神によるはじめから始める         創世記第1章1〜8、26〜31節
          

  新年あけましておめでとうございます。新しい一年の初めです。それで、今日はこの、まさに「初めの初め」を語る聖書の箇所から、今年一年を導く御言葉を共 にいただきたいと思います。聖書はこのような語りかけから始まります。「はじめに神は天と地とを創造された。」皆さん、これがすべての始まりを告げる言葉 なのです。すべてを始めてくださったのは神なのです。すべてのもののために根拠を置き、その一つ一つのものを存在させてくださったのは、神様なのです。こ れが私たちのこの新しい年を導く、第一の、そして究極の言葉です。
 そもそもなぜ、私たちは今ここにおりますか。この2022年という新しい年が与えられているのは、どういうわけでしょうか。私たちは、この年を歩んで生 きていくために、何をよりどころとし、信頼と希望をもって進んで行くことができるでしょうか。それは、これだというのです。「はじめに神は天と地とを創造 された。」それは、神様だというのです。本当の「初めの初め」に、主なる神が天と地と、その中にあるすべてのものを無から創造し、そのすべてそれぞれに存 在とその根拠、またその目的と意味、また目指すべき目標と栄光を与えてくださったように、この新しい年を創り、与え、始めてくださったのは、ほかでもない 神御自身なのです。また、この年の初めに、この私たちに命を与え、この年を生きるようにとこのスタートラインに置いてくださったのは、まさに神なのです。
 これは、恵みそのものです。天と地とその中のすべてのものたちは、神様に創っていただくために、何か良いことをしたわけではありません。何か業績を上 げ、目標を達成したのでもありません。何をしたわけでもないのに、そして将来何か良いことをするであろうという何の保証もないのに、神様は全くの好意と善 意、つまり愛と恵みによって、すべてのものに存在を与え、そのための時間を開いてくださったのです。
 そして、神は創られたものに「よし」という評価、「よい」という言葉をかけてくださいます。「神は、その光を見て、よしとされた」。原則の中の大原則と して、神が創られたものは、「よい」のです。私たちは、神の愛と好意をいただいているのです。神様の配慮と助けをいただいているのです。この年、私たちは どのような道を歩み、何を経験して生きるのか、そのことは私たちには全くわかりません。でも、確かなことがあります。それは、神が私たちの存在を常に根本 から支え、その一瞬一瞬を導いてくださるのだということです。

 神様が、どのようにしてこの世界を創り、この世界を始め、そしてこの世界を導いて行かれるのかが、次に示されています。それは、「御言葉によって」で あったというのです。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると、光があっ た。」
 「形なく、むなしく」とは、単に何もなかったということではありません。これは「混沌であった」とも表現されます。この言葉はエレミヤ書に出て来て、預 言者エレミヤの時代、ユダの国の状態を示すために使われました。「わたしは地を見たが、それは形がなく、むなしかった。天をあおいだが、そこには光がな かった。わたしは山を見たが、みな震え、もろもろの丘は動いていた。わたしは見たが、人はひとりもおらず、空の鳥はみな飛び去っていた。わたしは見たが、 豊かな地は荒れ地となり、そのすべての町は、主の前に、その激しい怒りの前に、破壊されていた。」(エレミヤ4・23〜26) それは単に何もなかったと いうのではなく、むしろ神の御心に反する「やみ」が、悪と無秩序と混乱ばかりがあったということなのです。人々の心と生き方は、まことの創り主なる神から 離れ背き、人と人との間の関係も破れ傷つき、それがためにこの世界のすべての創られたものが荒れ果ててしまっていたのです。
 しかし、神は、そのような状態を放っては置かれません。「神の霊が水のおもてをおおっていた」のです。そして決定的瞬間が来ます。「神は『光あれ』と言 われた」のです。神が御言葉を発せられたのです。神が御言葉を発せらるとき、神の業が起こります。神の出来事が始まるのです。「すると、光があった」。神 の御言葉には力があります。何もないところからすべてのものを創り出す力、いえ、それ以上です。闇と悪と混沌しかないところに、救いと秩序と平和をもたら すのです。「神は言われた、すると何々があった」と、この後も何度も繰り返されます。それが、神様の方法であり、道なのです。
 私たちがこの年を歩んでいく中で、実に様々なことが起こり、私たちに出会い、ぶつかってくるでしょう。それは、決して「良い」と思われることばかりでは なく、むしろ「闇」「悪」「混沌」「無秩序」と思わざるを得ないことがあるでしょう。しかし、その「やみ」の中に、私たちの神、イエス・キリストの神は共 にいてくださいます。そして、御自身の御言葉を私たちのために発してくださるのです。「光あれ」、この一言葉が闇を切り裂きます、混沌に秩序をもたらしま す、世の悪を克服し私たちを罪から救い出すのです。
 あのガリラヤ湖で嵐に遭ったイエス様の弟子たちのことを思い出します。思いもかけない大嵐に巻き込まれ、暴風に吹きまくられ、沈没の危機に陥り、弟子た ちは全くの無力でした。彼らの経験も技能も勇気も、信仰さえも何の役にも立ちませんでした。しかし、その舟に一緒に乗っておられた主イエスが起き上がり、 「静まれ」、一言葉を発せられた時、波も風も静まり、嵐はぴたりと止んだのです。「インマヌエル」、そのようにクリスマスにおいでくださった方は、この年 も常に私たちとそのように共にいてくださいます。

 神が創り出し、すべてのものを支え、導いて行ってくださる秩序、それは一つの「リズム」でもあります。神が創られたすべてのものは、それに伴う時間もま た与えられています。そのようにして時間の中を導かれるすべてのもののために、神は一つのリズムを与え、それによって私たちを導いてくださるのです。それ は「恵みのリズム」です。それはこんなリズムなのです。「夕となり、朝となった。第一日である。」「夕となり、朝となった。第二日である」、「第三日であ る」、「第何日である」、ずっと、ずっと、そのようにして続いて行くのです。
 それは、私たちの感覚や常識とは違っています。正反対かもしれません。私たちはこう考えます。「朝があり、そして夕があった、こうして一日が終わっ た。」「朝があった」、私が起きた、こうして一日が始まった。この日、私が働く、私が仕事をする、私が課題を果たす、そうしてようやく「夕となった」、あ あ、くたびれた、ああ、だめだった、あああのことができていない、このことが心配だ、そうして一日一日が過ぎていく、そう私たちは思っているかもしれませ ん。
 でも、そうではないのだ、決してそうではないのだと語られるのです。「朝となり、夕となって、夜が来た」、そうではない、「夕となり、朝となった、第一 日である」。あなたが疲れ果てて、あなたが失望して、あなたが心に心配と恐れをいだいて夕べを迎え、夜眠れない眠りにつこうとする時、それが神の一日の始 まりなのだ。あなたが何もできないでただ眠るほかはないその時、神はその業と働きを始められる。あなたが何もできないでいるその間に、神は恵みによって、 愛と好意によって事を進め、すべてを整え、準備し、そして解決さえしていてくださる。あなたが前の日に犯した罪過ちを贖い、赦し、新しい生き方と道を用意 していてくださる。次の日の朝、この神の愛と恵みの中で、あなたは目覚めるのだ。「夕となり、朝となった、第一日である。」これこそ、「恵みのリズム」で す。

 こうして主なる神が創られた世界の中で、御言葉によって「よし」とされた者たちとして、全き恵みの時間のリズムの中で、私たち一人一人また教会は、どう生きるのでしょうか、どう生きようとするのでしょうか。
 それは、何よりまず「信じること」から始まります。主なる神、イエス・キリストの神が、すべてを創り始めてくださった、この年もまた主が創り始めてくだ さった。私たちは、初めから終わりまでこの神の恵みの中を生きる、一から十まで神の恵みの中で生きる、そう信じ、そう受け入れて生きて行くのです。「初め に神は天と地とを創造された。」道に迷い、生き方に悩んだら、いつもここに立ち戻って、ここからもう一度新しく始めて行くのです。「初めに神は天と地とを 創造された。」
 「信じること」から始めることができるならば、私たちはあの神の御言葉を語り、語り合うのです。「神は見て、よしとされた。」まさにこの言葉を教会の言 葉、信仰告白とした教会があります。「神様はどうでもいいいのちをお創りになるほどお暇ではありません。」なぜなら、創られたすべてのものを、「神は見 て、よしとされた」からです。「ひとりの青年が―――教会にたどり着きました。小さいころから苦労を重ね、施設や里親を転々とした彼女は、ある事件をきっ かけに―――教会―――と出会いました。少年院に迎えに行き、その日から我が家での暮らしが始まりました。ときに荒れる彼女は自分を傷つけながら、こうつ ぶやくのでした。『私は、どうでもいいいのちだから。』―――あるとき『―――すべての人が救われると言いますよね。だったら私も救ってほしい。私にとっ ての救いは今すぐ死ぬことです。私にとって現実は地獄です。神が救ってくれるのならば、今すぐ私の命を奪ってほしい。―――』―――そんな出会いの中で、 一つの『信仰告白』とも言うべき『教会標語』が与えられました。『神様はどうでもいい命をお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するために ―――ひとりを大切にする教会になる。』あらゆるいのち、あらゆる出来事、そして、すべての人生には意味がある。私たちの目には遠回りだ、無駄だと思える 道も、神様が備えた道だと信じて生きていこう―――毎週、このことばを司会者は宣言し、礼拝が始まります。―――私たちは『信じること』はできます。 ―――『すべての人』は、神様が造られた意味のある存在なのだ、と。―――なぜ、そのようなことを教会は宣言しなければならないのでしょうか。それは、現 在の社会が分断と排除の社会となっているからです。教会は、そんな社会に対していかなる福音を語り、いかに福音に生きることができるかが試されていま す。」(奥田知志『いつか笑える日が来る』より)私たち教会は、あの神の「良し」を宣べ伝え、証しし、互に語り合うのです。
 そのように語りつつ、私たちは共に生きる、神の「恵みのリズム」に合わせて、共に生きるのです。私たちは、たいてい常識的に「朝が来て、夕となった」と いうリズムで生きようとします。その中で、私たちは傷つけ、傷つけられ、「とうてい共に生きられない」という思いにさせられます。その一日の中で、私たち は「共に生きる」ことに挑戦します、やってみます、そのために乗り出し、立ち上がり、語り、訴え、行動しますが、壁にぶち当たり、さまたげにつまずき、溝 にはまり込んでしまうこともあるでしょう。後悔と罪責に打ちのめされ、とうていこの一日を終えて次の日に向かうことなどできないと思うときもあるでしょ う。しかし、その夕べに、あの「神の恵みのリズム」を思い出し、それに合わせて歌い、呼びかけ合い、改めて共に生き始めるのです。「夕となり、朝となっ た」。「神よ、今ここから、あなたの一日が始まります。あなたの創造の御業が始まります。私たちは、あなたの創造の御手にお委ねします。私たちは、あなた の御業に任せ、期待し、床に就きます。どうかあなたの光と恵みの中で、目覚めさせてください。」それは、イエス・キリストの復活の朝を知る祈りであり、来 たるすべてのものの復活の朝を待ち望む祈りです。
 「神によるはじめ」、それが今私たちの前に置かれているのです。神がこの新しい年を始められ、神がこの年を導かれ、神がこの年を生きる私たちの歩みを全うしてくださるのです。感謝と信頼と希望をもって、ここから一歩を踏み出してまいりましょう。

(祈り)
天と地と、そこに住むすべてのもの、私たちすべてを創造された神、御子イエス・キリストを死から引き上げ、復活させられた神よ。
 この2022年も、私たちに新しい時と歩みを与えてくださり、心より感謝し、御名をあがめます。決して私たちがそれにふさわしいからではなく、ただあなたの愛と恵み、そして真実に基づいて、あなたは私たちがこの年を生き、歩むことをゆるしてくださいます。
 どうか、み言葉に基づいて、あなたの恵みのリズムに従って、私たち一人一人と教会を導いてください。私たちが自らの罪過ちに、この世の悪と混沌に目と心 を奪われ、心沈みつまずき倒れる時、あなたの御言葉を響かせ、私たちの生きるべきリズムを取り戻してください。そして復活の主と共に、もう一度新しく歩む ことをおゆるしください。私たちの証しと奉仕をも用いて、さらに多くの方々をあなたへの信仰と、新しい命へと導いてください。
私たちの信仰の導き手また完成者なるイエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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