主を待ち望み、その道を守れ 詩篇第37篇1〜11、34節
「主を待ち望む」というテーマで、共に御言葉を聞いています。
これは、「主を待ち望む詩篇」と言っても良いのではないでしょうか。今日読んだ中に、三度も、「主を待ち望め」という呼びかけがなされ、あるいは、「主
を待ち望む」ことについて語られ、教えられます。7節「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」9節「悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国
を継ぐからである。」そして34節。「主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主をあなたを上げて、国を継がせられる。」
そういうわけで、今日はここから、「主を待ち望む」とは何か、それはどういう信仰なのか、どういう生き方、道なのかについて、共に聞いて行きたいと思います。
「主を待ち望む」こと、それはどこで、どんな状況でなされるのでしょうか。それは、この詩篇によれば、「悪をなす者」「不義を行う者」がいる、という状
況です。「悪をなし、不義を行う者」、それはどういう人たちでしょうか。また、「悪」「不義」とは、どういうことなのでしょうか。
聖書においてそれは、主に二つの意味と側面を持っています。一つは、信仰的・宗教的な悪と不義です。つまり、「主なる神を信じない」ことです。それは、
何か一つの宗教を信じるか・信じないかという問題や次元ではなく、神がいないかのように振る舞い、生きるということです。神ではなく、力ある人間がこの世
を支配しているのであり、いろいろな力を持っている人間たちは、自分の好きなように、思うがままに生きてよいのだと考えて、行動し生きることです。また人
は、神に頼って生きるのではなく、人間の力、自分の力だけを支え・頼りにして生きるべきだという考え方のことです。この詩篇では、たとえば7節の、「おの
が道を歩んで栄える者のゆえに」というのがそれにあたります。「おのが道」、つまり自分の道を、自分の考えで、自分の力によって生きている人たちのことで
す。これは、私たちから縁遠いことではなく、現代ではむしろ「普通」の生き方です。私がよく大変気になる言葉があります。主にスポーツ選手の方たちの言葉
によく出てきますが、「自分だけを信じてやって来た」という言葉です。これが、聖書ではまさに「悪」「不義」とされるのです。
「悪」「不義」のもう一つの意味・側面は、社会的・倫理的な意味での「悪」「不義」です。これは、第一の側面と強く結びつき、関連しています。人は自分
の力で、自分の好きなように、自分の思うままに生きて良いのだから、他の人のこと、特に社会で弱く貧しくされ、苦しめられ、乏しさを覚えている人たちのこ
となどは、別に考えなくてもよい、助けなくてもよいと考え、それによって行動し、生きる生き方です。この詩篇では、14節に「悪しき者は、つるぎを抜き、
弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し」とあります。またこれは、単なる個人の生き方に留まらず、そういう人たちが多数集まって行動し、生きることに
よって、そういう内容の社会を形作って行ってしまう、そういうことをも意味しています。この一つの、現代における現われが、「自己責任論」だと思います。
「すべては自己責任なのだから、自分の力で、自分の自由で行動し、生きた結果、そうなっているのだから、困っている人、苦しんでいる人がいても、特に助け
なくてもいいのだ。」それは実は、助けないこと、支えないことを、自分で根拠づけ、正当化するための論なのです。信仰的・宗教的悪と、社会的・倫理的不
義、この二つが聖書では批判され、具体的には預言者たちがこれらの悪とその悪を行う人たち、その生き方を批判し、訴えて行ったのでした。
そういう「悪」がはびこり「不義」が行われている世の中、社会、世界にあって、「主を待ち望む」ことが勧められ、命じられ、呼びかけられているのです。
「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」では、この詩篇から聞き、教えられる「主を待ち望む」とは、どういうことでしょうか。
それは、まず何より、「主なる神に信頼し、ゆだねること」です。神ご自身を「待つ」のです。神ご自身が立ち上がり、行動し、御業を行ってくださることを
待ち、期待し、願い続けるのです。神様の、特に「何」を待ち、期待するのでしょうか。それは、神の裁きと救いを「待ち望む」のです。5〜6節に、「あなた
の道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる」とありま
す。また、この詩篇のあちこちには、そのような「悪しき者」「不義を行う者」たちに対して、主なる神が最終的に裁きを下し、その悪を滅ぼし、その不義を克
服してくださることが、繰り返し語られています。「しかし主は悪しき者を笑われる。彼の日の来るのを見られるからである。」(13節)「あなたは悪しき者
の断ち滅ぼされるのを見るであろう。」(34節)そのような神、主なる神が確かにおられるのだから、この神を信じ、この神に委ね、この神に期待をして待
ち、待ち続けなさいと語られているのです。
「主を待ち望む」こと、それはまた、「怒りをやめ、憤りを捨て、心を悩まさない」ことです。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえ
に、ねたみを起すな。」(1節)「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」(8節)もし人が、こうした「悪」と「不
義」を行う人たちが多数を占める社会で、それでも神を信じ、聖書を読み、それに従って生きようとするなら、私たちはまさに「心を悩まし、怒りと憤りを抱い
て」生きることになるでしょう。ここであえて言わせていただくならば、逆にそういう感情や思いを持たないと言うならば、それは本当に神を信じ、聖書に従っ
て生きようとしているのかと、問われることにもなるのではないでしょうか。世の中に悪や不正や偽りが行われ、それによって数多くの苦しむ人、貧しい人、弱
くされている人がいるのに、「別に、何とも思わない」、それは本当に神を信じ、神に従おうとする生き方なのか。神を信じるならば、この社会に「生きにく
さ」「息苦しさ」を感じるはずではないのか。
そういう悩み、苦しみが私たちにもあるという前提でお話を続けさせていただきますが、そういう悩み、苦しみを持っている人たちに対して、この詩篇は告げ
るのです。「心を悩ますな、怒りをやめ、憤りを捨てよ」。否定的感情と生き方とに、揺り動かされるな、身をゆだねるなというのです。なぜなら、そういう否
定的な感情と生き方からは、それは無理もないかもしれないけれども、でもそこからは、何も良いもの、良いことが生まれないからです。
そうではなくて、「主を待ち望む」とは、主を信じ、主に期待し、主を待ち、待ち続けながら、「善を行い、主の道を守り、喜びの業をし、それに励む」こと
だと、詩篇は語り教えるのです。「主に信頼して善を行え。そうすれば、あなたはこの国に住んで、安きを得る。」(3節)「主によって喜びをなせ。主はあな
たの心の願いをかなえられる。」(4節)「主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の断ち滅ぼ
されるのを見るであろう。」(34節)「喜びの業」とは、他の人の喜びです。困っている人、苦しんでいる人が助けられ、生かされて、喜ぶ、そういう業をし
なさい。「正しい人は寛大で、施し与える」(21節)、「正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る」(26節)とあります。「その道を
守れ」、「主の道を守れ」とは、まさにそういう生き方をしなさい、そういう道を選択し、そういう道を歩きなさい、それが「主が願われ、求められる道」なの
だというのです。それは、ある意味で苦難の道、試練の道、十字架の道であるかもしれないが、そこには常に主の祝福があり、助けがあり、導きがあると、聖書
は約束しているのです。
さて、ここまで聞いてきて、疑問が沸きました。「それは本当か、それは果たして本当だろうか?」今、期せずして教会の聖書日課で「ヨブ記」を読んでいま
す。そこで主人公ヨブは疑問を神にぶつけるのです。「そうは言うけれど、悪しき者たちが富み栄え、正しい者たちが貧しくなり苦しんでいるのが、この世の実
際の姿、あり方ではありませんか。」それは、私たちもけっこう強く切実に感じているところではないでしょうか。でも、それを言えば、この詩篇37篇もま
た、ある意味で大変現実的に物事と社会を見ているとも言えるのです。35節には、「わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを
見た」とあります。「レバノンの香柏」というのは、日本で言うと「ヒノキ」のことです。「ヒノキ科の常緑高木。―――高さ三〇〜四〇メートル、径一〜二
メートルに達する。」(『精選版
日本国語大辞典』による。)ものすごい威容を誇る大木なわけです。この詩人もまた、「悪人」がそれほどに栄え、誇っている姿を実際に見ているわけです。そ
んな中で、この詩篇が教える「主を待ち望め」との教えは、本当か。
普通の意味では、それに対する満足な答えは得られないかもしれません。でも私は、ここで、この詩篇の中の一節を、新たな意味付けと力とをもって語られた
方のことを思い出さずにはいられないのです。それは、イエス・キリストです。11節に、「しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しむことができる」と
ありますが、まさにイエス・キリストが、これと同じことを、全く新しく、「山上の説教」の冒頭で語られました。「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは
地を受けつぐであろう。」(マタイ5・5)
「柔和な人」、それはイエスです。主は「柔和に」、力・暴力・権力によらず、非暴力によって、対話によって、愛によってこの世に訴え、この世の罪のあり
方とそこに生きる人々の生き方とを変えようとなさった方でした。今、イエス・キリストは言われます。「柔和な人たちは、さいわいである。」「本当かな」
と、やっぱり思います。そう言っておられたイエス様ご自身が、最後はとうとう十字架につけられ、殺されてしまったではないか。最も無力な仕方で、すべての
ものを奪い取られ、自分がいるための一点の場所さえも奪われて十字架の上に上げられ、最も屈辱的で、最も悲惨な仕方で死んでしまわれたではないか。しか
し、「天地は滅びるであろう、しかしわたしの言葉は滅びることがない」のです。「柔和な人たちは、さいわいである。その人たちは、地を受け継ぐ」のです。
十字架の死から三日目の朝、驚くべき逆転の業が起こされました。あのイエスが、無力と絶望のうちに十字架につけられて死んだイエスが、神によって起こさ
れ、引き上げられ、勝利のうちに復活させられたのです。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた。」本当です、「柔和な人々
は幸い、彼らは地を受け継ぐ」のです。このお方イエス・キリストが、今私たちにも宣言し、約束し、この祝福を与えてくださるのです。「柔和な人たちは、さ
いわいである。彼らは地を受けつぐであろう。」
今このお方イエス・キリストが、この詩篇を私たちのためにも語り聞かせてくださいます。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ね
たみを起すな。」「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。」「主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。」こ
の主の呼びかけと招きに、私たちも答えて、共に生きて行きたいと切に祈り、願います。
(祈り)
私たちすべての者の主なる神、御子イエス・キリストを死の中から呼び起こし、復活させられた神よ。
悪が行われ、不義がはびこる世にあって、詩人は「主を待ち望め」と信じ、生き、教えました。何より私たちの主イエス・キリストこそが、「柔和な者はさい
わい」と語って、「主を待ち望む」その生き方を、御自身が示し、行い、生きられ、十字架に至るまで生き抜かれました。このお方の復活と勝利を知らされ、信
じる私たちもまた、「主を待ち望む」というこの道にこそ、祝福と助けと導きがあり、最後の勝利と栄光が約束されていることを知っています。
どうか、私たちもまた「悪しき道」と「不義」の生き方を捨てて、このお方の道と歩みに従い行くことができる信仰と、それに基づく希望の生き方、また愛の行いと生き方とをお与えください。そのような教会、また一人一人として歩めますよう、あなたが助け、導いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。