神を畏れる恵みと自由        出エジプト記第1章8〜21節

  毎年私はこの2月の第二主日には、「信教の自由」をテーマにお話をさせていただいています。それは、一昨日の2月11日は、一般には「建国記念の日」と呼 ばれていますが、私たちキリスト教会の多くではこの日を「信教の自由を守る日」として覚え、過ごしているからです。この日はかつて「紀元節」と言い、国家 が神道という一宗教によって国民を支配し統制しようとしたことの象徴的な日でした。それによって他宗教や他思想の人たちが、時には圧迫や弾圧、さらには迫 害を受けました。そのことを深く思い、忘れず、この日を祝日・休日とすることに反対し、「信教の自由」を守るために祈り、仕えるための日として過ごすこと にしたのです。
 ところで、この「信教の自由」ですが、いささか誤解を受けているようなところがあると思います。これは、国家から「信仰し、礼拝し、伝道する自由」を授 けてもらい、与えてもらうということではありません。もちろん、「信仰し、礼拝し、伝道する」という本来的な自由を国家が侵害しないように見張り、発言す る、ということは大切です。けれども、それに留まるものではないのです。むしろ、今日私たちはこのことをもっと積極的に捉えたいと願います。「信教の自 由」、それは私たち信仰者にとって、「神への信仰に生きる自由を持つ」ということです。しかも、「そのためには、神以外の何ものをも恐れない」という自由 であります。このことを、今日のこの聖書の言葉が教えてくれていると思います。

 「神の民」であるイスラエルが、飢饉を逃れるためにエジプトに一時的に移住したことは、すでにお聞きおよびでしょう。はじめイスラエルは、その民の一員 であるヨセフがエジプトの大臣であったために、そこで非常に恵まれた立場と生活を味わうことができました。ところが、それから何十年もたち、思いもよらな い困難な立場に追い込まれてしまったのでした。ここに、「ヨセフを知らない王」が立ったのです。私はここに、「人のことは過ぎ去る」ということを痛感いた します。あれほどのすばらしい指導者であったヨセフも、またその多くの輝かしい業績も、ついに忘れ去られ、過ぎ去るということが起こるのです。かえって、 ヨセフという者などいなかったかのように、残酷不正な政策を行う王がやって来て立てられるということ、それがこの世の現実なのです。
 この王様、おそらくはラメセス2世という人であろうと言われていますが、この王は今まで比較的平穏に共存して来たイスラエルに対する警戒心・恐怖心を煽 る政策に出たのです。「このイスラエルという民は増えすぎた。どうかすると、私たちエジプト人より多くなりそうな勢いだ。このまま行くと、いつか国が乗っ 取られてしまうぞ。」悪い為政者というものは、しばしばこのように「敵」を作り出して、人々の不満をそらし、自らの失政をごまかしてしまうもののようで す。
 これに対して、エジプトの大多数の人々も残念ながら共感し、同調してしまいました。こうした「国民的支持」を受けて、イスラエルに対する「強制労働政 策」が実行に移されることになりました。エジプトと言えば「ピラミッド」とか「スフィンクス」とかが思い浮かびますが、機械も電気もなかった古代に、あの ように巨大なものを造ろうとするなら、数え切れないほどの多くの人々を半ば強制的に動員して働かせねばならなかったことでしょう。イスラエルの人たちは、 「優先的」にそれらの重労働に駆り出され、厳しい労働を強いられたのです。
 それでも、イスラエルの人々も負けてはいなかったようです。神の祝福のゆえに、イスラエルはこの迫害にもめげず、ますます数を増して広がって行きまし た。これを見たエジプト王たちは、恐怖感を強め、ついに非常手段に出ました。王は、イスラエルの赤ちゃんを取り上げる助産師たちのリーダー的役割を担う二 人の女性を、ひそかに呼び寄せました。そして、こんなひどいことを指示したのです。「お前たちはイスラエルの女の世話をするとき、生まれて来た子が男で あったなら、それをひそかに殺せ。」エジプトのすべての権力を後ろ盾にした、有無を言わさぬような命令でした。

 ここで、聖書は注目すべきことを告げます。それは、「ここだ、ここでこそ信仰が、神への信仰が問われている」ということです。このように書かれておりま す。17「しかし助産婦たちは神をおそれ、エジプトの王が彼らに命じたようにはせず、男の子を生かしておいた。」 エジプト王は、別に「このイスラエルの 神を信じ拝んではならない」と命じたのではありませんでした。ですから、「ただ信じ礼拝する権利と自由さえ守ってもらえるならそれでいい」と思っていたな らば、別にどうということもなかったでしょう。しかし、この二人の助産婦シフラとプアはそうは考えなかったのです。「『生まれて来る男の子を密かに殺 す』、それはすべてのいのちを創り与えてくださる神に逆らい、その御心を踏みにじる行為だ。私たちは、そのような理不尽で非道な王の命令に従うよりも、神 とその戒めに従うことを選ぶ。神を畏れることを選ぶ。」彼女たちはそのように決断し、行動したのでした。
 今回、この彼女たちの決断と行動について、このように語られているのを感銘深く読みました。「助産婦たちは『私たちは女性ですから無力です。』とか『政 治家ではないから、軍人ではないから、助産婦にすぎないから何もできない。』とは言いませんでした。彼女たちは神さまが望んでおられることに従いました。 それが出エジプトに繋がるなんて思ってもいなかったでしょう。でも置かれた場所で神さまを愛し、周りの人々を愛した。助産婦の役割はお産を手伝うことで あって、赤ん坊の命を奪うことではない。彼女たちはきちんと自分に与えられた役割を果たしました。神さまは何か英雄的な人、他の人より飛び抜けて優れた 人、そういう人々を用いるのではなくて、こうした人々を用いられます。私たち一人一人の置かれた場所できちんと慎ましやかに、でも愛をもって生きていくと いう小さな役割が神さまの大きな計画を支えているのです。」(大頭眞一『栄光への脱出 出エジプト記』より)「神を畏れる」とはそういうことであり、その ように生きることなのです。
 今の私たちは、どうでしょうか。今、別に私たちはこの信仰を持ち、その信仰に従って神を礼拝し、この信仰を伝えることにおいては、まだそれほどの不自由 や圧迫を感じていないかもしれません。それらの自由が、今も、また将来にわたって安泰だということは言えないと思いますが、でも今それほど差し迫った迫害 や困難はあまりありません。だからと言って、「ああ、私たちは『信教の自由』が保証されているからよかった」ということで済ませてしまっていいのだろう か。むしろ、今もあの時と同じように、あちこちで神が創り与えられた「いのち」が脅かされ、殺されようとしている、そんな状況があるのではないでしょう か。そのような中で、私たちはさらに積極的な自由を問われている、と教えられます。「そこで、あなたは神を畏れ、その信仰を他の何ものをも恐れずに生き、 表し、証ししようとしますか?」

 「あなたには、神を畏れる自由があるか」、そう問われるとき、私は気落ちせざるを得ません。なぜなら、私は真に畏れるべき方である神を畏れるよりも、恐 れに足りない人間や死を筆頭とするもろもろの力をこそ、いたずらに恐れてしまうような者だからであります。けれども、ここで私は、聖書が語るのは常に恵み であり「福音」である、ということをぜひとも申し上げたいと思うのです。
 聖書の中で、神さまが人間に呼びかけてくださる言葉の中で、最も印象深く、また頻繁なものは何でしょうか。それは、「恐れるな」であると確信します。神 は、私たち他の虚しく無力でしかないものどもを恐れずにいられない者たちのところに、繰り返し来て現れ、「恐れるな」と語ってくださる方なのです。神はど ういう方か、先ほど申し上げたこととの関連で言えば神とは「過ぎ去らない方」です。どんなに人間的なものが過ぎ去っても、神は過ぎ去ることなく常に愛と真 実をもって私たちを支え、導き、助けてくださる方です。。私たちには、神を畏れる信仰も自由もありません。なぜなら、私たちは神から離れて罪に身を委ねて しまった罪人であるからです。でも、そこに主なる神は来てくださる。恐れる私たちに向かって、いつも愛をもって「恐れるな」と呼びかけてくださる。そし て、ご自身は決して過ぎ去らず、かえって神以外のものこそどんなに強く見えるものもこの神のゆえに過ぎ去って行くのだと教え示してくださるのです。この神 が来てくださるとき、そうして神が近く共にいてくださるとき、何ものにもまさって力ある方としてご自身を与えてくださるとき、そのとき初めて私たちは悔い 改めて「神を畏れる」ことを学び始めるのです。「神の畏れ」は、神ご自身から来る!
 この助産婦たちは、常に身近に神さまを知り、味わい、その支え、助けを経験していたに違いありません。だからこそ、いざというときにこの神を畏れること を選ぶことができたのです。私たちも、私たちのところに来てくださる神、近く共にいてくださる神を知らされています。主イエス・キリストにおいて、まさに 神は私たちに来てくださいました。イエス様は、ご自身もまた罪や死と十字架に至るまで闘い、復活の勝利をお取りになって、私たちを罪と死の恐れから解放 し、神の子としてくださいました。真に「神を愛し、畏れる者」にしてくださったのです。「イエスは、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを 解放なさった」と、「ヘブル人への手紙」に言われております(2・15)。

 この神が、あの助産婦たちをいたずらな恐れから救い、真の神を畏れる信仰と自由を与えてくださいました。それは恵みです。
 神は、彼女たちに勇気と知恵を与えてくださいました。最高権力者の悪しき命令に従うよりも、神の正しい戒めに従う勇気と、問い責められたときにはそれに 立ち向かい、くぐり抜ける知恵をいただきました。エジプト王から「あなたがたはなぜ命令に従わないのか」と問われた時、彼女たちはこう答えることができた のです。「ヘブルの女はエジプトの女とは違い、彼女たちは健やかで助産婦が行く前に産んでしまいます。」イエス・キリストが言われた通りです。「彼らがあ なたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなた がたの中にあって語る父の霊である」(マタイ10・19〜20)
 また、神は二人に具体的な祝福と幸いをくださいました。20〜21節 神を畏れ従う者は、困難な道を歩まねばならないことがあります。しかし同時に、神はその道その人生を具体的・現実的に支え、助け、祝福してくださるのです。
 さらに、神は「二人の名前が天において覚えられる」という約束をも与えてくださっていると信じます。あまり目立たず、気づかれないことですが、ここでこ の二人の助産師の名前がきちんと記されていることは、実に驚くべきことです。この二人は、聖書の本筋から言うならそれほど重きを置かれないような人たちで すし、おまけに古代で軽んじられがちな女性ですし、おまけにエジプト人という「異邦人」であった可能性もあります。新約聖書冒頭のイエス・キリストの系図 でも、女性はたった4人しか記されてはいません。でも、この彼女たちの名前ははっきりと書かれています。「シフラとプア」。聖書において覚えられていると いうことは、天において、神の御前で覚えられ、忘れられない、ということでもあります。彼女たちの名は、来るべき「終わりの日」にも、神の前で呼ばれ、朽 ちることのない栄光に与ることでしょう。古人は申しました。「われわれは、神への畏れを抱くがゆえに、われわれに欠けているものは何もない。」この祝福、 それゆえの自由を、私共もまた与えられ、その道に生きるようにと恵みをもって招かれているのです。

(祈り)
すべてのものの造り主、御子イエス・キリストの父なる神様。
 力強い恵みと呼びかけを、感謝いたします。「恐れるな!わたしがあなたと共にいる。わたしの道を歩みなさい。」しかし、私共は不信仰ゆえに、罪ゆえに、 いたずらに「恐れる者」です。人間を恐れ、評判を恐れ、苦しみを恐れ、権力を恐れ、死を恐れます。でも、そんな私たちのところにあなた様は来てくださいま した。最後まで「共にいます神」としてご自身を示し、与えてくださいました。私たちには、そのお方、「勝利の君」イエス・キリストがいてくださいます。
 それゆえ、どうか、今から私たちが出て行く「この世」、今もなお死と罪と暴力が力を振るい、あなたが創られたいのちが脅かされているそのところにおい て、「神を畏れる者」としての自由を生き、その恵みを示し、語ることができますように、私たち一人一人また教会を、聖霊においてお遣わしください。
世の終わりまでわれらと共にある主イエス・キリストの力ある御名によって祈ります。アーメン。

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