キリストを生きることを        ピリピ人への手紙第1章20〜26節


 「待ち望む」と言いますが、本当のところ、私たちはいったい何を待ち、何を望んでいるのでしょうか。それは、それぞればらばら、まちまちではな いかと言った方がありました。「われわれが生きていることは、みな心からなる願いを持っていることですが、ただ、その願いは大変ばらばらで、ある時にはこ れを望み、またある時には、別なことを望んで、したがって、本当に自分がほしいことは何であるかということが、よく分からないものであります。―――去年 願っていたことと、今年願っていることとは違うことがしばしばあります。おそらく神がご覧になれば、われわれの願いなどは、子供と同じように支離滅裂で あって、どれが本当にほしいのか分からないということではないか、と思います。そのようにわれわれは、いわば行き当たりばったりの生活をしているので す。」(竹森満佐一『講解説教 ピリピ人への手紙(上)』より)しかし、そうは言うものの、よくよく私自身を振り返ってみると、私たちは結局のところ、自 分や自分に関わる何かを待ち、望んでいるのではないでしょうか。

 しかし、パウロがここで待ち望むものは、それとはちょっと、いや、全く異なるのです。20「そこでわたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どん なことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられ ることである。」この節の文は長い上に、間にいろいろな説明の言葉が入っているので、分かりにくくなっています。そこで、主語と述語の部分だけを抜き出し て言うと、こうなります。「わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」皆さん、ここで注意が必要で す。パウロはここで、自分自身の宗教的・信仰的な救いすら求め、待ち望んではいなかったのです。「わたしが慰められる」とか「わたしがいやされる」とか、 さらには「わたしが救われる」とか「わたしが死後に、天国に行って神と共にあるように」とかですらないのです。わたしがどうなるこうなるということでは決 してなくて、「キリストがあがめられること」を、「切に待ち望む」と言っているのです。
 ここで、「主客の逆転」が起こっています。難しい言葉を使いましたが、「主役はだれか」ということです。「わたしが助けられる、わたしが救われる」とい うことなら、「わたしが主役」です。でも、パウロはそんなふうには全く考えないのです。「キリストがあがめられること」、それなら「キリストが主役」で す。では、その時「わたし」はどこにいるのか。ここにいます。「わたしによって」。「わたし」は、あくまでも「キリストがあがめられる」ための「引き立て 役」であり、キリストの栄光のために「仕える者」です。その意味で、「主役の転換」が起こったのです。
 私自身を省みてみると、いくら「わたし」自身や「わたし」に関わる事柄を追求しても、「わたし」の願い通りにはならないことがたびたびあるし、ほとんど でもあると思います。端的に、荒っぽく言ってしまえば、「私自身を求め、追求し、待ち望むことは、虚しい」のです。そこでパウロがここで示している生き方 は、私たちにとって新鮮で、ユニークです。「わたしが切に待ち望むことは、キリストがあがめられることである。」でも、不思議なことに、このことが逆説的 に、またわたしにとって救いともなるのです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救う であろう。」(マルコ8・35)
 「キリストがあがめられる」とは、文字通りには、「キリストが大きくなる」ことです。それが、まさにわたしにとっての救いとなる。「自分は、今、キリス トによって生きている。それならば、キリストが、自分のうちに、何よりも大きくなり、強くなれば、自分の不安はキリストによって抑えられるでありましょ う。自分の不信仰はキリストによって正されるでしょう。自分の望みが砕かれた時も、キリストは、新たな望みを与えてくださるでしょう。―――キリストが大 きくされることこそ、自分のうちにも自分の外にも、この世においても、自分の真に願うところなのであります。―――それは願いであるというよりも、それが 実際に、われわれの生活の力となるただ一つの道であると言えるのであります。」(竹森、前掲書より)

 こうして、イエス・キリストが「主役」となり、そこに生きる軸足が置かれることによって、驚くべき乗り越えが起こるのです。21「わたしにとっては、生 きることはキリストであり、死ぬことは益である。」ここで彼は「生と死」を語っていますが、実際パウロはこの時「生死の境」に立っていました。彼はキリス トの福音を語ったために投獄され、明日をも知れない命であったのです。でも、ある人は言います。それはパウロだけのことではなく、「私たちみんながそうな のだ」。私たちも、実は絶えず「生死の境」に立って生きているのです。そういう私たちにとっては、本来は皆こうなのです。「わたしにとって、生きることは わたし自身であり、わたし自身とわたしの願いを求めることであり、死ぬことは絶対であり、どうにもならない限界であり、悲しくも苦しい終わりである。」し かし、そんな中から、パウロにとって「主客の逆転」が起こり、イエス・キリストが「主役」となられ、「キリストがあがめられる」ことが彼の「待ち望み」の 対象・目的となりました。すると、彼はこのように語る者とされたのです。「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」彼は自分 の人生を、極めて肯定的に見ています。「生きるとはキリスト」というのは、「自分の人生は、キリストと共に、神の愛のうちにある」ということではないで しょうか。そしてそれは、人生のどこか一部分というのではなく、「死ぬこと」までも含めて、一切合切「神の愛のうちにある」、だからそれはすべて、「死ぬ こと」までも含めてすべて「益である」と受け止め、語ることができるのではないでしょうか。

 でも実際のパウロの願い、彼の「本音」のところではどうなのでしょうか。彼は率直に自分の願いを語ります。「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリ ストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」(23)それは、究極的な救いです。隠れなき、キリストとの共生、キリストと共にいること です。パウロは、この究極的な願いの実現と、もう一つの「選択肢」との間で、葛藤を感じています。その、もう一つは「この世に残って、働くこと」です。そ れで、彼はこう言うのです。「どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。」この「わからない」とは、単に迷いの言葉ではありません。これは、神への 信頼と服従の言葉なのです。「自分では決められない。それを決めるのは、別の方だ。それは神だ。神ご自身が、私のために最善を知っておられ、それを決めて くださる。私は、神を信頼して、その道に従うのみだ。」
 結局パウロは、「この世に残ること」を、神の御心として信じ、受け止め、自分でもそれを選ぶのです。「しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがた のためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜び を得させようと思う。」パウロが選んだもの、「この世に残ること」、それは奉仕と働きの生活です。「それはとどまるのであるが、いつでも人を助けようとい う用意があり、それができるようにしているということである、というのです。ただ一緒にいるというだけでなく、一緒にいて、いつでも助ける用意があり、真 にそれを行う力があるということであります。」(竹森、前掲書より)パウロにとって、それは福音を宣べ伝えることであり、教会とそこに集う人々に仕えるこ とでした。この世に残ってなすべき奉仕と働き、それは、私たちそれぞれによって、一人一人その場所と働きが違います。それは、まさに全世界に及ぶ神の愛の 働きであり、そこで出会う一人一人の人の必要のために仕えて行く奉仕なのです。

 そうして「この世に残ること」の中に、キリストはいないのでしょうか。「この世を去ればキリストと共にいるけれど、この世に残る限り私たちは自分でやっ て行かねばならない」のでしょうか。そんなことは、決してありません。私たちも、「この世」においてそれぞれの道と働きに生きようとするときに、まさにそ こにイエス・キリストがおられるのです。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸で あったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。―――あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さ い者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25・35、40)そのよう仕方で、イエス・キリストはこの世において私たちに出会 い、私たちと共におられる。このことが、まさに私たちの命となり、私たちの救いともなるのです。
 ある牧師の証しの言葉です。「筑豊のことにしろ、カネミ油症のことにしても、そして“在日”の問題にしても、自分が計画して、これは大切な社会問題だ、 自分から何かをしなければならないことだなどと考えたものはありませんでした。すべて引っ張り出されて、『来なさい』と常にキリストが、筑豊の子どもたち の姿をとって、紙野柳蔵という人の姿をとって、崔昌華という人の姿をとって、呼びかけてくださいました。そして、その呼びかけに応えて歩み始めたときに、 キリストがそこにおられるという出来事にぼくのほうが出会いました。―――何も立派になったというのではなく、いつもそれができないことを認識させられな がら、そんなぼくを憐れんで、『きなさい』と様々な人を通してイエスさまは呼びかけてくださいました。そして、そのお方のそばを通り過ぎるのではなく、主 よ、いっしょに歩かせてください、主よ、行かせてくださいと応えるのです。私たちは常に求道者であって、主イエスよ、そちらへ行かせてください、あなたの いるところへ行かせてくださいという、歩みをさせていただいてきたのではないかという気がします。」(犬養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』よ り)
 「キリストによって生きることによって、キリストのために、また、他の人のために生きることが、この人生の煩わしさを清め、この人生の倦怠を吹きはら い、この人生に命を与えるのであります。」(竹森、前掲書より)「わたしにとって生きることはキリスト」であるならば、イエス・キリストを信じる私たちに とってもまた、私たちそれぞれの人生を生きるとは、「キリストを生きる」ことです。その歩みの中で、パウロと共に、私たちも切に「キリストを生きる」こと を、「キリストがあがめられることを待ち望む」のです。それは「わたしによって」です。ここにあなたがおり、わたしもまたいるのです。私たちそれぞれの場 所と働きと道が、神によって準備され、開かれ、導かれているのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神よ、御子イエス・キリストを死の中から引き上げ起こし、復活させられた神よ。
 私たちは、本当のところ、何を待ち、何を望んでいるでしょうか。自分を振り返ると、ただもっぱら自分自身と自分に関わることを願い、待っているように思 えます。そして、その道はどこか「行き詰まり」であると感じているのです。しかし、そんな私たちのために、あなたの御子イエス・キリストは来てくださいま した。そして、その十字架の道を通って復活へと至ったその生涯によって、主は私たちに歩み寄り、それぞれの人生の道へも入り来たってくださいました。私た ちもまた、パウロと共に信じ、告白いたします。「わたしにとって生きることはキリストである」と。どうか私たちの道のすべてにおいて、その終わりに至るま でも、あなたの愛と真実のゆえに、すべてを益としてくださり、「キリストがあがめられ」ますようように。
 またこうしてあなたが許し与えてくださった、この世に生きる時の間、あなたが出会わせてくださるすべての一人一人と共に、助け合い、支え合って生きるこ とを教え、助け、導いてください。そのようにして、私たち一人一人によって、また教会によって、「キリストがあがめられ」ますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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