新しき歌を主に向かって歌え         詩篇第98編1〜9節
          
 今日から4週間にわたるアドヴェントの季節が始まります。救い主イエス・キリストの誕生、この世への到来を、信仰によって待ち望む時期です。
 その開始にふさわしい、神への賛美への招き、喜びへの励ましと促し、また歌うことへの力強い呼びかけが、この詩篇です。「新しき歌を主に向かって歌 え」! ある方のこの詩篇の翻訳では、この詩に題名が付いており、それは「来たりたもう神」ということです。またある聖書の解説書によれば、(私たちが歌 う多くの賛美歌には、だいたい聖書の元の箇所があるものなのですが)、これはまさに、あの「もろびとこぞりて」の源となった詩篇なのだというのです。そこ で、歌と詩とを組み合わせて、その呼びかけを聞いてみましょう。「諸人こぞりていざむかえよ、新しき歌を主に向かって歌え」! 
 「新しき歌を主に向かって歌え、主はくすしきみわざをなされたからである。」これは「詩篇」なのですが、ここには「預言者的」言葉遣いと響きがありま す。ここで歌い手は呼びかけます。「主はくすしきみわざをなされたからである」。「主はなされた」、これは過去または完了の言い方ですね。けれども、実は 未来のことを言っているのです。けれども、神様の言葉であり御業ですから、いったん約束され語られ宣言されたならば、それは将来必ず実現する、と信じるの です。だから、本当は未来のことなのだけれども、それがもう既に到来し実現してしまったかのようにして、「過去」または「完了」の形で語るのです。「主は くすしきみわざをなされたからである」。だからこそ、必ず成されるであろうその神の業、神による出来事の喜びを、もう今から、もうここから先取りして喜 び、歌いなさい、と語りかけるのです。「新しき歌を主に向かって歌え」!

 ここで注目すべきは、「新しき歌を」歌え、とあることです。ただ「歌え」「歌いなさい」というのではなく、「新しき歌を」歌おうではないか、歌いなさいというのです。なぜ、「新しき歌」なのでしょうか。いったい何が「新しい」のでしょうか。
 「新しい歌」、それは主なる神の御業が、私たちの従来の考えや常識、価値観や選択、また私たちの信仰とそれに基づく生活をすら越え、乗り越えて行くから です。私たちがすでに知っていること、当たり前だと思っていること、半ば習慣のようにいつも変わらずやっていることなら、古い言葉で、古い歌詞、古いメロ ディ、古い調子で、いつものようにさっと歌うことができるでしょう。けれども、神の御業と神による出来事とは、全く新しいのです。私たちの思いと考え、価 値観と基準、さらには私たちの信仰と礼拝をすら越え、ひっくり返し、乗り越えて行ってしまうからです。「主はくすしきみわざをなされたからである。その右 の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。」全く新しい神の御業に対しては、全く新しいリズム、新しいメロディ、新しい歌詞が必要なのです。だ からこそ今、私たちにも向かって呼びかけられるのです。「新しき歌を主に向かって歌え」!

 今日私たちは、その「くすしきみわざ」を、まさにあの「クリスマスの出来事」として受け止め、解釈し、読み、歌いたいとと思います。「新しき歌を主に向 かって歌え。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手とは聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。主はその勝利を知らせ、その義をもろ もろの国民の前にあらわされた。主はそのいつくしみと、まこととを、イスラエルの家にむかって覚えられた。地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見 た。」
 「主はくすしきみわざをなされた」、どんなにしても、私たちが理解することも信じることもできないことを神はなさった。私たちの常識では思うことも考え ることもできず、私たちの価値観や基準では受け入れることも評価することもできないことを、神はなさった。なんと神ご自身が、この世に来られた。しかも、 神ご自身が、まぎれもない一人の人、全くの人間となってこの世に来られた。それは、神の圧倒的・最終的な「勝利」であり、神の尽きず変わらない「いつくし みとまこと」の啓示、完全な現われであり、しかも「地のもろもろのはて」までも、地のすべての人々がその御業を見、その神のいつくしみを知ることであった のです。
 しかも神は、この御業を、それこそ私たちがだれも思いもよらない、驚くべき仕方、意外な方法、あり得ないと思えるまでの道によって行い、実現し、成し遂 げられたのでした。神は、一人の幼子として来られたのです。神は、全くの弱さと力なさとを持つ一人の幼子として、この世に来られたのでした。それが、あの ベツレヘムの飼い葉おけに生まれたナザレのイエスであったのです。
 この世の中心ではなく、「地のもろもろのはて」と言われているような所にいる人々に、この「みわざ」はまず起こり、知らされました。あるパレスチナ人の 牧師が、現代のイスラエル軍によって不当にも暴力的に支配され占領された、1987年のベツレヘムでのクリスマスにおいて語りました。「私たちはサンタク ロースを歓迎する気にも贈り物を開ける気にもならなかった。―――その代わりに聖書は、枕するところをもたない難民の子どもの物語に言及する。それは、真 に人間の子どもであり、美しいばら色の平和な世界にではなく、ちょうど私たちのように非情な世界に生まれてきた。聖書のクリスマスの物語は、やはり生命を 否定され、生命を危険にさらされた子どもの誕生の物語を告げる。―――神は、その子どもと共に世界にやってきた。神自身が、私たちパレスチナ難民のように なる。神は、私たちの一人のように、その故郷を追われたもののようになる。神はまさにこの占領の時、私たちときわめて近いところにいる。さらに、神は私た ちの苦しみを他のだれよりも理解する。神自身がこれらの苦しみを味わったためである。―――それで私たちは、この恐るべき状況においてさえ、見捨てられて はいない。私たちの前にこの道を下った人がいるので、私たちは一人で行かなくてもよい。神はこの世界に、きわめて小さく無力な赤ん坊として入る。しかしま さにそうして、神はこの世に勝利する。」(ミトリ・ラヘブ『私はパレスチナ人クリスチャン』より)

 「地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た」。だからこそ今、大きく、高らかに呼びかけられるのです。「新しき歌を主に向かって歌え」!「全地 よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。琴をもって主をほめうたえ、琴と歌の声をもってほめうたえ。ラッパと角笛の音を もって 王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。海とその中に満ちるもの、世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。大水はその手を打ち、もろもろの山は共に 主のみ前に喜びうたえ。」この賛美への呼びかけは、「もろびとこぞりて」どころではなく、この世界に住むあらゆる動植物、さらには「水」とか「山」などの 物たちまでも、「共に歌え」と大々的に呼びかけられています。そうして、まさに全世界が神とその御業を賛美して歌うのです。
 そしてこの歌と賛美とは、本当に未来へと、神による将来へとつながって行きます。「主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさば き、公平をもってもろもろの民をさばかれる。」「主はきませり」、イエス・キリストはかつて来られました。そしてまた主は、やがて再び来られます。それは 「義と公平」とをもって、同時に「いつくしみとまことと」をもって、すなわち神の愛と真実とをもって、この世界を正しく裁き、救ってくださるためです。神 の国を来らせ、新しい天と新しい地を完成なさるためです。その日、その時、まさにこのことが、完全に実現するのです。「地のもろもろのはては、われらの神 の勝利を見た」。

 今私たちも、この詩篇と共に、預言者的な信仰と賛美、礼拝へと招かれ、呼びかけられているのです。この「来たるべき日」の救いとその完成とを、もう今こ こから先取りして信じ、受け取って、神ご自身を喜び、たたえ、歌うことへと招かれ、促され、求められているのです。「新しき歌を主に向かって歌え、主はく すしきみわざをなされたからである。」
 それはまた、もう今ここから「その日」を先取りして生きることでもあります。いえ、その言い方はふさわしくありません。もう主イエス・キリストは現に私 たちのこの世界に、この私たちのところに既に来てくださったのですから、そしてそのイエスは復活された方として今ここから私たちと共におり、共に生き、歩 んでいてくださるのですから、私たちは今ここから「イエスが共にいてくださる者たち」として生きるのです。
 「クリスマスを迎える度にあちらこちらを見てみると、クリスマスを利用した販売合戦、豪華な食事の会合、自分の家族だけの幸福を求めた家庭でのクリスマ ス、食と金、利己という人間の欲望がうず巻いているクリスマスが目に入ってきます。―――クリスマスはイエスさまのお生まれになった日です。そして、その 時、真の愛が生まれたのです。その愛をイエスさまは苦しみ、悩んでいる人たち、少数側に立たされて、人間として疎外されている人たちに優しく、温かく注が れたのです。イエスさまは私たち人間の上に立って救われたのではなく、私たちの所に来、共に生活をされて喜ぶ者と喜び、悲しむ者と悲しみ、歩まれたので す。そして、言葉で愛を語られたのではなく、その行動の中で神の愛を示されたのです。クリスマスとは、優しい愛を行動する日なのです。だからこそ、私たち はクリスマスの日一日だけでも、自分を幸福にし、得をしようとする金もうけや利己的な行動という人間の欲から離れ、悲しみや苦しみに打ちひしがれている人 たちと共に歩むことが大切なのではないでしょうか。」(福井達雨『僕アホやない人間だU』より)これが、私たちにとっても、「新しき歌を歌って生きる」と いうことではないでしょうか。
 私たちも、このアドヴェントを、この呼びかけに答えるこの歌をもって始め、進んで行きましょう。「新しき歌を主に向かって歌え、主はくすしきみわざをなされたからである。」

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 今日から御子の降誕を待ち望む季節、アドヴェントが始まりました。御子イエスは、待ち望まれ、そしてついに来られました。しかも、まったく私たちの思い と計画と願いとを超えた方法と道とによって。あのベツレヘムの飼い葉おけへと、そして世の「いと小さき者たち」、罪ある者たちと共に、また罪と死にも打ち 勝って世の終わりまですべての日々に私たちと共に。
 それゆえ、今、私たちには「新しい歌」が与えられています。この「新しい歌」を、共に歌い、喜び、あなたをたたえることがゆるされています。それと共に、あなたが出会わせられる隣人と、共に歌い、共に喜び、共に生きることが、招かれ、促され、求められています。
 どうかここから始まるアドヴェントの日々、この「新しい歌」を聞き、学び、習うことから始めさせてください。少しずつ、一歩ずつ、この新しい響きとメロディ、調子に慣れ、その歌の輪に勇気をもってて加わって行く、私たち一人一人また教会としてください。
ベツレヘムの飼い葉おけの幼子、全世界の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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