今、そこから主を待ち望む        哀歌第3章20〜31節


 「主を待ち望む」、それは、どこからでしょうか。「主を待ち望む」、それは、どのようなところからでしょうか。それは、「うなだれた」ところ、「口にち りをつけた」ところからです。この「哀歌」で、一人の詩人は告白します。「わが魂は言う、『―――わたしは彼(主)を待ち望む』と」。それは、この人が 「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と語った、まさにそのところからであったのです。またそれは、この人が、共に苦しんでいる人たちに 向かって、「口をちりにつけよ」と語るところからであったのです。
 「うなだれる」「口をちりにつける」、それは別の言葉で「ちりに伏す」とも表現できるような事態、状態です。それは、地面に倒れている状態です。ばたん と、うつぶせに地面に倒れて、口が地面について、「ちり」つまり土や砂が口に入って来る状態。しかも、思わず何かにつまずいて自ずから倒れたというより、 だれか特定の他の人にぶたれ、たたかれ、地に倒されて、その衝撃と共に「ちり」と土が口の中に押し入って来る、そんな状態なのです。だからそれは、単に痛 みと苦しみというだけでなく、もちろんそれは甚だしいのですが、またそれ以上に敗北と屈辱の状態なのです。

 どこで、そんなことが起こっていたのでしょうか。この「哀歌」は、イスラエルの国が滅ぼされ、その廃墟に立って歌う、激しい嘆きの歌です。エレミヤをは じめとする預言者たちの警告と裁きの宣告も、ついに頑ななイスラエルの人々に聞き入れられることはありませんでした。人々は、王も民衆も偽りの神々を拝み 続け、また社会的不正義を放置し続け、社会の中で困窮し欠乏している人たち、弱者を助けませんでした。そうして、ついに紀元前587年、神の怒り・裁きの ようにして、恐るべきバビロニア軍は怒涛のように押し寄せ、押し迫り、ついに都エルサレムは陥落してしまいました。
 そして今、詩人は、そのすべてが破壊し尽くされた廃墟の中で嘆き、歌うのです。「主はまことに敵となられた。イスラエルを圧倒し その城郭をすべて圧倒 し、砦をすべて滅ぼし 乙女ユダのうめきと嘆きをいよいよ深くされた。シオンの祭りを滅ぼし 仮庵をも、園をも荒廃させられた。安息日をも祭りをもシオン に忘れさせ 王をも、祭司をも 激しい怒りをもって退けられた。主は御自分の祭壇をすら見捨て 御自分の聖所をすら見捨て 城郭をも城壁をも、敵の手に渡 された。」この中で、すべての人々が苦しみ、嘆き悲しんでいます。「わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので わたしのは らわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えゆく。幼子は母に言う パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて 母のふと ころに抱かれ、息絶えてゆく。」そのような中で、「口をちりにつける」ということが、イスラエルのすべての者たち、一人一人に起こったのでした。

 でも、ここに一つ、不思議なこと、著しいことがあると思います。それは、ここでこの詩人が自分でも歌いつつ、人々に向かって「口をちりにつけよ」と、あ えて命じ、勧めているように思えることです。この人は、「あーあ」とがっかりし、悲しみ、失望しているだけではないのです。あるいは「あの時、ああすれば よかった、ああしていればよかったのに」と後悔しているのでもないのです。今、あえて「口をちりにつけよ」と自分に語り、また人々にも呼びかけているよう に思えるのです。いったいなぜでしょうか。
 ある人がこう言っていると思います。「ここに、神を信じる者の自由と幸いがあるからだ。」「こう考えられるかもしれない。人生において挫折するとき、悲 しみの中で心が崩れるときに、信仰があったらしっかり立てる。顔を上げることができる。なるほどそうかもしれない。しかし同時に忘れていただきたくないこ とがある。それは、信じればこそ、膝を折ることができ、崩れることができるようになるということであります。―――神を信じない者の目は乾いている。涙を 流すこともできなくなる。言い換えると、神を信じて生きる時に涙が溢れる―――。それが、生きておられる神を信じるということである。悲しみのなかでここ ろをこわばらせることではない。無理に自我をしっかりと立てて自力で何とかやって見せるということではない。人が差し伸べる手を、まして神が差し伸べる手 を振り払うことではない。崩れる、涙を流す、そして差し伸べられる手の温かさを知る。これが信じる者の知っている幸いであります。」(加藤常昭氏、加藤常 昭編訳『説教黙想集成1 序論・旧約聖書』より)あえて膝を折り、倒れ、崩れることができる。そのところから、「口をちりにつけた」そのところからこそ、 「主を待ち望む」ことができるのだというのです。「わたしは彼を待ち望む」。

 なぜでしょうか。それは、主なる神がそこに、「口をちりにつけた」そのところに、すでに来られて、そこで共にいてくださっているからです。今日の20節 の言葉について、こんなふうに語られていて驚きました。「実は、この節は、ほんとうは詩人の〈へりくだり〉を語っているのではないのあります。実は『わが 魂は』というところは―――ほんとうは『あなたの魂は』つまり、神を指すのであります。神が・・・・わがうちにうなだれる。神が、死の家へ下るように『下 り』『かがんでちりに伏す』−−−。20節は、死の家のような命のない、虚飾に飾られたわたしに、ちりのように意味のないわたしに、あなたご自身が『下 り、かがんで伏し』あるいは『身を沈め』、ある訳によれば『身をよじって嘆く』ことを告げるのであります。―――わたしに(あるいは、わたしの上に)身を 沈め、身をよじって嘆く神が、ここにいますのであります。」(左近淑『だれも奪えぬ自由』より)「待ち望む」とは、何か、「ちりに伏して」いる私が、遠く 天の上におられる神をはるかに仰ぎながら、「神様、いつか私を天から助け、救ってください」と、はかない望みをつぶやいている、というようなものではない のです。主なる神、聖書の神は、もう既にここに来て、ここに共にいてくださる。神御自身が私の上に「身を沈め」、神御自身が「かがんでちりに伏し」、「口 をちりにつけ」ているこの私の、まさにこのところに来てくださり、まさにここで共にいてくださるのです。これこそが、けっして絶えることのない、「主のい つくしみとあわれみ」であり、「朝ごとに新しく、大きい主の真実」なのです。これを知るからこそ、今、そこから、「口をちりにつけた」そこから、「主を待 ち望む」ことができるのです。「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれ みは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である。それゆえ、わたしは彼を待ち望む』 と。」

 私たちもまた、このような神を知っています。いや、不思議にも知らされています。それは、イエス・キリストの神です。「私たちは『神』という言葉を聞く 時、どのような神を心に描くのでしょうか。人間の善悪を秤にかけて裁くお方。信仰の分量を計って天国行きの切符を販売するお方。礼拝出席数をノートにつけ て『救い』という単位を発行する教師。全部まちがっています。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という小説があります。朝、美しい極楽の蓮の池の淵から地獄を見お ろしたお釈迦様が、カンダタという男の地獄の底で苦しむのを見て、彼が生前にしたたったひとつのよいこと、小さい蜘蛛を踏みつけなかったことを思いだし て、細い蜘蛛の糸をたらしてやった。そして、その蜘蛛の糸にすがって登ってきたカンダタが、下のほうからゾロゾロと登ってくる者たちに『こら罪人ども、こ の蜘蛛の糸は俺のものだ』と言ったとたん、糸はぷっつり切れて、カンダタはこまのようにくるくる回りながら暗やみの底に落ちていった。お釈迦様は悲しそう な顔をして立ちさっていく。―――しかし、この小説はカンダタの利己主義よりも、お釈迦様、神さま、天国の冷たさを訴えるものではないのか。男がこまのよ うにくるくる回りながら暗やみに落ちていく。悲しそうな顔はするがなにもしないで立ち去る神、そしてそれでも快い香りがただよう天国。そんな神ならば礼拝 はごめんだ。そんな冷酷な天国なら地獄のほうがよい。もしイエスならば、彼もまたカンダタの後を追ってこまのようにくるくる回りながら地獄に行き、そこで カンダタと出会うだろう。私を求めたのはだれかと尋ね、地獄の底にイエスの教会を建てるだろう。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)イエス・キリストの神 とは、まさにそのような神、ご自身もまた「死の家へ下り」「かがんで、ちりに伏し」「口をちりにつける」神なのです。
 「哀歌」の詩人は、このような神を知らされたがゆえに、この神の「絶えることなきいつくしみと、尽きることなきあわれみ」を知ったがゆえに、「主を待ち 望む」ことを学び、「主を待ち望む」ことを始めようとするのです。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに 新しく、あなたの真実は大きい。わが魂は言う、『主はわたしの受くべき分である。それゆえ、わたしは彼を待ち望む』と。」

 このように考えて来たとき、私はもう一つのことを悟らされました。それは、「主を待ち望む」とは、決して一人でするものではない、ということです。「主 を待ち望む」、それは「共に」、私に出会って来る、神が私たちに出会わせられる、だれかと共に、その人と共に、そのもう一人と共にするものである、という ことです。なぜなら、既に神ご自身が、イエスご自身が、私たち一人一人に対して、この私に対して、「私の上に身を沈め」、そのように共に生き、そのように してくださったからです。
 「イエスとはだれなのか。奇妙な表現に聞こえるかもしれませんが、十二年の病いに苦しむ人がイエスなのです。私たちのまわりで、悲しむ人、あなたの衣の 裾に手を伸ばす人、傷つき、あるいは宗教や道徳の裁きを受けてくるくると落ちていく人、その人がイエスなのです。イエスはそのような人の姿をとって私たち に呼びかけています。そして私たちが互いに愛を与えあい、命を与えあい、互いに『生かされる』人生を作るとき、そこにイエスはおられるのです。―――『生 かされて生きる』とは、愛の中にあって互いの命をつなぐことです。イエスはたしかにそのように生きたし、いまもあの人、この人の姿となって『生かされて生 きる』人生を与えてくださっているのです。」(加藤潔、前掲書より)
 その一人と共に、共に「ちりに伏し」「口をちりにつけ」ながら、共に「主を待ち望む」のです。共に「絶えざる主のいつくしみと、尽きざる主のあわれみ」 に委ね、任せ、期待し、そして、今私たちにできる最大、最高、最善の業、「小さな業」を共に行っていくのです。それはまた、主のいのちによって生かされ る、主の力によって起こされるという経験であり、私たちにとっては、まさにイエス・キリストの復活の力によって起こされ、生かされるという恵みそのものな のです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
 あなたはひたすらずっと天におられ、そこに張り付くようにしておられたのではありませんでした。あなたは捕囚に苦しむイスラエルのために、ご自身が「死 の家に下り」「ちりの中に伏し」、彼らと共に「口をちりにつける」そのところまで下り、彼らと共にいてくださいました。それゆえにこそ、この詩人はまたあ なたを「待ち望む」ことを知らされ、学び、そに道に生き始めることができました。まさにこの同じ恵み、いやそれにはるかに優る恵みを、私たちもまたイエ ス・キリストにおいて、そのへりくだりと十字架において、またその復活と栄光において知らされ、与えられました。
 それゆえに、私たちにもまた今、「口をちりにつけ」ているそのところからこそ、あなたを待ち望むことを始めさせてください。また私たちが自分で、たった 一人で「待ち望む」のではなく、あなたが先に既に歩み行ってくださったように、私たちもまた、他の誰かと共に、その一人と共に、そこから「主を待ち望む」 道に歩ませてください。そのような私たち一人一人また教会とならせてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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