主を待ち望むよりほかはない         創世記第49章1〜18節
          

 今年度の私たち四日市教会の主題である、「善き力に囲まれつつ、来たるべき日を待とう」の第三の部分から、「主を待ち望む」ことをテーマとして、今週から共に御言葉を聴いてまいりましょう。

 今日取り上げるのは、「謎の言葉」です。18節「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」前々から、ここは「不思議だ、謎だ」とひそかに思っていて、いつかは取り上げたいと願っていました。ここのどこが、どう「不思議」で「謎」なのでしょうか。
 まず、この創世記49章の背景、状況、文脈から見て行きたいと思います。族長ヤコブという人をご存知でしょうか。アブラハムの孫、イサクの息子です。旧 約の神の民イスラエルの、いわば「いしずえ」を築いた人で、その別名「イスラエル」がそのまま民の名前になっているくらいです。このヤコブが、自分の死を 前にして、12人の息子たちを呼び寄せます。この「12人」が、「イスラエル12部族」の先祖ということになっています。「ヤコブはその子らを呼んで言っ た、『集まりなさい。後の日に、あなたがたの上に起ることを告げましょう。』」この12人の息子たち、一人一人それぞれに向けて「祝福の言葉」を語り告げ るというのが、この49章の文脈であり内容です。ですから、兄弟の上から順番に、「だれだれよ、何々、だれだれは何々」という風に続いて行きます。
 ところが、その途中に、いきなり、唐突に、何の脈絡もなく、この18節の言葉が出てくるのです。「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」これは、いったいどういうわけでしょうか。
 そして、それを言うなら、この49章自体が不思議です。これらのヤコブの言葉は、「祝福」と言われています。28節にこうあります。「これは彼らの父が 彼らに語り、彼らを祝福したもので、彼は祝福すべきところに従って、彼らおのおのを祝福した。」ところが、その語られた内容を見ますと、これが全然「祝 福」ではないように思えるのです。例えば、最年長の長男ルベンを見ますと、彼は父の妻と関係を持ったことを責められ、当時家族内で長男が持っていた「長子 の特権」を剥奪されているように見えます。「ルベンよ、あなたはわが長子、わが勢い、わが力のはじめ―――しかし―――もはや、すぐれた者ではありえな い。」その次の息子たち、シメオンとレビについては、かつて彼らが行った近隣の民への暴力行為を責められ、しまいには「祝福」どころか、「呪われて」さえ いるように見えます。「彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエ ルのうちに散らそう。」この予告に沿うかのように、これら三部族は、神の約束の土地をほとんど与えられることなく、次第に消滅して行く者もあったというこ とです。また、それに対して、ユダやヨセフは「祝福されて」いますが、私たちは、彼らにも「罪がなかった」わけではなかったことを知っています。いった い、どういうことなのでしょうか。

 この章だけでなく、ここに至る創世記から、ヤコブとその家族の歩みを知るときに、ヤコブの家族は「崩壊状態」であったと言うこともできるのではないか、 と思いました。ヤコブ自身の性格や行動、生き方の問題は大いにありましたが、それはさておき、彼と息子たちとの関わりについて絞っても、極めて多くの問題 がありました。
 そのそもの始まりは、父ヤコブが当時の末息子ヨセフに対して行った偏愛、えこひいきの問題がありました。これがために、他の上の兄弟たちの妬み、憎し み、敵意が起こりました。彼らはついにヨセフに暴力をふるい、彼を見捨て、奴隷商人に売り飛ばしてしまうことになるのです。これが始まりとなってヨセフは エジプトに行き、そこで数奇な道をたどって大臣にまでなり、それが父や家族の危機を救うことにもなるのですが、ただ一方で、息子同士が憎み合い、分裂に 至ったという事実は隠しようもありません。今は飢饉からも救われ、再会し、一応関係も復帰し回復したとは言え、傷跡やしこりは残り続けています。それだけ でなく、先ほど述べたような、さまざまな不祥事、罪、悪が、ヤコブの家族の中には起こりました。その意味で、彼の家族は「崩壊状態」にあったと言うことが できるのではないでしょうか。
 ある方は、それはヤコブのところだけではないと言います。「家族とは、神が創造したこの地上で最も尊い器かもしれない。けれども、家族はこの地上でいち ばん壊れやすく、互いに傷つけ合ってしまう最も儚い器でもあるのだ。聖書に出てくる家族も問題だらけだ。アダムとイヴの家族、ノアの方舟家族など、家庭内 殺人、険悪な夫婦関係、裏切り、近親相姦等々、まさにカオス状態だ。聖書は目を伏せたくなるような人間世界の現実を書き記している。」(関野和寛『きれい 事じゃないんだ、聖書の言葉は』より)
 ヤコブは、生涯の最後に、息子たちのこと、今までの家族の歩みを振り返って、やるせなく、悲しく、虚しくなり、どうしようもなくなって、思わずこう叫んで言ったのではないでしょうか。「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」

 「待ち望む」、好きな言葉です。でも、実は決して「かっこいい」ことではないのです。「待ち望む」という言葉は、語感がとてもいいです。何と言うか、 「澄み切って、迷いもなく、ただひたすらに、まっすぐに神に向かい、神を待つ」というような、「かっこいい」語感があるのです。でも本当は、そんな「かっ こいい」「見事な」ことではないのです。
 「待ち望む」とは、どうしようもなくなって語る言葉であり、もうどうにもならなくなってする生き方なのです。まさに「きれい事」ではないのです。人間で は、もう万策尽きた。自分からは、もはや何もできない。もう自分たちには何の力も、道も、希望もない。その時に、思わず、叫ぶように、訴えるように、口を ついて出て来る言葉がこれなのです。「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」ただ神に、その救いに、その力、愛に、もはや期待するほかはない。自分に は、自分たちには、何か神に求め、受け取る資格もない。ただ神に委ね、期待して、受動的にただ神と神のなさることを待つよりほかはない。そういう言葉とし て、これはあるのです。「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」
 思えば、あの私たちの今年度の標語のもととなった、ディートリヒ・ボンヘッファーとその生涯を振り返るときにも、同じように感じさせられます。「善き力 に守られつつ、来たるべき日を待とう」。ボンヘッファーは、どのような状況で、どんな思いでこの言葉を書き記したのでしょうか。圧倒的な力で支配するナチ スの国家と権力、それによって動かされて行く大多数の国民、その中で行われる偽りと不正と悪の数々の行為。それに反対し、それに抗議し、抵抗して生きて行 くこと、生きて来たことの大変さ、その苦しみ。その挙句にこうして捕らえられて、自由と数多くのものを奪われ、無力とされて、いつ死が暴力的に襲ってきて もおかしくはない毎日。そんな中で、ボンヘッファーには、もう何一つ自分から何かを始めたり、行ったりする力は残っていませんでした。でも、いや、だから こそ、彼は「主を待ち望む」ことによって、その苦難の日々を生きたのです。「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」「よき力に信実に静かに取り巻かれ、 不思議にも守られ慰められて、私はこれらの日々を君たちと共に生き、そして君たちと共に新しい年へと歩んで行く。古い年はわれらの心をなおも悩まし、悲し き日々の重荷はさらにわれらの上にのしかかるであろう。ああ、主よ。この駆り立てられた魂に、あなたが備え給うた救いを与え給え。―――われらはあなたの 光が夜の中に輝くことを知っている。―――よき力に不思議にも守られて、われらは心安からに来たるべきものを待つ。神は夜も朝も、そして新しい日々も、必 ずわれらと共にいまし給う。」(ボンヘッファー「よき力に」より、『抵抗と信従』所収)

 しかし、聖書は告げています。この「待ち望み」、このような「待ち望み」、どうしようもないところから「待ち望むよりほかはない待ち望み」にこそ、約束 があり、希望があり、力があるのだ。なぜなら、聖書の神、イエス・キリストの神とは、このようなお方だからです。「一緒に居続ける、何もしなくても、何も 言葉はなくても居続ける。これはイエス・キリストそのものだ。聖書はイエスの名前をインマヌエル(神は共に居る)と語っている。つまり神が病を患い、傷つ き血を流す肉体をまとってこの世界に降りてきて、私たちの生きる苦しみを感じ、自らも十字架にかけられて死んだのだ。―――こんな理不尽な世界に目に見え る神などいない。苦しい時に必要なものを与えてくれる神、突然目の前が塞がれた時に道を教えてくれる神もいない。けれども私が信じる神、イエスは十字架に かけれらた神。私たちが病む時に共に病み、罵られるときに共に罵られる、涙する時に共に涙し、その死に行く時にこそ一緒に死んでくれる。それが十字架の上 で死んだ神の子イエスだ。」(関野、前掲書より)
 ヤコブもそうでした。彼は、この祈りを語った後、一つの具体的な指示を息子たちに与えるのです。「わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがた はヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、先祖たちと共にわたしを葬ってください。」それは、その墓がある土地がイスラエルの子孫に与えられる、こうして私 たちは主なる神の摂理と導きの中で生かされ、生きているということを確認する、象徴的な行いであったのです。「こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床 におさめ、息絶えて、その民に加えられた。」ヤコブは、あの「待ち望み」のうちに、「待ち望むよりほかはなく」、ただ神に信頼し、委ね、神に希望を置くこ とのうちに生涯を終えて行きました。それに続く、ボンヘッファーも、そして私たちもまた、そのように生き、生涯の終わりまで神と共に生きるのです。なぜな ら、「神は夜も朝も、そして新しい日々も、必ずわれらと共にいまし給う」からです。

(祈り)
私たちすべてのものの主なる神、御子イエス・キリストを死の中から引き上げ、復活させられた神よ。
 主よ、あなたによって新しい年が始まりました。この年、私たちにもまた、どうしようもない時が訪れ、私たちにはどうしようもない出来事がやって来るで しょう。しかし、その「どうしようもない」ところから、私たちにはできることがあります、ゆるされていることがあります。それは、あなたを「待ち望む」こ とです。私たちが何か良いから優れているから、それができるのではなく、ただ「待ち望むよりほかはない」、だから私たちは、主よ、あなたを待ち望むので す。
 十字架において、その死において、とりわけご自身を表わされたイエス・キリストの神。あなたのゆえにこそ、その私たちには約束があり、希望があり、力が 与えられています。どうかこれからの歩みを、そのあなたと共に、その終わりに至るまで歩んで行けますよう助け、支え、お導きください。また、あなたを待ち 望むからこそできる、私たちの業があり、働きがあり、道があります。どうか、それを行い、果し、歩み行く力と思いを、とりわけ、あなたと人とへの愛を私た ちにもお与えください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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