主を待ち望む者は新たな力を得る        イザヤ書第40章21〜31節

  聖書の多くの箇所には、キーワードがあります。そしてそれらの箇所には、そのキーワードと対になるようにして、「裏ワード」「裏テーマ」があります。例え ば、「ヨハネによる福音書」第4章で、イエス・キリストは語られます。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与 える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ここでのキーワードは「水」であり、それによって表されるテーマ は「命」です。そして、これに対応するようにして、ここの「裏テーマ」は「渇き」です。肉体の「渇き」、精神の「渇き」、生きることについての「渇き」、 そして信仰への「渇き」。「渇き」があるからこそ、「水」「命」を求めるのです。そして、イエス・キリストはそれを与えてくださるのです。

 それで言うなら、今日のこの「イザヤ書」の箇所での「裏ワード」「裏テーマ」は、何でしょうか。それは、「疲れ」です。イスラエルの民は「疲れて」いた のです。彼らはひどく「疲れて」、苦しんでいたのです。それは、どんな「疲れ」であったのでしょうか。人は、どんなことによって、何によって「疲れる」の でしょうか。
 それは、まず何より肉体的・物理的、そして社会的「疲れ」です。当時イスラエルの民は、バビロン捕囚のさ中にありました。自分たちの国が滅ぼされ、多く の人々が遠い外国バビロンに連れて行かれ、囚われの身とされていたのです。そのバビロン捕囚下の、鎖の下での生活、その不自由と苦役、それは想像を超える 苦しみ、そして「疲れ」であったに違いありません。残酷な他者の支配の下で生きるということ、彼らによって自由を奪われ、不本意な作業、したくもない行 動、自分ではいやな生き方をさせられているということ、それ自体が苦しみです。たとえ何もしなくても、たとえ迫害や拷問などがなかったとしても、そのよう な支配下で生きているということ自体が苦痛です。そういう生き方は、少しずつ、知らず知らずのうちにも、体とそれによる生活を蝕み、やがてひどい「疲 れ」、深刻な「疲れ」をもたらして行きます。
 このようなイスラエルの苦しみ、その「疲れ」を想像することは、私たちにはなかなか困難であるかもしれません。でも、そんな古代の何千年前の話ではな く、それは、けっこう私たちに近いところでも起こっていたのではないでしょうか。そして、今でも起こっていることではないでしょうか。例えば、それは、先 の太平洋戦争終了まで、日本によって植民地支配を受けていた朝鮮の人々の中にもあった苦しみ、「疲れ」ではなかったでしょうか。「虐殺者(注 殺された人 の意)が6000余名に達する中、最も酷い刑罰を受けたのはキリスト教徒でした。牧師、長老および一般の指導者は、ほとんどが捕らえられ、運よく逃れた者 は山野に伏せ、暗闇に隠れました。放火された教会堂は199ヵ所を超えました。日曜日に男女の信徒が通りで号哭しながら天を見上げて祈っていると、日本兵 に逮捕され、ひどい目に遭います。あるいは、山中に隠れて礼拝する教職者の住まいは、放火されるのでなければ打ち壊され、眠る場所はどこにもないようにさ れます。男は十字架を背負わされて、道の上を走るように強要され、さらには『十字架を背負おうとしたものは出てこい』といわれ、ひどい鞭打ち刑を加えられ ます。女は取り調べの場において全裸にされ、無数の辱めを受けるその様子は到底語ることができせん。」(在日本韓国YMCA編『未完の独立宣言』より)
 そんな中で生きることを続けさせられていると、人は精神的に「疲れ」、生きることに「疲れて」行ってしまいます。この先どうなるのか、希望が持てないの です。「心の疲れとは、希望を失うことであります。もはや歩けないと感じる。歩き続ける気力を失ってしまうことです。―――『若者も倦み、疲れ、勇士もつ まずき倒れる』。」(片山寛『風は思いのままに』より)周りには強大なバビロンの力があります。その中には、文化的な力、精神的な力もあります。バビロン においては、「この世を支配しているのは、バビロンの神々、とりわけ太陽や月や星など、天体の神々だ」という信仰がなされ、それが大々的に宣伝をされてい ました。そんな中で生きるうちに、イスラエルの人たちは無力感を味わい、やる気をなくし、生きる力を失って行ったのでした。
 さらに、最後にイスラエルを襲ったのは、信仰的「疲れ」でした。主なる神への根深い疑いと不信が起こってきたのです。「わが道は主に隠れている」。「わ が訴えはわが神にかえりみられない」。神を信じることができなくなってしまったのです。そうすると、もう人は、到底生きることはできません。命と生きる力 の根源である方を疑い、信じないのですから、もう神のみが与え注ぐことができる「善き力」を受け取り、いただくことはできなくなるのです。

 そんな「疲れ」、究極的な「疲れ」、どん底の「疲れ」に陥ってしまっているイスラエルに対して、今一人の預言者が立てられ、語るのです。預言者は、そん な「疲れ」に落ちた人々だからこそ、彼らに向けて「主を待ち望む」ことを語り、勧め、促し、呼びかけ、招くのです。27〜29「―――あなたは知らなかっ たか、あなたは聞かなかったか。主とこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与 え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」預言者は、まずバビロンの天体信仰に挑戦し、創造者なる神を示し、証しします。21〜24「あなたがたは知 らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。―――主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。―――また、もろもろのつかさたち をなき者とせられ、地のつかさたちをむなしくされる。―――」今絶大な権力を振るっているように見えるバビロンや他の国々の支配者たちも、主なる神の前で は「いなご」のようなものにすぎない。25〜26「―――目を高くあげて、だれがこれらのものを創造したかを見よ。主は数を調べて万軍をひきいだし、おの おのをその名で呼ばれる。―――」「万軍」とは、さまざまな天体のことです。バビロンで「神々」と崇められている天体も、所詮ものにすぎない、神が創造さ れ、神の御心と御業に仕えるための物体にすぎない。
 そして預言者は、大いなる約束を告げます。31「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れる ことなく、歩いても弱ることはない。」「待ち望む」という言葉の、語源は「ものをつかもうとして、体をよじる」ことにあるそうです。そこから、「熱心に期 待する」「待つ」「待ち続ける」という意味が生まれました。この主なる神に対して、何も持たない者として、全く無力な者として、「疲れ、弱る」ほかはない 者たちとして、この神に熱心に期待し、この神をこそ待ち、待ち続けなさい。そうすればあなたがたは、あの天高く飛び、大空を駆け巡る「わしのように翼を はって、のぼることができる」。この神こそは、「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」「新たなる力」、私たちのまったく知らなかった力、全 く知らない力を与えてくださるのだ。

 あのような過酷で残忍な支配の下で、朝鮮の人々、その中でも一部のキリスト者たちは、この主なる神を待ち望み、その信仰による歩みを全うして行ったと聞 きました。また、大多数の日本人は、朝鮮の人々のことを全く思いやることができませんでしたが、ごく少数の人々は彼らと「待ち望み」の信仰を共にしまし た。今日はその中から、柏木義円という人をご紹介したいと思います。彼は、長らく群馬県にある安中教会の牧師を務めました。柏木は、『上毛教会月報』とい う文書を定期的に出していましたが、支配下にある朝鮮を訪れた後その植民地政策を批判しつつ、そのこのように書き記して行ったということです。「われわれ は無戦世界の実現を望み、軍国主義の廃滅を期す」。「このことはーーー圧倒的少数者であることに躊躇することなく、『キリストに在る真実』を求める者の確 信であり、抵抗への強烈な意思の表明だということができる。」(前掲書より)柏木の刊行物は、何度も押収や発禁をこうむり、最後は廃刊にまで至りました。 でも柏木義円は、何度でも「わしのように」高く舞い上がり、その歩みを貫いて行ったのだと言います。「柏木義円の思想は、徹底して弱さの上に立つ思想であ る。―――言論、思想、信仰の自由を掲げ、人間の尊厳を追求した柏木は、家族との生活において、教会員との交わりにおいて、地域の人々とのかかわりにおい て、人間とは何かを問いつづけた。家族関係の中で葛藤し苦悶した柏木は、自分の人間としての根源的な弱さ愚かさを思い知らされた。―――柏木は、人間の本 質は煩悶、苦悩のうちにあらわされると確信した。」(片野真佐子『孤噴のひと柏木義円』より)弱く、「疲れ」、苦しんでいるからこそ、「主を待ち望む」の です。そして、「主を待ち望む者は新たなる力を得る」のです。

 「主を待ち望む」ことは、復活の神への信仰、また希望です。私たちの「疲れ」のうち、ついに「回復しない疲れ」があります。それは「死」です。しかし、 イエス・キリストにおいて神は、その「死」をすら克服し、勝利されました。それは、イエスの十字架にぶち当たってつまずき倒れてしまった弟子たちが、復活 のイエス・キリストと出会った経験です。それは、使徒パウロがこのように語った信仰です。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測 り知れない力は神のものであって、わたしたちから出てものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にく れても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身 に現れるためである。」(Uコリント4・7〜10)
 正直、私たちもまた「疲れて」いると思います。かなり、そしてひどく。「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」、それはまさに私たち の現実です。「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはってのぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはな い。」この約束と希望、また信仰と愛の生き方・道へと、私たちもまた呼びかけられ、招かれ、促されているのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
 激しい「疲れ」、極度の「疲れ」の中に囚われていたイスラエルに、あなたは「主を待ち望め」と呼びかけてくださいました。また「何もかも失った」と思 い、逃げ隠れていた弟子たちの前に、復活の主イエス・キリストは現われ、「安かれ」と語ってくださいました。「疲れ」と弱さの中から「主を待ち望む」、こ こにこそ約束と希望、そして生き、愛する力があると語ってくださいました。
 どうか、私たちもまたひどく「疲れる」者たちでありますが、ここにもまた「主を待ち望め」と、あなたが呼びかけてください。そして私たちもまた、あなた の呼びかけに答えて信仰の道、希望の歩み、愛の生き方へと、一歩を踏み出して行けますよう助け、お導きください。そのような一人一人、また教会とならせて ください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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