慰めの神によって、この年を送る         イザヤ書第40章1〜11節
          

 「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ」、預言者が語るのは慰めと赦しの言葉です。この年末に私たちがぜひとも聞くべきであるのも、この慰めと赦しの言葉なのです。
 預言者が目の前に見、共に生き、共に歩んでいたのは、徹底的に痛めつけられ、苦しめられていた人々でした。時は今から2500年前、遠く外国バビロンの 都に捕らわれて連れて行かれていたイスラエルの民でした。国土を奪われ、自分たちの信じる信仰をなくし、生きる根拠を奪われ、誇りをなくしていた人々でし た。「エルサレム」というのは、イスラエルの都である町の名前です。この「エルサレム」という言い方でもって、エルサレムの町の人々や、都エルサレムに代 表されるイスラエルの人々を表しているわけです。その時代、イスラエルの人々はバビロニアという国との戦争に負けて、多くの人々が自分の国から無理やりバ ビロニアに連れて行かれて、大変に苦しい惨めな生活を、なんと50年余りも続けていたのです。
 預言者に向かって主なる神は命じられます、「慰めよ、わが民を慰めよ」。この傷つき、痛み、疲れている人々は何より慰めを必要としていました。だから、 「神様はあなたがたを慰めてくださいますよ」と語るのです。また、その「慰め」の具体的な現れとして、その苦しみの終わりを告げるのです。それは「赦し」 のメッセージです。もとはと言えば、この捕らわれの苦しみは、イスラエルの罪が原因でした。信じ頼るべき出エジプトの神、主なる神を信じないで捨てて、他 の神々や物事に頼った、それに対する裁き・罰としてこのことは起こったのでした。ところが今、神様はそのイスラエルに、罪の赦しと捕らわれからの解放を 語ってくださろうとするのです。「その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた。」あなたは十 分に苦しみ、十二分に罰を受けた。神様はもう既にあなたを赦してくださっている。だから、もうその苦しみは終わる。
 私たちもまた、イスラエルの民ほどではないかもしれませんが、この年の終りに慰めを、しかも他の慰めではない神による慰めを必要としていると思います。 イスラエルの人々が多くのものをなくし、あきらめねばならなかったように、私たちもこの年多くのものを失い、あきらめ、失望しなければならなかったかもし れません。物であるならば、それは痛いですが、あきらめもつきます。でも、それよりももっと大切なもの、それは誇りであり、自分の存在に対する確信であり 喜びであり、将来に対する希望です。でも、そういう大切なものをも奪い、なくさせてしまう物事が、私たちの周りにはいっぱいです。この疫病による試練が延 々とと続くこの数年においては、なおさらでしょう。そんな中で、私たち一人一人も傷つき、疲れ、望みをなくしてしまっているのではありませんか。
 そしてまた、私たちも赦しを必要としています。周りの人たちや世の中だけが悪いわけではないのです。聖書は私たちに、神との関係、また隣人との関係を問 うのです。あなたは、神と共にこの年どのように生きてきたのか。神を信頼し、神の御心を求め、それに従い、それに望みを置いて生きてきたのか。それとも、 結局は神以外のものに頼り、それによって心を満たし、人生を支え導こうとしてきたのではないか。また、あなたはこの年、神が出会わせてくださった多くの人 々としっかり共に生きてきたのか、かれらを愛し、その人たちが本当に生きるようにと生きてきたのか。あるいはむしろ、その人たちのことを見ながら、あの 「強盗に襲われた人」を見過ごして行った祭司やレビ人のように、そのかたわらを通り過ぎ、別の道を通って行ったのではないだろうか。このように問われると き、私たちは例外なく、神の赦しを必要としていることに気づきます。その私たちに向かってもまた、神は今慰めと赦しの言葉を「ねんごろに」、私たちの奥底 にまで届くように語ってくださるのです。

 しかも、主なる神の約束は、ただ「慰めと赦し」にとどまってはいませんでした。預言者はつづけて語るようにと命じられます。「荒野に主の道を備え、さば くに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は 平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」「神によって道が開かれる」と預言者は語るのです。今の傷つき疲れたあなたに向かっ て慰めが、過去の罪過ちによって責められ打ちのめされているあなたに向かって赦しが語られるだけではない。あなたがたの将来に向かって、神は道を開いてく ださる。しかも、大きな広い道を開いてくださる。それは、単にイスラエルだけの救いではないのです。この世にはそのほかにも多くの罪と悪、それに基づく苦 しみがある。それを「荒れ野」に散らばる「山」や「谷」や「丘」、また「高低のある地」「険しい所」という言葉で表現しているわけです。それらの「山と 丘・谷」、ありとあらゆる「でこぼこ」が平らにされ、また通りにくく歩きにくく生きにくい、そういうすべての私たち人間の生きる道が平らにされ、広くさ れ、美しくされる。
 かつて、アメリカのマルティン・ルーサー・キング牧師は、この箇所を引きながら「私には夢がある」と語りました。「私には夢がある。いつの日かジョージ アの赤土の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。―――私には夢がある。 今は小さな私の四人の子どもたちが、いつの日か肌の色ではなく内なる人格で評価される国に住めるようになるという夢が。―――私には夢がある。いつの日 か、全ての谷は隆起し、丘や谷は低地となる。荒れ地は平らになり、歪んだ地も真っ直ぐになり、そして主の栄光が現れる。その光景を肉なる者が共に見るとい う夢である。これが私たちの希望なのだ。―――この信仰をもってすれば、われわれは絶望の山から希望の石を切り出すことができ、この国の騒々しい不協和音 を美しい兄弟愛の交響曲に作り替える事ができる。この信仰をもってすれば、われわれは共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、また、いつの日か解き 放たれると固く信じつつ共に自由の為に立ち上がることができるのだ。」(『私には夢がある М.L.ルーサー・キング説教・講演集』より)それはこの世界 からありとあらゆる差別や抑圧や争いが断絶されて、黒人も白人もお互いを尊重し愛して仲良く生きられる世界が来るという夢であり、信仰であり、希望です。 預言者が語るように命じられたのは、まさにそこまでのことだったのです。

 しかし、ここに人間の弱さと罪が現れます。預言者は今、この神のすばらしい約束を委ねられながら、大変に苦しんでいるのです。なぜなら、まずそれを聞く べき人々が傷つき、疲れ、破れ果てているからです。2節に「ねんごろにエルサレムに語り、これにに呼ばわれ」とありますが、ある方は、ここは「エルサレム の人々の心に染み入るように、ねんごろに語れ」という意味だと言っています。50年もの間同じ苦しみと痛み・恥を味わい、見させられてきた人たちなので す。そういう人たちの「心」は、渇き、しおれ、固く凝り固まって閉ざされてしまっている。そういう人たちに「よい知らせ」は届かないのです。むしろ、あざ 笑いと拒絶で応えられてしまうのです。「なにが福音だ、なにが慰めだ、なにが神だ、そんなものがあるわけないよ。そんなことより、もっと面白いこと、楽し いことを与えてくれ。」そういう人たちに語るためには、本当に「心に染み入るように」、忍耐強く何度でも、暴言を言われようと石を投げられようと、あきら めないで粘り強く「ねんごろに」語る必要があります。そんな重く、しんどい務めに、いったいだれが耐えられるでしょうか。
 そして第二の決定的かつ致命的な理由は、預言者自身が、この「荒野」のような世界の中で、深く傷つき、疲れ、破れているということです。6節以下を呼ん でみましょう。「声が聞こえる、『呼ばわれ』。」これは神の預言者に対する命令です。この後が問題です。この後の数行は、預言者自身のつぶやきと弱音とい うふうに読むことができます。「わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべては野の花のようだ。主の息がその上 に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。」人間は草のようなものです。虚しく弱いものです。この民がそうですし、この私だってそうです。もう疲れました。枯れて しまいました。どうしてそんな赦しと慰めのたいそうな言葉なんか語れましょう。私には語れません。それに、この枯れ果てた人たちはそんな夢みたいな言葉、 聞いてくれませんよ。私には自信も確信もありません。私にはできません。
 そうして弱さと不信の中に逃げ込み、閉じこもり、ためらい、逃げ続ける預言者に向かって、神は力強い約束の言葉を与えてくださいます。「草は枯れ、花は しぼむ」、確かにお前の言うとおり、人間は草のように弱く、イスラエルの民は枯れ果て、お前は花のようにしぼんでしまっているかもしれない」。しかし、こ う言われるのです。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることがない。」別の訳では、「われらの神の言葉はとこしえに立 つ」とされています。あなたがどうあるかではない、あなたに力があるかどうかではない、あなたに自負や自信があるかどうかではない。神の御言葉こそが、神 御自身こそが、あなたや周りの者たちの状態によらず、とこしえに立ち、あきらめずに働き、投げ捨てずに事を成し遂げるのだ。「何をなすべきか」「自分には それができるか」に心を用いるのではなく、それよりも、「すでに何が神によって始まっているか」にあなた自身を向けよ。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまず き倒れようが 主に望みをおく人は新たなる力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 主なる神は今預言者に、あの慰めと赦し、そして道を開くという約束を、もっと確かに、もっと具体的に、そしてもっとはっきりと語ってくださいます。それ はこういうことなのだ。「見よ、主なる神は大能をもって来られ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にあ る。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」
 それは、神御自身があなたがたのところに来てくださることによって実現するのだ。もうほかのものには任せておけないと、あなたがたを愛してやまない神御 自身が、今や立ち上がり、ご自身のところを出発して、とうとうあなたがたのところに来てしまわれた。そして、あなたがたを、羊を導く良き羊飼いのように、 やさしくねんごろに心を込めて抱き上げ、慰め、癒し、赦して、正しく、幸いのうちに導いてくださる。私たちは、この約束が本当であり、すでに実現したこと を知らされています。まさに神御自身が私たちのところにおいでになり、「神われらと共にいます」ことを実現されたのです。クリスマスの良き知らせ、神の御 子イエス・キリストの御降誕をいただいているのです。
 このクリスマスの光の中で送るこの年、そしてやがて迎える新年、私たちは確かに語られている神の慰めと赦し、そして救いの御言葉をしっかりと受けとめつ つ、慰められ、力づけられ、しっかりと支えられて歩んで行きたいと切に願います。この時、私たちもまたあの預言者のように、疲れ、破れ、かがみこんでし まっているかもしれませんが、この主の御言葉によって慰められ、力づけられて、私たちにも与えられている果たすべき使命と役割、道へと励まされ、促され、 押し出されてまいりましょう。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない、とこしえに立つ。」

(祈り)
主なる神よ。 あなたはこの年の終わりに、大いなる慰めと赦し、そして救いの御言葉を私たちにも語ってくださいました。私たちの心も、イスラエルの民や預 言者のように弱り破れ果てておりますが、そのような私たちの有様によらず、ただあなたの真実と力によって今信仰を私たちのうちに呼び起し、お与えくださ い。この御言葉によってこの年を感謝をもって送り、来たる年を主への大いなる希望をもって迎えることができますように。
インマヌエルの主イエス・キリストの恵み深い御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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