人を喜び、愛する神の知恵が         箴言第8章1〜5、13〜31節
          
  クリスマスを待ち望むアドヴェントの第二週目を迎えました。クリスマスでその誕生をお祝いする救い主イエス・キリストには、いろいろな別名があります。例 えば、「神の小羊」、「世の罪を担う神の小羊」と呼ばれています。また、「マタイによる福音書」には、「インマヌエル」という呼び名が出てきます。これ は、「神、われらと共にいます」という意味です。イエスというのは、まさに「神が私たちと共にいてくださる」という現実を表わす方なのだ、というわけで す。この他にもイエス様の多くの別名がありますが、その中でも特に、「ヨハネによる福音書」が冒頭で掲げる別名は、印象深いと思います。それは、「神の 言」というものです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。で きたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネ1・1〜4)イエス・キリスト は「言」であった、「初めから神と共にあった神の言」であったのだ、というのです。
 この「言」というもののイメージを、皆さんはどのように感じられますか。ここで言われている「言」というのは、言葉は言葉でも、自分の内に静かにじっと 持っている言葉とか、心の中で何度も繰り返して思い語っている言葉というのではなく、もっと動きを持った積極的な感じを受けるのです。もちろん、神様が、 一つの言葉、一つの思いを、じっと熱く思い、ご自分の中で繰り返し語っておられるというのも間違いないと思うのですが、だからこそ、神の言葉、神の思い は、決して静かなままに留まってはいない、必ずあふれ出るように外へと出て行き、他の者たちに向けてきっと語られて行くのではないでしょうか。それをもっ と積極的に、動的に表現すれば、「自分の家から出て行き、町の表に立って、人々に大きく呼びかける言葉」です。「ある人が自分の家に住むように住み、支配 し、それに満足しておられるということもあり得たはずであります。それなのに、この神はその家から出てこられます。通りに出て、他人に声をかけ、ご自分が 住み、支配するそのことにあずからせようとされます。―――ご自身に満足していてよかった神が、ご自身の中から出てこられます。この世の通りに出てこられ ます。この世界を造られます。この人間を造り、その間に住もうとされます。この人間たちの神となろうとされます。」(エドゥアルト・トゥルナイゼン説教、 『光の降誕祭』より)
 それと同じような神の姿、その働きが述べられている旧約聖書の箇所が、まさにここなのです。「知恵は呼ばわらないのか。悟りは声をあげないのか。これは 道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、町の入り口にあるもろもろの門のかたわら、正門の入口で呼ばわって言う、『人々よ、わたしはあなたがた に呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ』。」「神の知恵」というものが、一人の人格のようにして、 町の通りへ出て行き、立って、人々に呼ばわり、呼びかけて、「知恵を得よ」と語るのです。
 さらに、この「神の知恵」は、天地創造の初めから「神と共にあった」と語られます。「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わた しを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、山もまだ定 められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。―――彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。」今日私たちは、 この箴言の言葉を、イエス・キリストを指し示す言葉として聞き、受け止めたいと思います。「神の言」イエス・キリストは、天地創造にも先だって神と共に あった「神の知恵」そのものであり、この「神の知恵」こそは、あのクリスマスの出来事において、まさにこの世の通りに出て来られ、人々に呼びかけ語った 「神の言」そのものであった。

 ところで、この「箴言」において、「神の知恵」とはどのようなものとして考えられているのでしょうか。どんな特質を持ち、どんな働きをするものとして捉えられているのでしょうか。
 その第一は、「知恵は永遠で普遍的である」ということです。初めに引用しました通り、「知恵」は初めから世の「街角に立って」語っているのです。「知 恵」はずっとずっと前から、どこにでもいるのです。神殿や会堂にだけいるわけではありません。家の中にも、町の通りにも、町の外の野原にも。また、知恵は 人を選びません。子どももおとなも、男も女も、主婦も職人も教師も、これに耳を傾けなければなりません。「愚かな者、浅はかな者」さえも、拒まれてはいま せん。彼らこそ、「知恵」の教えを聞いて生き方を改めなければならないのです。また、「知恵」はイスラエルにさえも限られてはいません。エジプトにも、イ ンドにも、中国にも、そして日本にもその働きは及んでいるのです。
 第二に、「知恵は実際的であり、また効果的である」ということです。「知恵」が教えるのは、「あたりまえ」のことです。「わたしは唇を開き、公平につい て述べ 私の口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし わたしの口の言葉は全て正しく よこしまなことも曲がったことも含んでいない。理 解力のある人には それが全て正しいとわかる。」(8・6〜9、新共同訳)「知恵」は「あたりまえ」のことを教えます。正しいこと正しくないことを弁えて 善を選ぶこと、言葉を慎重に真実に語り謙遜に生きること、隣人たちとの間で平和を築いていくこと、世の中で弱く困っている人たちを思いやり助けることを命 じます。「知恵」は、どこか「ほかの世界」に行ってしまうのではなく、この世界の中で生きること、しかも「よく生きること」を勧め、励ますのです。そし て、その「知恵」の言葉に従う効果は絶大です。「わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ。 わたしのもとには富と名誉があり  すぐれた財産と慈善もある。わたしの与える実りは どのような金、純金にもまさり、わたしのもたらす収穫は精錬された銀にまさる。」(8・14、 18〜19、新共同訳)
 さらに第三に、「知恵は喜びと愛に満ちている」ということです。「知恵」は、その初めからこのようであったと言われています。「御もとにあって、わたし は巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。」 (8・30〜31、新共同訳)今まで語ってきたことからすると、「『知恵』というのは、さぞや鹿つめらしく気難しい『お説教屋』だ」と思われるかもしれま せんが、全然そんなことはありません。初めからずっと「神の知恵」は、「日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ」のです。 「知恵」が、世の初めからずっとしてきたことは、「世の人を喜ぶ」こと、すなわち「愛する」ことであったのです。「神の知恵」は人を喜び愛する、なぜなら 神ご自身が人を、全ての人を喜び愛するからです。この愛と喜びは、完全に普遍的であり、全面的であり、無条件です。全ての人への、どんな人に対しても、 「神の知恵」は、「神はあなたを喜び、愛する」と語り告げているのです。

 けれども、ここに、私たちの葛藤とつまずき、さらに挫折があるのです。「なんだ『あたりまえ』か、『神の愛』か、結構なことじゃないか」と思うかもしれ ませんが、全然「結構なこと」ではないのです。「神の知恵」が教える「あたりまえのこと」を、私たちは本当に「あたりまえに」できるのでしょうか、できて いるのでしょうか。むしろ、戒められ禁じられている「愚かなこと」を行ってしまっているのではないでしょうか。ある方はこのように語っておられます。「起 きた結末はどれも、当たり前のことを破壊しています。人間を狙って発砲するのは、知恵あることではありません。非常に、非常に愚かなことです。餓死する人 はどの人も、当たり前のことが破壊されたのです。人間を餓死させることは、知恵のあることではなく、非常に、非常に愚かなことです。」(『エーバハルト・ ユンゲル説教集2 霊の現臨』より)すべてのあらゆる人は神に創られ神に愛されているのですから、すべての人がその存在を尊重され、価値を認められて、欠 乏や不当な目にあわず、幸いに生きることが「当たり前」のはずですが、私たちが目にする現実、もっと言えば私たちが関わり形づくってしまっている現実は、 そうなっていません、全然そうなっていないのです。
 だからこそ、イエス・キリストが来られました。「当たり前」でない世の中に、全然「当たり前」でない私たちに、「神の当たり前」を伝え、行い、与えるた めに、「神の言」「神の知恵」そのものであるお方があえて来てくださり、「表通りに立って」、語り、行い、生きてくださったのです。「人を喜び、愛する神 の知恵」が、一人の人間となって、ナザレのイエスとなって、私たちのただ中へと来てくださったのです。「当たり前」という言葉を言い換えた、「道理」「す じみち」という言葉があります。「ヨハネによる福音書」の冒頭を、そのように解釈し、理解された方があります。「太初に理(すじみち)があった。理は神と 共にあり 理が神であった。―――理は肉となってわれらの間に宿り われらはその栄光をつぶさに見た。」「神はこの世界と人間を『理=すじみち』のあるも のとして造られました。しかし、人間はこの『理=すじみち』をねじ曲げ、踏みにじって理不尽な世界にしてしまいました。イエスは、神に似せて作られた本来 の人間性(すじみち)を表現する人として神から送られたのです。だから、イエスの在りように、神のこころが映し出されています。」(渡辺英俊『私の信仰 Q&A キリスト教って何だ?』より)

 こうして、「神の言」「神の知恵」たるキリストは、この世に来られました。そして、今日も「町の通りに立って」、呼びかけ語るのです。「あなたを、神は 喜び、愛する」。このように語って、生きる道は、決してたやすいものでありませんでした。「当たり前」でない世の中で「当たり前」を語って生きることは、 葛藤や対立、さらには憎しみや争いを引き起こします。それらが束となって、イエスの上に襲いかかったのです。それは、イエスにとって十字架の辱めと呪い、 そして死を意味しました。イエスはそのようにして、この世のすべての罪と悪を自ら引き受け担い、そしてそれを克服されたのです。このイエスが神によって復 活させられ、今も私たちと共にあり、共に生き、共に歩んでおられます。「神の知恵」そのものであるお方が、今日も私たちに「神の当たり前」を語り、教え、 与えてくださいます。「あなたを、神は喜び、愛する」。そしてそれをすべての人に向けて、語っておられるのです。「あなたを、神は喜び、愛する」。この呼 びかけ、語りかけを聞いた私たちも、このお方の声に続き、それに倣って、この「神の知恵の言葉」を、互に語り合い、またすべての人に向けて語ろうとするの です。「あなたを、神は喜び、愛する」。
 それは、一つの具体的な表われとして生きられるのです。「パウロがそこで展開した『宣教』とは、『いっしょにメシを食う』運動であった。パウロの福音 は、すべての人が『罪人』であるという点でまったく共通であり、キリストの名において同じテーブルに招かれていることを告げ、共に食卓を囲むことを可能に するものであった。」(渡辺英俊「地べたに在す神―――寿町」より、『低きに立つ神』所収)「すべての人が神に愛されている」のが「当たり前」なら、「す べての人が安心して食べられる」こともまた「当たり前」のはずなのだからです。「『初期キリスト教宣教の革命的性格は、とりわけ、キリスト教共同体におい て存在するようになった新しい関係において現された。ユダヤ人とローマ人、ギリシア人と未開人、自由人と奴隷、富める者と貧しい者、女と男が、お互いに兄 弟姉妹として受け入れた。』厳しい差別社会であり階級社会であった当時の世界にあって、そうした隔ての壁を越え、お互いを人間として認め合い、受け入れ合 う交わりが存在していたことがキリスト教会の大きな魅力だったというのです。―――『彼ら(キリスト者)がこの世をまとめる方法は、明らかに、すべての人 に対する愛と奉仕の実践であった。―――初期のキリスト者が、貧しい者、孤児、やもめ、病人、鉱山労働者、囚人、奴隷、旅行者の世話をした注目に値する光 景―――』ここでは過酷な現実の中で苦しむ人々に対するキリスト教会の愛と奉仕のわざが、人々を引きつけていったと記されています。」(越川弘英氏)「人 を喜び、愛する神の知恵」が、「表通り」へと出て来られたのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストをこの世へとあえて送られた神よ。
 主イエスは、「神の言」「神の知恵」そのものであられました。「神の知恵」である方が、私たちのただ中に来られ、語り、生き、死に、そして復活されまし た。「神の知恵」は、今日も私たちに語ってくださいます。「あなたを、すべての人を、神は喜び、愛する」。この呼びかけを、また新しく聞く、このアドヴェ ント、クリスマスとなりますよう、私たち一人一人また教会を導き、送り出し、用いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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