主を待ち望んで、「ああ」と言う        ローマ人への手紙第8章18〜28節


 先週、「信仰のかたち」とは、「待つこと」「待ち望むこと」であると言いました。そのような意味での信仰について、今日はさらに深めて行きたいと思います。
 さて皆さん、「なんとかのツボ」という言葉がありますね。ここを押さえたならば、その対象のほぼすべてをつかまえることができる点、というような意味で す。「テニスのツボ」、「水泳のツボ」、「数学のツボ」、「英単語のツボ」などと使うのでしょうか。それで行くなら、「信仰のツボ」とは何でしょう、どん なことでしょうか。私たちは広い意味で皆信仰を求め信仰に生きようとしているわけですが、その際に、この一点を押さえるならば「信仰」全体を押さえること ができるようなもの、それはいったい何でしょうか。
 私は、それは「苦しみ」だと思います。なぜならば、「苦しみ」こそ、クリスチャンが日々に出会う経験だからです。パウロも、「今この時の苦しみは」と 言っています。いや、「苦しみ」は、ただクリスチャンだけでなく、世の中の人すべてに共通する問題です。この世は、ありとあらゆる苦しみに満ちているから です。だから、世の多くの宗教もまた「苦しみ」を問題とします。それは、信仰生活において「ツボ」「かなめ」となる事柄です。「苦しみ」をどう捉えるか が、信仰を決めるのです。

 イエス・キリストを信じ、待ち望む信仰は、「苦しみ」をどう捉えるのでしょうか。
 その最初の大切な点は、それは「私一人の経験ではない」ということです。私たちの信仰は、神の霊、聖霊、「御霊」に導かれてなされるものですが、御霊が 私たちに聞かせようとするものがあります。それは、「うめき」です。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを 私たちは知っている。」「被造物」というのは、神様が創造された、創られたすべてのものを指します。それらすべてが、ずっと共にうめいている、うめき続け ている、そのうめき声を神の霊、聖霊は私たちに聞き取らせようとしているのです。さらに、神の御霊は私たちに示します。「被造物が虚無に服している」、被 造物は「滅びのなわめ」の中に囚われている、と。「虚しい」「悲しい」「喜びも意味もない」、それほどの苦しみにあえいでいる。それは、なぜでしょうか。 パウロはこう語っています。「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく」つまり自分でなりたくてなったのではなくて、「服従させたかたによ る」のであると。この「服従させたかた」とは、神様のことです。えっー、神様がそんなことをされたのですか、どうしてーと思いますが、聖書はそれについて も一つの考えを持っています。
 それは、被造物の中で「人間が罪を犯した」からです。聖書は語ります。「人間だ。人間が問題だ。人間が罪を犯したのだ。」神様は、この世界を創って、そ の管理・支配を人間に任せられました。ところが、この人間が罪を犯してしまったのです。皆さん、「罪は心の問題」と思ったら大間違いです。罪は、確かに心 に始まりますが、それは言葉となり、行動となって、他の人々、いや人間だけでなく、他の動植物、またこの世界全体の秩序にまで及ぶのです。人間が罪を犯す とき、他の動植物が苦しみます。人間が罪を犯すとき、それはこの世界全体の秩序を乱す、この世界を汚し、破壊するのです。人間の歴史は、そういう例に事欠 きません。それは、神様が人間にその責任を取らせ、その結果を引受させられたということなのです。
 以前、私は「アンゼラスの鐘」というアニメ映画を見る機会がありました。長崎への原爆投下の経過を描いた作品でした。人間が作り出した原爆というもの が、どんなにひどい破壊力を持つものであるか、それをもたらした戦争というものがどんなにひどいものなのかということが、アニメながら、いやアニメだから こそ、ものすごい迫力で伝わってきました。美しかった長崎の山並み、町並みが、一瞬にして「灰色の町」に変わってしまった。そこで、多くの人間が死んだだ けではない。動物も植物も殺されました。しかも被害はこの時だけにとどまらない。この後も、人間の中に後遺症を残し、自然の秩序を破壊して行くのです。ま さにパウロが語る通りです。「被造物全体が、今日に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。」

 どうすればよいのでしょうか。イエス・キリストを信じる信仰が、「今のこの時の苦しみ」を捉えさせる、もう一つの決定的な見方は、神の栄光、それに基づ く望みの中でそれを捉えるということです。「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りな い。」先ほど、神様がこのことをゆるしこのことをなさったのだと言いました。聖書の考えでは、そこに希望もまたあるのです。「人間が罪を犯した、人間が世 界を汚し、壊した」、それでおしまいだったら、もう絶望です。そこには何の希望もありません。人間なら、やりっぱなしです。罪を犯して、責任をとらない、 これが人間です。でも、神様は違います。神様は必ず責任をとってくださる。だから、パウロは語ります、「望みが残されている」。
 では、神様は、どのように「被造物」、動植物と自然、この世界を救おうとされるのでしょうか。この「苦しみ」、この「呪い」、この「虚無」、その 「元」、原因はどこにあったのでしょうか。それは「人間」でした。「人間」が悪かったのです。だから救いは、人間から始まらなければなりません。人間が変 わるなら、「新しい人間」が生まれるなら、そこからこの世界が変わり始めるのです。だから、こう述べられます。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たち の出現を待ち望んでいる。」
 神は、まさにこのことをしようと、事をはじめられました。これが、イエス・キリストの救いだったのです。主イエスは、最初だだ一人「神の子」でした。正 しく神様の御心を行い、隣人ともこの世界とも正しく関わり、愛し、仕える、この生き方をすることができたのは、イエス様ただ一人でした。イエスただお一人 こそが、「新しい人間」だったのです。でも、イエス様は、ご自分だけで満足されませんでした。私たち、罪に落ち、神に背き、隣人を傷つけ、自然を破壊し、 この世界を破滅へと導きつつあった私たちを、ご自分と結びつけ、そうして神様と結びつけ、神の霊、ご自身の御霊を一人ひとりに与えてくださることによっ て、新しく私たちを「神の子」、「新しい人間」としてくださったのです。「わたしたち自身も、心のうちでうめきながら、子たる身分を授けられること、すな わち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」

 こうして新しく生まれる「神の子」たち、これによって「新しい世界」が生まれ、始まろうとしているのです。これが神様が用意なさった救いです。こう語ら れています。「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」「やがてわたしたちに現され ようとする栄光」。神は、すばらしい約束と希望を与えられたのです。それは、単に「この私が救われて、天国に行ける」というようなことではありません。そ れは、あまりにも小さすぎます。神様は「天地万物の神」です。神様は、この世界すべて、宇宙全体、そこに住むすべての人間はもちろん、すべての動植物、す べての物事、ありとあらゆるすべてのものを癒し、回復し、完全に救ってくださる、そのようにして全く新しい世界、神様の愛と真実が完全に治め導く「新しい 天と新しい地」を完成してくださろうと、今も御業をなしつつ、進んでおられるのです。
 有名な日本のキリスト者内村鑑三は、こう言っています。「今まで受けたる恩恵より推して、さらに大きな恩恵を賜うことをわれらは信ずる。われらは天然の 敗壊を深く悲しむがゆえに、天然もまた復興せんことを望む。しかして神はその所造たる天然の荒廃を必ず癒したもうのである。かくて人と天然と共に救われ て、万物ことごとく完成し、ただ平和と歓喜のみが全天全地に満つるに至るのである。この大希望なくして、福音は福音でない。この大実現なくして、神は神で ない。もし福音がこれ以下のものならば、福音は福音ではない。もし、神がこれ以下のものなれば、神は神でない。」

 これが私たちの信仰なのです。この信仰とこの希望をいだいて、主を待ち望んで、私たちは生きるのです。神の御霊、聖霊が、この生き方、この道を導いてく ださるのです。それは、どんな生き方、どんな歩みなのでしょうか。ある人がこう言っています、「聖霊の合言葉がある」。聖霊、神の御霊に導かれて生きると きの「合言葉」があるというのです。それは「ああ」という一言です。全被造物がうめいています。ところが、それだけではないのです。「それだけではなく、 御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでい る。」信じる者もまたうめくのです、御霊に導かれてうめくのです、聖霊によって「ああ」と言うのです。
 「ああ」と言う、私たちはそれを、苦しみうめくすべての人、すべてのものと共に「ああ」と言うのです。だれしもつらいところ、悲しい状況、苦しんでいる 人には目を背け、そこから逃げ出したいと思うのです。しかし、聖霊は「そこに留まっていなさい」と私たちに語りかけるのです。その御霊に導かれて、私たち はその苦しむ人と共に嘆き、その苦しむものと共にうめき、共に「ああ」と言うのです。
 けれども、その「ああ」は、単に悲しみの声、苦しみのうめきにとどまってはいません。なぜなら、私たちはあの神の救いと回復の大いなる約束を聞かされ、 知らされているからです。私たちとこの世界には、「やがてわたしたちに現されようとする栄光」があり、「栄光の自由に入る望み」があり、このうめきは喜び へと至る「産みの苦しみ」であると知っているからです。だから、この「ああ」は、望みをもって、希望をいだいて神の救いを信じ、待ち望む「ああ」なので す。「もし、わたしたちが見ないことを望むから、私たちは忍耐して、それを待ち望むのである。」「ああ、この苦しみの行く手に、ああ、神様は救いと栄光を 用意していてくださる!」イスラエルに住むパレスチナ人でキリスト教会の牧師であるミトリ・ラヘブ氏の言葉です。「私は、イスラエルの占領下に生きるパレ スチナ人である。私を捕えるものは、日々私の生活をさらに困難にする方法を捜し求めている。彼らは私の民を有刺鉄線で囲み、周囲に壁をめぐらせ、その軍隊 は私たちの周りに多くの境界を設ける。彼らは、私たちのうちの数千人をキャンプと刑務所に留め置くことに成功している。 しかしこれらのすべての努力にも かかわらず、彼らは私から夢を奪うことはできなかった。彼らは私の夢を投獄することはできなかった。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』 より)「わたしたちは、この望みによって救われているのである。」
 こうして、私たちは「ああ」と語りながら、私たちのなすべきこと、私たちにできることを全力でするのです。望みをもって、主を待ち望んで「ああ」と言 う、この道の行く手に神が約束してくださっていることは、「万事が益となる」、すべてが救われ、すべてが神のもとへと立ち帰り、すべてが回復される、とい うことです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っ ている。」

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
 私たち人間があなたの前に罪を犯し、すべてのものが虚無に服し、滅びの縄目に捕らえられています。しかし、この「すべてのもの」は、あなたが創造なさっ たものであり、あなたが愛しておられるものです。そこにこそ、希望があります。私たちの希望、すべてのもののための希望です。あなたは「新しい人間」イエ ス・キリストによって、この救いの業を始められました。その御業を受けて、信じる私たちの中にも、あなたの新しい道が開かれ、始まっています。
 私たち一人一人と教会もまた、この御業を受け入れ、この道を歩み始めることができますように。そして、苦しみうめくすべての被造物と共に、またすべての ものと連帯してうめいてくださるあなたの御霊と共に、私たちも「ああ」とうめきながら、あなたを信じ、あなたを待ち望んで生きることができますように。そ れにふさわしい、連帯と共働の歩みを始め、進め、続けて行くことができますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る