最も身近なクリスマス         ヘブル人への手紙2章9〜18節
          

 皆さん、クリスマスおめでとうございます!
 クリスマスに今日のような聖書の箇所を取り上げるのは、ちょっとした冒険です。「なじみがない」と思われるからです。「なじみがある」箇所と言います と、マリヤさんが出て、ヨセフさんが出て、羊飼いや博士たちも出てという所でしょう。そういう箇所は、今までもよく取り上げましたし、また別の機会にも読 むことができると思います。今日は、クリスマスの意味を別の角度から深めてみたいと思い、ここを取り上げました。
 そしてもう一つの理由は、ここが「なじみがない」ように見えて、実は「最も身近」なクリスマスの出来事を証ししているからです。イエス様はどこに来られ たでしょうか。そう、二千年前ユダヤのベツレヘムに、マリアさんのお腹の中に来られたのでした。でも、それですと、「なじみ深い」ように見えて、実は遠い 出来事でもあるのではないでしょうか。二千年も前の、しかも私たちの多くから見たら外国の人に、ということだからです。しかし、今日の箇所にはこのように 書いてあるのです。14「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。」この御言葉は、クリ スマスにおいてイエス様は血と肉とをお取りになって、血と肉を持つ者たちのところに来られたと語っています。「血と肉」、それは言い換えれば「肉体」「か らだ」ということです。ヨハネの福音書も証しします。「言は肉体となり、わたしたちの内に宿った。」
 「血と肉を持つ者たち」とは、いったいだれのことでしょうか。それは、まさにこの私たち、この人間一人一人そのものです。主イエスはマリヤさんのところ に来られた、それは事実です。しかし同時に、イエスはまた私たち血肉を持つ者一人一人のところにおいでになったのです。イエス様が、ただ「この世界におい でになった」とか、「ユダヤのベツレヘムにお生まれになった」というだけではない、「私たちの血と肉、私たちにとってなくてならない、実に切実なこの肉体 のところまでおいでになった」「血と肉とを持っている、この私たちと全く同じところまで来てくださった」というのです。
 「血と肉」とは、この私たちの体と、その体をもって営んでいるこの世界でのこの生活を意味するものでしょう。あらかじめ誤解のないように言っておきます が、この「血と肉」を与えられ、それを持って生きているということは、すばらしいことです。それは、神が創り、与えてくださった良いもの、恵み深い賜物、 プレゼントであり、これがあってこそ私たちは共々に具体的・現実的に生きることができるのです。
 通常、私たちはこの神の良き賜物をあまり意識しませんし、何か当たり前のようにして生きております。けれども、その私たちが強く「血と肉」というものを 思い、感じるのは、やはりなんと言っても病の時であり、様々な弱さを覚える時ではないでしょうか。たとえそれが小指一本の痛みであったとしても、眠れぬ夜 を過ごさせるには十分でしょう。
 しかし、そんな私たちに今日クリスマスの福音が与えられています。「イエスは血と肉を取ってこの私たちのところにまで来てくださった。」17「イエス は、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、 試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」私たちは痛みを覚える時、信じましょう、「イエスはこの痛みのと ころにまで来てくださった」。どうしようもない弱さを覚える時、口に出して言いましょう、「イエスはこの弱さのところにまで来てくださった」。夜も眠れぬ 悩みにもだえる時、告白しましょう、「イエスはこの悩みのところにまで来てくださった」。それは、私たちに最も身近なクリスマスの言葉なのです。

 「血と肉」を持つということ、それは申しましたように「神の良き賜物」であり「恵み」であったはずなのですが、それが今の私たちにとってはどこか違った もののようになっている、もっときびしく言えば全く正反対のものとなってしまっている、そのように聖書は見ています。「死の恐怖のために一生涯、奴隷と なっていた者たち」、それが私たちだと言うのです。
 ここから言えることは、「血と肉」を持つこと、それは第一に「弱さと限界を知り、病を知り、さらには死を知る」ということです。これは、先ほど申し上げた通りです。
 ここで大切なのは、「血と肉」を持つこと、それが第二に「恐怖を知る」ことになってしまっているという現実です。「恐れを持つ」ということです。私はこ こに、私たちの「罪」の問題がまさに現れてきていると思います。私たちは何を「おそれて」いるのでしょうか、私たちは本当は何を「おそれる」べきなので しょうか。聖書の原則ははっきりしています。「神をおそれよ」。「神をおそれるなら、他の一切のものを恐れる必要がない。神をおそれないなら、他のすべて のものを、とりわけ死を恐れなければならない。」私たちは「神ならぬものの奴隷」となってしまいました。私たちは本来、この「血と肉」を祝福、恵みとして 下さった神様に感謝し、神様の御心に従ってそれらを用い、そして神様がそれらに与えられた限界や弱さを受け入れて生きるべきはずでした。ところが、私たち はこの神様に背き、その恵みを投げ捨てて生きるようになってしまったのです。その時から、私たちは本当に仕えるべき方を離れ、他の偽りのものの奴隷になり ました。そしてこう思うようになったのです。「ああ、この私の血と肉はいつしか滅び、やがて死んでしまう。それは、私にとってなんと残念なことか。できる ことなら、この私は、この私だけはできるだけ遠く死を免れて、安楽に長く生きていきたい。」この考えはまっとうなように見えますが、そこには肝心の「神」 はありません。ここから、あらゆる「恐れ」、とりわけ「死の恐れ」が沸き起こって来るのです。
 そこから出てくる第三のことは、「血と肉」を持つことが「奴隷となる」ことになってしまったことです。「死を恐れる」とき、人は簡単に脅され、誘惑さ れ、罪に陥ってしまいます。「私の言うことを聞きなさい。言うことを聞かなければ、お前をひどい目に遭わしてやるぞ。お前の肉体を責め苦しめ、あるいは円 満には生きられないようにしてやるぞ。ついには殺してしまうぞ。」そんな極端なところまで行かなくても、これはどこのどんな集団でも起こっていることでは ないでしょうか。「あなたを仲間はずれにしてやる。ここで生きにくく、いられないようにしてやる。」そうして「他の人間の奴隷」となるとき、私たちはしば しば「悪の奴隷」、聖書が語るところによれば「悪魔の奴隷」となるのです。そんなふうに脅されなければできないようなことというのは、たいてい悪いことで す。他の人を見捨て、苦しめ、さらには死に至らせていくようなこと、それは神の御心に背き、自分自身をも破壊してしまうことです。でも、「死の恐怖」で脅 され「奴隷」になるとき、私たちは「自分が死なない」ために、そんなことをもしてしまい、愛することができなくなるのです。なんということでしょうか!

 しかし、聖書はそんな私たちに今こそクリスマスの福音を語ります。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様、それら をそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つ ためである。」救い主イエス様は、ここまで、私たちが「死の奴隷」となってしまい、そのことのゆえにお互いを苦しめ、支配し、争い傷つけ合っている、私た ちのこの「血と肉」のそのところまで来てくださったというのです。
 イエス様は、私たちの肉体の弱さも限界もご存知です。それをたびたび襲う死の恐怖も味わい尽くされました。また、私たちを捕えようとする罪と死の誘惑と 脅しもさんざん受けられました。しかし、イエス様はそんな中にあっても神に従い、人を愛することをやめられなかったのです。「死」ではなく正しく「神をお それ」、「罪」よりも「神に従う」ことを選び、その道を十字架に至るまでも貫いてくださったのです。この主イエス様は復活され、罪と死に勝利されました。 そして、この「命の道」をこの私たちのためにも開き、この私たちもそこを歩んで行けるようにしてくださったのです。
 主イエスは、今私たちを「兄弟」また「姉妹」また「友」と読んでくださいます。「それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされなかった。」そして、 あえて弱さと罪に苦しむこの私たちを助けようと、今私たちの前に立っていてくださるのです。「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの 子孫を助けられた。」「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わた したちと同じように試練に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかること なく恵みの御座に近づこうではないか。」

 こうして、イエスによって「友」となっていただいた私たちは、ここからどのように生きて行くのでしょうか。それは、私たちもまた「友」となるという道で す。この同じ「ヘブル人への手紙」の後ろの方に、こんな言葉があります。「兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、 ある人々は、気づかないで天使をもてなした。獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある 者だから、苦しめられている人たちのことを心にとめなさい。」(13・1〜3)これらの勧めの言葉は、この最後の一言にまとめることができるでしょう。 「自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを心にとめなさい。」「自分も同じ肉体にある者だから」。イエス・キリストは、私たちと全 く「同じ肉体」を取り、「同じ肉体」のところにまで来てくださいました。それによって、私たちは「死の恐怖」と「奴隷」状態からの解放と救いをいただきま した。
 ならば、その私たちもまた、「自分も同じ肉体にある者だから」ということで、他の人々、とりわけ「苦しめられている人たち」のことを思いやり、心にとめ るのです。自分もまた病気になれば、つらく苦しいから。自分もまた、叩かれれば痛いし、ひどいことを言われれば心が傷つき裂けるから。自分もまた食べるも の・飲むもの・着るもの・住むところがなければ、とうてい生きて行くことができないから。自分もまたあるべき当然の権利や尊厳が侵され奪われれば、人間と しての誇りと望みをもって生きて行くことができないから。「同じ肉体にある者だから」、その人のことを思い、心に留め、そして具体的・現実的に、それこそ この「肉体」をもって助け、共に生きて行こうとするのです。それはイエスが教えてくださった通りです。「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、か わいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」(マタイ 25・35〜36)

 今私たちの前に「最も身近なクリスマス」が来ています。信仰をもってこの「解放の良い知らせ」を受け入れましょう。そして、今も私たちの前に先立ち、神 へと導いていてくださるクリスマスの主イエス様の後を力を尽くして走り、共に生きてまいりましょう。「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨て て、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎつつ、走ろうではないか。」

(祈り)
クリスマスの主よ、私たちのこの世界に、さらにはこの私たちと全く同じ「血と肉」に至るまでおいでくださった主よ。
 あなたは私たちの解放と救いのために低くなることを受けいれ、さらには死の恐れと苦しみをも味わい尽くしてくださいました。あなたはあえて弱さと罪に苦 しむ私たちを「兄弟」「姉妹」また「友」と呼び、この私たちと同じ痛み、同じ苦しみ、同じ試練を経験していてくださいます。そのような中であなたは、私た ちのために、私たちに代わり、私たちに先立って神に従い続け、十字架に至るまでも従い通してくださいました。その尊い犠牲と御愛によって、私たちの前には 新しく生きる道が開かれました。「死」ではなく「命と死の主」であるあなたを正しくおそれ、「恐れと罪の奴隷」となるのではなく「神と隣人に仕える僕」と なって生きる道です。
 どうか今、この私たちに、「最も身近に来ているクリスマス」の福音を信仰をもって共に受け入れさせてください。そして先立ち導きたもうあなたの御後を力を尽くして進んで行くことができますように。
 恵み深い、そして愛と真実に満ちた御名によっておささげいたします。アーメン。

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