わたしはいつくしみを喜ぶ         ホセア書第5章13節〜6章6節
          

 私たちはこのアドヴェントに当たり、旧約聖書から、イエス・キリストの到来を告げる言葉、あるいは少し広げて、イエス・キリストを指し示すと思われる言葉を選んで、神の御言葉を聞いています。
 そもそもなぜ、旧約聖書のあちこちに、そのような言葉、イエス・キリストを指し示す言葉があるのでしょうか。その答えは、旧約聖書の神は、まさにイエス・キリストをこの世に送られた神だからです。さらに言えば、この神は、まさにイエス・キリストと同じ方だからです。

 今日のホセア書6章6節は、そもそもイエスご自身が引用して語られた言葉です。マタイによる福音書9章13節で、このように語っておられます。「『わた しが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。」このイエスのお言葉に従って、まさにそれはどういう意味か、 ご一緒に学んでみたいと思います。それがまさにこのホセア書にある言葉なのです。
 「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」「わたし」というのは、神様のことです。神様がどういうもの、ど ういうことを喜ばれるか、それに基づいて私たち人間は何を選び、何をして、どのように生きるべきかを語った言葉です。この言葉を詳しく見てみると、この言 葉は「二者択一」的な表現をしています。「AではなくてBだ」。これによって、選ぶべきものが強調されます。「犠牲ではなくいつくしみだ、燔祭よりも神を 知ることだ」というわけです。さらに、この節は二つの文章から成っていますが、これは「平行法」と言って、意味がほぼ同じ二つの文章を、違う言葉を使って 表現することによって、その意味を強めます。だから、「犠牲」と「燔祭」はほぼ同じ意味で、従って「いつくしみ」と「神を知ること」もまたほぼ同じ意味だ ということになります。
 なぜ、「いつくしみ」と「神を知ること」が同じ意味になるのでしょうか。「いつくしみ」は、旧約聖書の元の言葉では「ヘセド」と言います。日本語訳では 「いつくしみ」のほかに、「恵み」(新改訳)と訳すものもあります。英訳聖書では、「love」と訳したり、「grace」と訳されています。他の言葉の 翻訳では、次のような訳語が充てられているそうです。「憐憫、哀れみ深い心、慈悲心」「親切、好意、愛、感謝」。まとめて言えば、「へセド」は、「相手に 対する、誠実な慈愛(まごころの籠った憐れみ)」「相手(神と人間)に、誠実にまごころを籠めて、最善を尽くし、一番良いことをし、節操を保って、裏切ら ないこと」、そして「誠実で不変な神の愛」を意味するのだということです。(以上、ホームページ「霊とキリスト教」による。)要するに、神の愛、そして、 だからこそこれは神の本質を表わす言葉なのです。「神の慈しみは、敵や困難から人を解放し、死から命を守り、霊的な生活を活気づかせ、罪から人を贖う力だ とされている。」(雨宮慧、カトリック中央協議会『聖書に親しむ』2016年11月20日号より)神様の本質が「いつくしみ」だから、「いつくしみ」を選 ぶことは、即「神を知ること」なのです。神の「いつくしみ」は、イスラエルの民と、すべての人々にまで及んでいます。だからこそ、私たち人間もまた、神を 愛し、またお互い人間同士、隣人を愛し、いつくしまなければならないのです。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ること を喜ぶ。」

 ところが、それがおろそかにされていたのです。イスラエルは神を愛さず、隣人を愛さなかったのです。聖書において「隣人を愛する」とは、ただ個人的な領 域だけの話でありません。それは、常に社会的広がりと深まりを伴っています。この世において、困っている人、乏しさを覚えている人、その尊厳と権利が不当 にも侵されている人を、積極的に守り助けて行かなければならないのです。けれども、イスラエルは、この「いつくしみ」ではなく、「犠牲」を選び「燔祭」を 選んだのです。これは、私たちで言うなら「礼拝」でささげるものを指します。「隣人は愛さないけれど、神様を礼拝をしているからいいでしょう」というわけ です。要するに、イスラエルは「個人の救い」と「宗教」に逃げてしまったのです。このようなイスラエルの姿勢、生き方は、次第にイスラエル自身に危機をも たらして行きます。しかし危機に陥っても、イスラエルは主なる神に立ち帰りませんでした。だから今、預言者によって、神の厳しい裁きが告げられます。「わ たしはエフライムに対しては、ししのようになり、ユダの家に対しては若きししのようになる。わたしは、わたしこそ、かき裂いて去り、かすめて行くが、だれ も救う者はない。」さらに神はこう言われます。「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。」神様は、彼らが 悔い改めて立ち帰って来るまで、ご自分の中に「ひきこもり」、「もう知らないよ」と言われるです。
 これを聞いたイスラエルの人びとは、「脅しと恐怖によって」、「偽りの、雑な悔い改め」をするのだというのです。それが、6章の初めの所です。「さあ、 わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたした ちを生かし、三日目に私たちを立たせられる。―――わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」ここには、民のあまりにも甘い考え、はかな い希望的観測が述べられています。「ふつかの後」「三日目」というのは、「すぐに」という意味です。「神はやさしい方だから、罪を赦してくださる。すぐに でもいやしてくださる」というわけです。
 このようなイスラエルの「甘い悔い改め」を聞かれた神様は、深く嘆かれます。「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに 何をしようか。あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである。」「何をしようか」とは、「何もできない、どうしようも ない」という意味です。だから、神は、前にもまして厳しい裁きを人々に告げられるのです。「それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わが口 の言葉をもって彼らを殺した。」「いつくしみ」を選ばず、「神を知ること」を選ばなかったイスラエルに対しては、これが最後の言葉となるほかはなかったの でした。

 ところが、この神様のもとからイエス・キリストがおいでになったとき、神は「ご自分の場所」から出て来られたのです。「わたしは、わたしの所に帰ってい よう」と言われていた神が、その「所」を出て、あえてイスラエルの民の所に、私たちの所へと出て来られ、やって来てくださったのでした。
 そして、まさにこのことが明らかとなったのです。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」この言葉は、本 来神が人に求めておられる言葉です。しかし今や、神ご自身が喜び、神ご自身が選ばれることを語る言葉として聞き、受け止めることができるのです。「わたし はいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。」人間は、どうしようもない罪のために、神を知らず、いつくしみを選びませんでした。けれども、今主なる神ご自身 は、いつくしみを選び、いつくしみを行われるのです。イエス・キリストは、まさにこの神のいつくしみを宣べ伝え、行い、生きて行かれました。このイエスの 道、イエスの生き方、イエスの生涯によって、私たちは「いつくしみを選ぶ」とはどういうことか、「神を知ることを喜ぶ」とはどういうことかを、教え、知ら され、与えていただいたのです。イエス・キリストこそは、隣人を愛し、「敵や困難から人を解放し、死から命を守り、霊的な生活を活気づかせ、罪から人を贖 う」ことを行い、教えてくださったのです。
 しかしその結果、イエスにはあの十字架が起こりました。それによって、かつて神が人々に向けて語られたことを、神ご自身がお受けになりました。神ご自身 が「かき裂かれ」、「切り倒され」、「殺され」たのです。そして神は、あの偽りで浅薄な人間の悔い改めの言葉を、ひっくり返されました。ご自身の真実を もって、その偽りの悔い改めを乗り越え、逆転させ、満たされたのです。「主はふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたし たちはみ前で生きる。」この言葉を、後に使徒パウロは、イエス・キリストの復活を指し示す言葉として聞き、信じました。人々は安易に「すぐに神は助けてく ださる」と言いました。しかし神は、その人の思いにはるかに先立ち、それを乗り越え、逆転させて、「三日目に」イエスを死の中から起こし、復活させられま した。浅薄な反省と甘い悔い改めが「もうだめだ」あきらめ、投げ捨て、絶望したところから、余りにも早く「三日目に」、神は人を愛し、救い、「み前で生き る」ようにしてくださったのでした。今や、私たちに、神の愛と真実による選びの言葉が響くのです。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。」「わた しはいつくしみを喜ぶ。」

 だからこそ今、私たちにも神は語られます。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
 それはいったいどういうことなのだろう、どのような生き方なのだろうと考えていたとき、この証しの言葉に出会いました。それは、精神障害を持つ人たちが 共に生きる場である「べてるの家」と共に歩んできた一つの教会の話です。「教会の中からもこういう人達に来てもらったら、誤解されて街の人たちから苦情が 来て相手にされなくなってしまうと声が挙がっている中、頻繁に立ったり座ったり、一人でぶつぶつ言い始めたり、そんな人達が教会に集うようになりました。 古くから教会に集う人たちは『昔はこんな教会じゃかなった』というようになってきました。その時、『教会って本当になんだろう』と、問われる毎日が始まり ました。―――べてるの人たちと交わるようになった時、教会に集まっていた人達はお互いの考えの違いや物事の見方の違いでぶつかるようになりました。」そ んな中で、このような気づきが与えられます。「アルコールの子ども達、その親たち、Sさんのような人達―――が教会に来たとき、普段私たちが『隣人』と 言っていた、『祈っている』といっていた、『隣人を愛する』といっていたことの内実を私達は問われました。本当に『信じる』ということは、決して信じやす い形で、信じるに値する形で私達のところには絶対来ないというのが私の学んだ事です。『信じる』とか『愛する』とかは、もっとも愛しにくい形で、もっとも 信じにくい形でしか私達のところには来ない。もっとも愛しにくい、もっとも信じにくい形でもたらされた事のなかで、私達は『にもかかわらず』その中でそれ を信じぬく。それを愛し抜くと言う事が私達のなかで問われているわけです。私達は―――愛しやすい事を愛したり、信じやすいことを知らず知らずのうちに信 じたり、それが愛する事、信じる事だと思ってしまいます。しかし、私達が学ばされた事は決してそうではなかった。決して愛せない形でしか私達のところに愛 は来ないんだ。決してこの人は信じられない。そういう中で信じる事を私達は試されるんだ。そう考えるようになりました。」(向谷地生良「和解の時代」よ り、『弱さの研究』所収)そういう中で、あえて信じることを選ぶ、愛することを選んで行く。それが、あの神の「ヘセド」、「いつくしみ」、愛への、私たち の応答なのではないでしょうか。神は、信じがたいイスラエルを信じ、愛しがたいはずの私たちをイエス・キリストによって愛してくださいました。そしてこう 語られたのです。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。」「わたしはいつくしみを喜ぶ。」

(祈り)
主なる神よ。私たちすべてのものの神よ。御子イエス・キリストをこの世に送られた神よ。
 あなたはご自身、そして何よりイエス・キリストによって語ってくださいました。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。」「わたしはいつくしみを 喜ぶ。」あなたの、この計り知れない愛、その真実ないつくしみのゆえに、私たちもまた、このように語り、生きたいと思います。「わたしたちはいつくしみを 喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」そのようにして互に愛し、共に生きようとする私たち一人一人また教会としてください。
神のまことの言、世の闇を照らすまことの光、救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る