主を待つこと、それはさいわい        ルカによる福音書第12章32〜47節


 「主を待ち望む」をテーマに、これまでは旧約聖書からお話をして来ました。今日からはしばらく、新約聖書から共に御言葉を聞いて行きたいと思います。
 ここでは、イエス・キリストご自身が、「待つこと」「待ち望む」ことについて語っておられます。「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴 から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。」これは、たとえです。たとえの言葉を聞き、読む上で大切なの は、そのたとえによって一つの「イメージ」を持つことです。このたとえは、信仰について、信仰をもって生きることについて語っていると思います。信仰を もって生きること、それは「待つこと」なのだと、イエス・キリストは言われるのです。
 「待つ」からには、それは何か待つ「対象」を持っているはずです。何かの対象、目的、目標があって、それをひたすら、ずっと待っている。待つ対象もな く、ただ何となく待っているということはあり得ません。その対象、目的、目標とは何でしょうか。今日の箇所の中にそういうことを、指し示している言葉があ ると思います。32「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」「御国」、神の国を私たちは信じて、それを 待っているのではないでしょうか。神の国、神の支配、「神様のお取り仕切り」、それは新約聖書においては、イエス・キリストによって実現されるものとして 信じられています。神の国、「御国」の到来、それはイエス・キリストが再び来られることによって、最高潮に達し、ついに完成するのです。
 
 この「御国」を待って生きることこそが、信じて生きること、信仰に生きることなのだと、このたとえはそれを、夜中に主人の帰りを待つしもべの姿によって語るのです。
 ここでまず感じるのは、「待つこと」の中に、注意、緊張そして配慮があるということです。「腰に帯をしめ」、「あかりをともして」、「すぐにあけてあげ ようと」、待っているのです。私は以前、神学校に行く前の一時期、飲食店でアルバイトをしていたことがありました。カウンターの仕事で、お客さんを直接迎 え、注文を取り、その品を届けるというのが仕事でした。その仕事の第一の業務は「待つこと」なのですね。それは、何もしないでただ立っているだけのように 見えます。でも、それはただ立っているだけではないのです。それは、常に入口に注意を払い、お客さんが入ってきたら即座に「いらっしゃませ」と言い、すぐ にお水を出せるように準備していることだったのです。「待つ」ということは、ただ何もしないでいることではないのです。それは、注意をし、緊張をし、配慮 をしながら待っていることなのです。
 そして、もう一つのこと。たとえを読む上で大切だと思うもう一つのことは、そこから「雰囲気」を感じ取ることなのです。ここには、ただの緊張ではなく、 喜び、さいわいの雰囲気があります。それは、ここでのこのたとえの設定が、「主人が婚宴からかえって」来ることになっていることです。これがもし、「葬式 から帰って来る」という設定だったらどうでしょう。全く違う雰囲気になってしまうことでしょう。葬式から帰って来る主人の場合は、きっと悲しみや静けさと いう雰囲気を身に帯びて帰って来るはずです。けれども、そうではない。この主人は、「婚宴から」、喜びと幸いを持って帰って来るのです。ですから、その主 人を迎えるしもべもまた、その喜びと幸いを分けてもらうことになるのです。この喜びの雰囲気は、今日の箇所の中で、三度も「さいわいである」と語られてい る(37、38、43)ことから強く感じられます。「御国」、「神の国」の到来と実現を待つこと、それは喜びであり、幸いなのです。なぜなら、「イエスを 通して発足した神の王国は、被造物を本来あるべき姿に回復させる」ものだからです(N.T.ライト、若松英輔・山本芳久『危機の神学』より)。イエス・キ リストがもたらす「御国」、それはこのようなものだからです。「あの約束の中で最も重要な言葉は、『すべての』『すべての涙』『すべてのものを新たに』と いう言葉です。その意味するところはこういうことです。何物も忘れられていない。何物も失われていない。何物も取り消されていない。すべての人、すべての 物に考慮が払われている。すべての人が救われ、すべてのものが成就される。また涙がぬぐわれるということは、次のような意味です。泣いていた者も、たとえ 今絶望の涙、死の悲しみ、悔悟の苦しい涙のゆえに泣いていても、再び笑い、『今やすべてのものは良い』と言うことができる。」(ゴルヴィッツァー『新しい 天と新しい地』より)「主を待ち望む」こと、それはさいわいなのです。

 そして、このたとえの中で最も驚くべきことがあります。それは、この主人が帰って来る時、主人としもべの間の位置、立場の逆転が起こることです。37 「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給 仕をしてくれるであろう。」普通、こんなことは絶対に起り得ないことです。古代において、主人と僕つまり奴隷との社会関係が絶対的に固定され、強制的に実 施されていたこの時代において、こんなことは絶対にあり得ず、起こり得なかったのです。「主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてく れるであろう。」これは、神の国において与えられる神の恵み、イエス・キリストの恵みの破格性、あらゆる限度や枠組みを超えて大きく、すばらしいことを表 わすものだと思います。
 そして、新約聖書によれば、実際にこのことが起こったのです。しかも、それは何か遠い将来の「世の終わり」とかにではなく、私たちもまた生きているよう な、イエスの弟子たちの歩みの中にです。それは、あの「エマオへの途上の道」においてでした。二人の弟子が、イエスの十字架の死に激しいショックを受け て、深い悲しみと失望に沈みながら、エマオの村への道をとぼとぼと歩んで行きます。そこへ、一人の見知らぬ旅人が寄り添って歩いて行きます。この旅人こ そ、復活されたイエス・キリストだったのです。二人は、この謎の旅人が物語る話に激しく心を惹かれ、日が暮れようとする時、この旅人を引き留めて共に宿を 取ります。そして、共に夕食の席に着いた時、この逆転が起こったのです。引き留めたのは二人の弟子であり、引き留められ招かれたのは、この旅人だったので すから、本来であれば、二人の弟子の方がホストとなりサービスする側となって、この旅人をもてなさなければならなかったはずです。しかし実際に起ったの は、このこのことでした。「一緒に食卓につかれたとき、(イエスは)パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイ エスであることがわかった。」(ルカ24・20)「パンを取り、祝福して、渡す」、その役割が逆転したのです。しかも、ここでこの二人の弟子たちは、決し て「待って」はいませんでした。復活のイエスが来られることに対して、何の予想も期待も信仰もしていなかったのです。それなのに、イエスは来てくださり、 彼らに仕え、彼らをもてなしてくださいました。あのたとえをはるかに超えて、イエス・キリストの恵みは、私たちにもまた大きいのです。

 「主を待つこと、それはさいわい」。ならば、私たちも喜びをもって、希望をもって、待っていたいのです、待ち続けていたいのです。初めに申し上げた通 り、「待つこと」は、ただ何もしないでいることではありません。具体的に、私たちは何をしながら「待つ」のでしょうか。どのように生きて行きながら、「待 ち望む」のでしょうか。ここで、先ほど引用しご紹介した言葉がヒントと導きになります。「イエスを通して発足した神の王国は、被造物を本来あるべき姿に回 復させる」。そしてそれを示唆するような言葉も、今日の箇所の中にあります。「自分の持ち物を売って、施しなさい。」(33)これは「御国」を受けるため に準備し、待つ生き方として語られていることです。「施す」、それは、言うならば、この世における貧しい人、困窮者、弱者への配慮と奉仕に生きるというこ とでしょう。また、主人を待っている僕の仕事はこのようなものだと言われています。「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる 忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。」(42)「召使たちの上で、時に応じて定めの食事を備える」、それはどんな仕事であり、どんな働きなので しょうか。
 ライトという神学者が、「使徒行伝」に触れながら、このように語っているそうです。アンティオキアの教会で、「これから世界中に大飢饉が起こる」という 預言・メッセージが与えられた(使徒11章)。「それに対して、アンティオキアにいたイエスの弟子たちは、どう応答したのかと言うと、『「私たちが罪を犯 したので、悔い改めが必要だからこんなことが起こったのだ」とか、「すべての人が罪を犯しているので、これは、悔い改めの必要を広く世界に伝える絶好の機 会になる」などと言いませんでした』とライトは言うのです。―――アンティオキアの教会の人たちは、『私たちに何ができるのか、誰をエルサレムに送り、ど うやって助けようか』と非常に実践的な声しか発しなかったと言ったうえで、ライトは―――これこそ聖書的な発想だと言わんとしているわけです。(注 実際 の聖書ではこう記されている。29「そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。」)つまり、コロナ の問題が起きたときに、人間の罪が裁きを受けたのだとか、これはキリスト教を宣教する絶好の機会でもあるというような仕方で捉えるのではなくて、身近な一 人一人の困っている人に対して自分は何をできるだろうかと、キリスト教がなくてもできると言えるようなプラクティカル(注 実際的・実践的)な行為をして いくことこそが、むしろ神学的にも基礎づけられたキリスト教的なあり方だと言う。」(前掲『危機の神学』より)「「自分の持ち物を売って、施す」、また 「召使たちの上で、時に応じて定めの食事を備える」とは、そのような働き、そのような生き方なのではないでしょうか。

 イエス・キリストは今、信仰を持って、希望を持って、それだからこそ愛を持って「待つ」ことにおいて生きなさいと語られます。「腰に帯をしめ、あかりを ともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。」「主を待つこと、それはさいわ い」なのです。なぜなら、このような破格の恵み、破格の喜び、破格の幸いが起こるからです。「よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進 み寄って給仕をしてくれるであろう。」

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
 イエス・キリストは私たちに示し語られました、「信じるとは、信じて生きるとは、待つことだ」と。あなたの御国、神の国、その到来と「新しい天と新しい 地」の実現、イエス・キリストが再び来られるその日を、喜びとさいわいのうちに待ち、待ち望むことだと。そのとき、主イエス・キリストご自身が、なんと私 たちのために進み寄り、「パンを取り、祝福して裂き、渡して」くださいます。
 どうか、その日、その時を待つ、大いなる喜びとさいわいによって、今ここから私たちを守り、励まし、導いてください。そして、何もしないでただ待ってい るというのではなく、主が私たち一人一人と教会に託し与えてくださった、その役割と使命とに全身全力で生きながら、期待と喜びと希望とをもって主を待つこ とを教えてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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