受けられた。このことは、あのイエスの不思議なほどの沈黙に表されています。「しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、も う何もお答えにならなかった。」(5)それは、イエスが、まさにこの人間の罪を、ご自身の意志と力とによって引き受け、担い、背負って行かれたことを示し ているのです。イエスが、この人間の罪を引き受け、担われた、それは、神がこの人間の罪を引き受けられたということなのです。イエスにおいて神が、この人 間の罪を引き受け、このイエスの受難を通して、このイエスの十字架を通してそれを逆転し、克服し、それに勝利された! 私たちはイエスに対して、人に対し て、神に対して罪を犯したのに、その私たちはこのイエスによって引き受けられ、赦され、新しく生かされるのです。
 このことの象徴が、バラバという人物です。「それで、ピラトは群衆を満足させようと思って(注 ここにもあの忖度の罪が現れています)、バラバをゆるし てやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」「マルコは―――ただ、イエスのおかげでバラバが釈放された事実だけを報告してい る。死刑にされるにちがいなかった自分が理由もなく、したがって理由を納得できるはずもなく釈放されたのだ。命が与えられ、生き永らえたのだ。イエスの十 字架が、たとえ何一つ後に残すものがなかったと言いはるにしても、バラバが釈放されたことだけは否定できない。―――イエスの生命を代償にして、一人の男 の生命が救われたことだけは否定できない。―――その点で、何と私たちはバラバと似ていることだろう。イエスがわたしたちのために死んでくださったことに ついて、わたしたちはその理由を知らない。知ったようなことを言っても、本当には知らない。『間違いない』と言われても、なぜそうなのか、納得することは できない。しかし、事実なのだ。理由のわからない事実なのだ。むろん、贖罪論はある。学び、理解し、感謝すらする。しかし、ほんとうはわからない。――― 神がわたしたちを愛し、わたしたちのために、その独り子を十字架につけたということは、わたしたちにはわからない。わからないのが神の救いのしるしなの だ。バラバがそれを示している。」(清水恵三『手さぐり聖書入門』より)
 「イエスを十字架につけるために」。この時、「私たちもそこにいた」のだということを、「私もそこにいた」のだということを、聖書から聞かされ、イエスの十字架の道へと思いと歩みと生き方を深めさせていただいてまいりましょう。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死から起こし復活させられた神よ。
 この受難節に当たり、私たちはイエスの十字架の道へと、イエスの十字架へと思いを向け、思いを深めさせていただきたいと願います。
 「イエスを十字架につけるために」、人間がイエスを引き渡し、人間がイエスを引き出したのです。私たちもそこにいました、私もそこにいたのです。イエスの十字架にこそ、人間の罪の恐るべき現れであり、取返しもできない結果です。私の罪もまたそこにあります。
 この人間の罪を、イエスが引き受けられました。イエス・キリストは、この人間の罪を、ご自身の思いと力とによって引き受け、担い、背負ってくださいまし た。そのようにイエスは十字架を担い、十字架につけられ、十字架において死なれました。それはまた、神よ、あなたこそが私たちの罪を引き受け、赦し、克服 してくださったことそのものです。
 どうかこの受難節の時、このイエスの十字架の道へと思いを深め、生き方を問われ、道を正され新たにされて歩み直し歩み出すことができますように、私たち一人一人また教会を導いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る