ただ一人、主を待ち望む        エレミヤ書第14章17〜22節

 「主を待ち望む」というテーマで、共に御言葉を聞いています。
 今日の箇所で、預言者エレミヤが「主を待ち望む」という告白と祈りをしています。22「われわれの待ち望むのはあなたです。」前にもお話ししましたが、 「主を待ち望む」ことは、「きれいな、美しい状況」や「いさぎよい、きっぱりとした思いや姿勢」で行われるのではありません。預言者エレミヤは、激しく泣 いているのです。日本語に「滂沱」という言葉があります。これは「なみだが、あとからあとから流れるようす」を表わす言葉です。(『三省堂国語辞典第四 版』による。)それを用いて言うなら、エレミヤは滂沱として泣いているのです。
 今日の17節から、神の命令がエレミヤに臨みます。「この言葉を彼らに語れ、『わたしの目は夜も昼も絶えず涙を流す。わが民の娘であるおとめが大きな傷 と 重い打撃によって滅ぼされるからである。わたしが出て畑に行くと、つるぎで殺された者がある。町にはいると、ききんで病んでいる者がある。預言者も祭 司も共にその地にさまよって、知るところがない』。」実際に戦争が起こり、飢饉や疫病によって、おびただしい数の人々が、苦しみと嘆きのうちに死んで行き ました。
 「わたしの目は夜も昼も絶えず涙を流す。」これは、神の言葉であると同時に、エレミヤ自身の言葉です。預言者エレミヤは、神と全く一つになり、神と全く 同じ思いとなり、神と一体化しているのです。エレミヤは、神の言葉を預かり民に語る預言者として、主なる神の思いを受け止め、自分と一体化するまでに自分 の中に受け入れて、それを語り告げます。神御自身がイスラエルの民の罪を嘆き悲しんで、涙を流しておられるのです。
 しかし同時に、これは専らエレミヤ自身の涙です。「神は悲しんでおられる」とは言え、神はまた怒りの中にもおられるのです。イスラエルに対して、決して 撤回されない神の怒りと裁きとが告げられます。次の15章の最初の所で、神は言われます。「たといモーセとサムエルとがわたしの前に立っても、わたしの心 はこの民を顧みない。」これはまた、たいそうに驚くべき、そして恐るべき神の覚悟です。「モーセとサムエル」と言えば、旧約聖書では「三大偉人」の内の二 人と言っても良いくらいの大変立派な指導者でした。「たとえその二人がイスラエルのためにとりなし祈ったとしても、私は彼らイスラエルの民を決して赦さな い」と言っておられるわけです。
 イスラエルの罪は、それほどまでに根深く、深刻に根を張り、拡大し、積み重なって、もうどうしようもない、手の施しようもないほどになってしまってい る。神も、それをもう怒り、見捨て、滅ぼすよりほかはないまでになっておられる。このことを激しく悲しみ、嘆いてやまないエレミヤがいるのです。

 そこで、19節からの祈り、嘆き、訴えへと入って行くことになるのです。「あなたはまったくユダを捨てられたのですか。あなたの心はシオンをきらわれる のですか。あなたはわれわれを撃ったのに、どうしていやしてはくださらないのですか。われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。いやされる時を望ん だが、かえって恐怖が来た。」各部分に見出しをつけている聖書では、ここには「民の嘆き」という見出しが付けられています。でも私は、これは何より「エレ ミヤの嘆き」だと思います。預言者エレミヤは、イスラエルの民と連帯している、いや、本当はそうではなく、エレミヤただ一人がここで祈っているのです。本 来これは、イスラエルの人々自身が祈るべき祈りでした。しかし、民は誰一人としてこの祈りを祈らない。もしだれかこれを祈る者があったとしたら、イスラエ ルの罪と咎、その裁きと罰は、ここまでにはならなかったでしょう。しかし本当は、だれも祈らない。だからこそ今、エレミヤはただ一人祈るのです。エレミヤ ただ一人、民と連帯し、人々に代わって、神に向かって嘆き、訴え、祈り、そしてただ一人「主を待ち望む」のです。「われわれの待ち望むのはあなたです。」
 イスラエルの民が待ち望んだものは、全く別のものどもでした。経済的富、政治的・軍事的成功、自分や周りの人たちだけの安楽と平安、それらを約束してく れると思っている、偽りの神々や強大な外国の助け。そのイスラエルに代わって、今エレミヤはただ一人、神に祈るのです。まず彼は自らの罪、自分たちの罪を 認め、告白します。「主よ、われわれは自分の悪と、先祖のとがを認めています。われわれはあなたに罪を犯しました。」(20)これこそ、イスラエルが自分 からは決して認められず、自分からは決して祈ることのできなかった言葉なのです。この言葉を、今エレミヤがただ一人主の御前に告白し、祈っているのです。
 そしてまたエレミヤは、主なる神が、民の罪そのものではなく、神御自身がイスラエルに対して結んでくださった「契約」、約束にこそ思いを向け、それを神 御自身の真実をもって守ってくださるようにと懇願します。「み名のために、われわれを捨てないでください。あなたの栄えあるみ位をはずかしめないでくださ い。あなたがわれわれにお立てになった契約を覚えて、それを破らないでください。」(21)「神様、あなたはイスラエルを愛すると固く約束してくださった ではありませんか。できの悪い者をこそ愛するのが、愛ではありませんか。イスラエルを、彼ら自身の善悪によってではなく、ただあなたの愛と真実、その誠実 な約束に基づいて愛し、赦し、生かしてはくださいませんか。」
 さらにエレミヤは、主なる神ご自身を告白し、この主への信仰と信頼、そして期待と希望をこそ告白するのです。「異邦の偽りの神々のうちに、雨を降らせう る者があるであろうか。天が自分で夕立を降らすことができようか。われわれの神、主よ、あなたこそ、これをなさる方ではありませんか。」「主なる神よ、あ なたこそ神、あなたこそ主です。あなたのほかに、神はおられません。」そしてエレミヤは、ただ一人、民に代わって「主を待ち望む」のです。「われわれの待 ち望むのはあなたです。あなたがこれらすべてのことをなさるからです。」
 神からの答えの保証はありません。神様の今の思いとお考えは、先ほど見た通りです。「たとえモーセとサムエルが祈っても、わたしは聞かない。」むしろ、 こうだというのです。「主はこう仰せられる。疫病に定められた者は疫病に、つるぎに定められ者はつるぎに、ききんに定められた者はききんに、とりこに定め られた者はとりこに行く。」(15・2)しかし、そのような望みなき状況で、エレミヤはなお、ただ一人祈り、ただ一人希望し、ただ一人待ち望むのです。 「われわれの待ち望むのはあなたです。」

 ここで私たちは、もう一人の方のことを思い出さずにはいられません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。イエスもまた、いえ、イエスこそ、た だ一人、私たちに代わって神の前に立ち、ただ一人祈り、ただ一人神を待ち望んでくださったのです。私たちのだれも、だれ一人として、真に神を待ち望みませ んでした。かつて預言者が語った通りです。「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で 水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。」(エレミヤ2・13)しかし、イエス・キリストこそは、そんな私たち のために、私たちに代わって、ただ一人神に求め、神に訴え、神を待ち望んでくださったのです。
 エレミヤのただ一人の祈り、ただ一人の待ち望みは、人の知らないところでイスラエルを支え、イスラエルを守り、イスラエルのための神の救いの言葉を引き 出して行ったと、信じます。「主なる神はやがて新しい契約を立てられます。―――神のこの契約は、エレミヤが神の愛を知っていたからこそ預言できたもので したが、それと同時に、敢えて申せば、エレミヤがその神から勝ち取ったとも言えるものでございます。」(磯部隆『エレミヤの生涯』より)まして、私たちす べての者のために来られたイエス・キリストの、そのただ一人の祈りと待ち望みは、私たちに、真に神に立ち帰る道を開き、罪に生きていた私たちが神のものと して新たに生きる救いを与え、神と共に、また神が出会わせてくださった隣人と共に生きる力を与えるものとなったのです。

 今や、その私たちはどう生きるべきでしょうか。ある方は言います。「イエス・キリストは、代理の役割を果たしてくださった。私たちのために、私たちに代 わって、ただ一人神の前に、神と共に、人を愛して生きてくださった。」この「代理」ということは、「仲保者」「仲立ち」と言い換えてもいいでしょう。「私 たちは、その『キリストの形』を取るように導かれ、『キリストと同じ形』を取る者とされて行く。」(ボンヘッファー『現代キリスト教倫理』による。)それ はちょうど、あのエレミヤが、イスラエルの民がだれ一人神に祈らず、神を待ち望まない中で、ただ一人、民のために、民に代わって神に嘆き、祈り、悔い改 め、神を待ち望んで行った、そんな生き方に続き、ならうものです。
 ある教会の自分たちの信仰と使命についての告白・宣言です。「神はわたしのためにひとり子を十字架につけられた。」これを言い換えて、私たちはこう言え るでしょう。「神のひとり子イエス・キリストは、わたしのために十字架につけられた。そのようにしてイエスは、わたしのためにただ一人祈り、ただ一人神を 待ち望んでくださった。」告白は続きます。「それほどまでに、わたしは神に愛されている。神は同様にわたしの隣人を愛しておられる。」それは「敵」と呼ば れる人々を含むまでの広がりと深さを持っている愛です。「すべての人は神によって愛され、赦され、招かれた神の家族である。私たちは神の家族になる。家族 の命を脅かすすべての事柄に対して私たちは抵抗する。すべての家族が神の前に平和であるために、教会は働く。」(ユーチューブ・チャンネル「東八幡教会ー 星の下ー」による。)私たち一人一人と教会もまた、そのように生かされ、生きて行きたいと切に祈り、願います。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
 主よ、あなたはエレミヤを預言者として召し、立てられたました。彼はあなたの思いを受け止め、あなたと一つとなって民に語りました。またエレミヤは、イ スラエルの民と一つとなって連帯し、彼らがだれも祈らず、だれも神を待ち望まない中で、ただ一人、彼らのために、彼らに代わって祈り、主を待ち望みまし た。
 主よ、そしてあなたはついにすべての人のために、イエス・キリストを遣わされました。イエスこそ、私たちすべての者のために、私たちすべてに代わって、 ただ一人、神の前に生き、神と共に生き、人を愛して生きられました。このイエスの生涯、十字架と復活に至ったその生涯によって、私たちはあなたのもとに立 ち帰り、あなたのものとして、あなたと共に生きるようにされました。
 どうか今、このイエスと共に、私たち一人一人また教会も生きることを選び、生きることを学び、生きることを始められますように。そして同時に、神が愛し イエスが愛したもうすべての人を愛して、その一人のために私もまた立ち、生き、働き、共に歩むことを教え、導いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る