すべての人を!        テトスへの手紙第2章11〜14節


 新約聖書中には、「福音宣言」とも言える箇所がいくつかあります。「イエス・キリストの福音とは、これだ!」とか、「これぞ福音!」と語ってい る所です。ここも、その一つです。この中で、最も大切で、力を入れて語られている言葉は何だと思われますか。私は、それは「すべての人を」だと思います。 「すべての人を救う神の恵みが現れた。」これが福音、これぞ福音だ、「すべての人を救う神の恵みが現れた」!それこそが、イエス・キリストの福音だという のです。
 「すべての人を」、それがなぜ「福音」であり、驚くべきことであり、「良き知らせ」であるのでしょうか。それは、他の教えや思想、また他の生き方や道に おいてはそうではない、決してそうではないからです。ほかの宗教や思想、またほかの考え方や生き方においては、「すべての人を」とは言わないのです。ま た、古代ローマ時代、当時において、社会のあり方や政治の制度、また経済の仕組み、その中で生きられる大多数の人々の生活においては、「すべての人を」と は決して言わないのです。
 ロドニー・スタークというアメリカの社会学者が、当時の古代ローマの大都市の一つアンティオキアについて調べて、その時代の人々がいったいどんな都市生 活を送っていたのかを記しています。その中で、結論的にこう語られています。「新約時代のアンティオキアを正確に述べようとすれば、そこにあふれる窮乏、 危険、絶望、憎悪を避けては通れない。」(ロドニースターク『キリスト教とローマ帝国』より)具体的に言いますと、まず、大変な人口密度の高さであったと 言います。狭苦しい空間に詰め込まれるようにして、折り重なるようにして、人が集まり、住んでいたというのです。全く無計画に、そして安全対策もそこそこ に、高い建物が建てられ、火災が多発し、さらには崩壊の危険すらあったというのです。そこでの生活ための、何らかの都市政策、水道、特に下水道などは何も ありませんでした。そこでは当然、不衛生の問題が起こり、さらには疫病もしばしばはやります。都市には、どんどんありとあらゆる多数の人々が流れ込み、犯 罪や暴動も多発し、治安も悪化します。また外には、自然災害などの天災がたびたび起こり、戦争・内乱などの人災も繰り返し襲ってきます。それらの災いから 身を守るための、何らの保護も助けも、ローマの国家や社会から期待することはできませんでした。「その都市の家族の平均像といえば、不潔で窮屈な一画で惨 めな生活を営み、子どもの半数以上には生まれてすぐか幼児のうちに死なれ、生き残った子どもの大多数が成人するまでに片親または両親を失った―――。民族 間の激しい敵愾心から生じる憎しみと怖れが町に渦巻き、それはひっきりなしにやって来る新参者によってさらにふくらんだ。町には安定した愛着のネットワー クが決定的に欠けていたので、ささいな出来事でも大衆を巻き込んだ暴力ざたにつながるおそれがあった。犯罪が栄え、夜道が危険だった。そして何よりも繰り 返し壊滅的な災害に見舞われる都市であり、住民はいつなんどき、文字通りホームレスになるとも知れなかった―――。」
 そんな中で、「すべての人を」などとは言っておられないのです。「町には敵愾心と憎悪が渦巻いていた」のです。「あいつらが悪い、あいつらさえいなけれ ば」。そういう思いと考えの中で、日々の生活は営まれ、国家や社会はそれを放置し、時にはそれを自らの政策をやり通すために利用すらしました。「すべての 人を」ではない、「一部の人たちだけを、一部の民族だけを、一部の階層・階級だけを、一部の特性・属性の人たちだけを」守り、優遇し、助ける、そういう世 の中・社会であったのです。それは、程度・内容は、ある意味では改善されて変わった面があるとは言え、現代の社会、今の日本社会、またこの現代世界でも同 じではないかと言われます。「それは、現在の社会が分断と排除の社会となっているからです。教会は、そんな社会に対していかなる福音を語り、いかに福音に 生きるかが試されています。『どうでもいいいのち』と『大切ないのち』の分断が進んでいます。『私はあの人と違う』『この人たちは別』という意識が社会に 広がりつつあります。世界的にも『自国第一主義』を主張するリーダーが登場し、移民の排斥となど差別と偏見の嵐が吹き荒れています。国内でも、ヘイトス ピーチや生産性、経済効率性を偏重した議論が起こっています。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)

 そんな世に向けて、そんな世にあって、福音は語ります。イエス・キリストの福音はこう告げるのです。「すべての人を救う神の恵みが現れた」。神の御子イ エス・キリストは、そんなこの世に来られました。「敵愾心と憎悪が渦巻く」この世に来られたのです。イエス・キリストが来られたのは、「すべての人」のた めでした。イエスの誕生を告げた天使は言いました。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あ なたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2・10〜11)そもそもこの知らせそのものが、まず第一に羊飼いた ちに告げられたのです。彼らは、当時の社会から軽蔑され、差別され、排除された人々でした。そのようにして来られたイエスは、まさに「すべての人」が神に 愛され、神によって呼びかけられ、神へと招かれていると宣べ伝え、働かれ、生きられました。そのためにイエスは、あえて当時の社会で、軽蔑され、差別さ れ、排除されて苦しめられている人たちのところに真っ先に行き、彼らを優先して助け、救うことをされました。「取税人や罪人」と呼ばれていた人たち、また 病人やしょうがい者、さらに貧しい人たちに、神の愛を語られたのです。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくな い者にも、雨を降らしてくださるからである。」(マタイ5・45)そのように生きられたイエスは、当時の体制・権力また社会から、警戒され、憎まれ、退け られて、ついに捕えられ、苦しめられ、断罪され、その最後には十字架につけられて殺されました。そのイエスは、まさに「すべての人のために」死なれたので す。このことをまさに示すのが、十字架でイエスが「パラダイス」を約束それたのは、誰に対してであったかということです。そこでイエスは、「共に十字架に つけられていた犯罪人の一人」、つまり一人の死刑囚に対して、「今日わたしはあなたと共にパラダイスにいるであろう」と言われたのでした。そしてこのイエ スこそが、神の力によって起こされ、復活させられました。今こそ、このイエスこそが、「すべての人」に向けて福音を語ろうとされるのです。「全世界に出て 行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16・15)「すべての人を救う神の恵みが現れた!」

 だから教会も信じたのです。「すべての人を救う神の恵みが現れた!」そして、教会はこの福音をこそ宣べ伝え、行い、生きるのです。この「すべての人を救 う神の恵み」は、それを信じ、受け入れる者たちに対して、まず「不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活」することを導 くのです。「不信心とこの世の情欲」、それは今まで見てきたことから言うならば、「敵愾心と憎悪」に生きること、「自分だけ、自分たちさえよければいい」 という生き方、この世が広く、強く勧め、求め、行わせ、行っている生き方を捨てることです。「そのような時代に私たちは、あるいはキリスト教会は、何を語 り、行動するのでしょうか。それは、『すべての人』をテーマとして掲げることでしょう。『分断』が進む現代社会に抗うことばは、『すべての人』だと思いま す。―――『すべての民』とはだれのことなのか。―――『すべての民に』という天使のことばを、『私に』、『私たちに』、『わがグループに』、『わが民族 に』と、勝手に言いかえることは許されません。―――悪い者にも、正しい者にも、つまり、『すべての人に』恵みが注がれている。だれひとり取り残されな い。だれひとり神様の恵みから漏れる人はいない。これが本当の福音であるならば、教会にはこれを伝える使命があるのです。」(奥田、前掲書より)
 そして、教会が神の恵みによって導かれることは、「すべての人のために」語られ与えられたイエス・キリストの福音を信じ、それにふさわしい生き方をする ことです。それは「良いわざに熱心」に生きること、その「すべての人」のための具体的な奉仕と働きに生きることです。「空腹のときに食べさせ、かわいてい るときに飲ませ、旅人であるときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいるときに尋ねてあげる」ことです。古代ローマのキリスト者たち、 教会は、まさにそのように生きました。「ホームレスと貧困者だらけの町に、キリスト教は希望とともに慈善活動を提供した。新参者とよそ者だらけの町に、キ リスト教はただちに愛着関係を結べる礎を提供した。孤児と寡婦であふれた町に、キリスト教は新しい、より大きな家族観をもたらした。民族間の抗争で引き裂 かれた町に、キリスト教は社会的連帯の新しい基盤をもたらした。そして疫病、火事、地震に悩む町に、キリスト教はよく働く看護の奉仕を提供した。」(ス ターク、前掲書より)彼らは、「貧しい者、孤児、やもめ、病人、鉱山労働者、囚人、奴隷、旅行者」を、まさに「すべての人を」愛し、助けようとしたので す。(越川弘英氏、『聖霊の降臨』より)

 「すべての人を救う神の恵みが現れた」、この福音を信じ、この福音に生きようする信仰が待ち望むこと、それはこれです。「祝福に満ちた望み、すなわち、 大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むように」。「わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」をこそ、私たちもまた 待ち望むのです。
 なぜなら、私たちは「まだ、ない」という途上にあり、途上を生きているからです。「すべての人を」、そのように語られ、そのように私たちも信じました。 しかし、私たちの生き方と実践は、まだ決してそのようになってはいないからです。「すべての人を」、私たちも信じ、またそのように行い、生きたいと切に願 い、祈り、努力をします。しかし、「すべての人を」、そのようにはいまだなってはいないからです。教会にはいろいろな人が訪れ、私たちはいろいろな人と出 会います。その出会いの中で、私たちはいつも問われます。特に、到底想像もできないような大きな、深く、激しい苦しみや悩み・問題を抱えた人と出会う時、 また深い困窮の中にある人、とりわけホームレス状態にある人、何らかの犯罪に関わったとされる人、そして現在の社会からは何らかの意味で軽んじられ、差別 され、排除されていると見られる人、そのような人と出会う時に、まさにこの福音によって問われるのです。「すべての人を」。私たちはまさにそのように信 じ、また努力し、共に生きようとしますが、しかしなかなかそのようにはなりません。私たちは、日々にそう生きようとするからこそ、自らの偏見と差別、また 無力と怠慢に直面し、苦しみ悩まずにはいられないのです。
 だからこそ、私たちもまた待ち望むのです、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を」。「わたした ちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」、まさにそのとき明らかになります、「すべての人を」ということが。神がまさに「すべての人を」愛し、救おうとし て来られたということが。「キリスト・イエスの栄光の出現」、まさにその時完成します、「すべての人を」神が愛し救われるということが。「大いなる神、わ たしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」、まさにその時成就するのです。「すべての人を救う神の恵みが現れた」ということが。
 「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身の ものとして聖別するためにほかならない。」このことを待ち望みながら、私たちも、今も、「良いわざに熱心」に生きようとするのです。「すべての人を」、そ のように信じ、行い、宣べ伝え続けるのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし復活させられた神よ。
 「すべての人を」、あなたは愛し、救おうと切に思い、願われて、御子イエスをこの世に送られました。イエスは、まさにそのあなたの愛と意志を体現され て、「すべての人」のために愛し、仕え、生き、そして死なれました。このイエスをこそあなたは復活させ、「すべての人の救い主」とされました。
 今私たち一人一人、また教会も信じます。「すべての人を救う神の恵みが現れた」。だからこそ、私たちもまたそのように信じ、行い、生きたいと思います、 「すべての人を」。どうか私たちに日々そのように生きる思いと力、何よりも愛する力をお与えください。しかし私たちは、「いまだ、ない」という現実に生き るほかはありません。だからこそ私たちは、「わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現」を待ち望みます。その日その時、まさにこの福音が完成し、 成就します。この希望を抱いて、ますますこの「すべての人を」という福音によって共に生きて行くことを助け、お導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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