今から後、主にあって死ぬ者は幸いである     
           
ヨハネの黙示録第14章1〜7、13節
          
  今日、この召天者記念礼拝において私たちが共に覚え、記念している召天者の皆様について、この聖書の言葉を掲げたいと思います。13節「またわたしは、天 からの声がこう言うのを聞いた、『書きしるせ、「今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである』。」「主にあって死ぬ者は幸いである」。「主」とは、私たち 一人一人、また全世界のすべての人の救い主イエス・キリストのことです。「主にあって死ぬ者は幸いである」、イエス・キリストへの信仰をもって、あるいは イエス・キリストの導きと守りのうちに死ぬ人は幸いである。今日ここに共に覚えている方お一人一人は、まさにそのように「主にあって」、イエス・キリスト への信仰のうちに、あるいはイエス・キリストの守りと導きのうちに、この世の生涯を終えて行かれたことを、確信しているのです。だからこそ、私たちは今 日、共に信じまた言いたいと思います。「主にあって死ぬ者は幸いである」。

 この「ヨハネの黙示録」において、なぜ、このような言葉が語られ、告げられているのでしょうか。「黙示録」のこの言葉を聞いた人々が生きていた状況、そ れは苦難の時代でした。それは、紀元後1世紀の終わり頃、90年くらいの時の、地中海を中心とする世界でのことです。その時代、様々な苦しみ、苦難が世界 を覆っていました。
 まず、数多くの自然災害が世界とその人々を襲いました。「90年代始めの飢饉では、犠牲者が出た。大地自体、不安定な様相を帯びていた。60年代、アジ ア(注 現在のトルコ)での多くの地震は国土を荒らした。79年には、ウェスウィウス山が噴火し、ポンペイや近隣の町々を埋め尽くし、広がる黒雲を生み出 した。このことは、帝国中に不吉な予感と驚きを呼び起こしたのであった。」(М.E.ボーリング『現代聖書注解 ヨハネの黙示録』より)
 また国の中での、貧しい者・弱い者たちへの抑圧が強まり、苦しみが広がっていました。「一世紀はパックス・ロマーナの時代です。地中海沿岸地域は、この 『ローマの平和』の支配の下、かつてない繁栄と安定を享受しました。イタリアから移住した属州のエリートたち、とりわけ船主や商人がこの繁栄に与ったと言 われています。小アジアの諸都市においても、一握りの特権的少数者はローマの国際交易によって多大な恩恵に浴すことができましたが、都市の圧倒的大多数の 住民は悲惨な抑圧と貧困の中で生活せざるを得ませんでした。」(笠原義久『ヨハネの黙示録を読む』より)
 そして、そのような時代状況の中で、キリスト教会とそこに連なる信仰者たちは、大小様々な社会的また政治的迫害を受け、信仰のゆえの、イエス・キリスト を信じればこその試練と苦しみに直面していました。「キリスト者は災害に対するスケープゴートとなるにはあつらえ向きの候補者であった。ネロは公然の抗議 なしに、キリスト者を放火罪で告発し、逮捕し、その中の多くの者を処刑できたのであった。―――ヨハネの時代と場におけるキリスト者は、しばしば社会的・ 経済的な差別を受け、多かれ少なかれ常に緊張と攻撃にさらされ(異教文化の中でキリスト者であろうとすることから生じるもの)、そして自然発生的な集団暴 力や財産の略奪を受けていたのである。」(ボーリング、前掲書より)
 そんな中で「死ぬこと」は、一般的・常識的には、当然に「つらく苦しいこと」「悲惨なこと」「呪われたようなこと」と受け取られていました。そんな中で は、「天寿を全うして、苦しみもなく、眠るように」などという死に方ではなく、人生の中途で、理不尽にも断ち切られたように、中断される命が数多くあった ことでしょう。また、やるせなく、やり切れない、到底受け入れがたい形、仕方で死んで行かねばならない者たちが数多くいたに違いありません。

 そういう時代の中で、そういう社会の中で、そういう状況のただ中で、今こう言われるのです。苦しみと悲しみ、嘆きのただ中にいる者たちに対して、今天からこの声が響き、この言葉が語り告げられるのです。「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである』。」
 なぜでしょうか。いったい、なぜでしょうか。
 まず何より、そのような苦難の中での死であっても、そこに主である方、イエス・キリストが、死に行く者と必ず共にいてくださるからです。「主にあって」 という言葉は、また「主イエスに結ばれて」とも訳されます。イエス・キリストが、死に行くその人と、ご自分とを堅く強く結んでくださるのです。「あなたは 決して一人ではないよ、わたしはあなたが死に行くこの時もあなたと共にいるよ」、「そしてあなたを、わたしと共に愛と真実の神のもとへと必ず連れて行く よ」と、約束していてくださるのです。
 それゆえにこそ、「主にあって」、主と共に行く人は、明確な信仰と希望とをもって旅立ち、死に行くことができるのです。ガンの病を負ってこの世を去って 行かれた、山川千秋という元アナウンサーの方がおられます。このお方によって残された証しの言葉です。「千秋さんは死の恐怖、不安から逃れるため、安心し て死ぬためには一体どうすればいいのか必死に考えていました。私は、その答えは人間によっては絶対に与えられない、それができるのは神、すなわちイエス・ キリスト以外にない、と言いました。―――やがて彼の表情は穏やかなものとなり、私が、人は病気によって死ぬのではなく、神がわたしの所に来なさい、と言 われた時が死ぬ時です。それは最善の時であり、死は終わりなどでは決してなく、キリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです、というと、素直にうなず いておられました。」(山川千秋・穆子『死は「終り」ではない』より)
 またそれは、死に行く人を送り、残された人たちのための言葉でもあるのです。残された者たちも、たとえ悲しみや寂しさ、また後悔や自責の思いの中にあっ てさえも、こう信じ告白して、召されて行った人を、主なる神の慈しみの御手に委ねることができるからです。「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」。
 今日私たちが共に覚えています召天者お一人一人もまた、この約束と希望のうちにそれぞれの生涯を終え、神のみもとへと召されて行かれたのです。「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」。

 ただ、この言葉は、その文字通りには、ある意味で「消極的な言葉」です。「こんな時代だから」「こんな大変な時だから」「こんなひどい状況だから」、そ んな中でも、イエス・キリストの助けと導きをいただいて行けるのだから、まあせいぜい最後だけはそんな大きな恵みをいただいたのだから、これだけは言え る、「主にあって死ぬ者は幸いである」。でも、もしこれだけであるならば、確かに素晴らしいこと、大変大きな恵みであることには間違いないのですが、それ でもやはり「消極的な言葉」であるのではないでしょうか。
 そこで今日は、もう少しこの言葉を広げて、この言葉をより積極的に聞き、受け取ることをしてみたいと思います。「主にあって死ぬ者は幸いである」という この言葉に、暗に含まれていること、いや、もっとはっきり確実に含まれ、語られ、約束されていることは、これではないでしょうか。「主にあって生きる者は 幸いである」。「主にあって死ぬ者は幸いである」なら、なおさら、そしてはるかにまさって、「主にあって生きる者は幸いである」のではありませんか。死ぬ その時だけ幸いである、というのではない。もちろん、それはとてつもなく、大きな、驚くべき幸いです。けれども、イエス・キリストの神が私たちに与えてく ださる幸いは、もって大きく、広く、豊かなのです。「主にあって生きる者」、イエス・キリストの信仰を与えられて生かされ、生きる者、イエス・キリストの 絶えざる助けと導きの内に人生を歩み、歩み続け、歩み通すことが許された者たちは、幸いである、まことに幸いであるのです。そして今私たちは、こうして共 に覚えている召天者の方々について、疑いもなくこう語ることができるのです。「こうして主にあって生きたこの人たちは、まことに幸いであった」。
 いったいなぜでょうか。それを示し、教えてくれるのが、この14章の初めにある「小羊の幻」です。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山 に立っていた。見た、十四万四千人の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激し い雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしのきいたその声は、琴をひく人が竪琴をひく音のようでもあった。彼らは御座の前、四つの生き物と長老た ちとの前で、新しい歌を歌った。」「彼らは純潔な者である。そして、小羊の行く所へはどこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂とし て、人間の中からあがなわれた者である。」
 この不思議な光景が意味し、指し示しているのは、この人々はどんな苦難の状況、時代、社会、世界、そして人生にあっても、「小羊」イエス・キリストと共 なる勝利と栄光を見せられ、受け、そして自らもまたその勝利と栄光の中へと招かれ、参加させられ、共にそれを経験することを許され、許されたのだというこ とです。それは、何より「神のもの」、神の愛する子とされ、「イエス・キリストのもの」、イエスが共に生き、歩んでくださる人生そのもの、その道を与えら れ、歩んだのだということです。だからこそ、こう言われるのです、「主にあって生きる者は幸いである」。
 だからこそ、彼らは「小羊と共におり」、「小羊の行く所へはどこへでもついて行く」のです。十字架につけられて死んだイエスは、三日目に復活をされ、 「シオンの山」において、天において世界を支配されていると同時に、見えない仕方で復活の主として今もこの世のただ中を歩んでおられます。イエスが生き、 歩み、働いておられる場所、道、人々が、この世の中には特に存在するのです。そこへと、その道へと、その人々へと、イエスと共に送り出され、イエスと共に 働き仕え、イエスと共に生かされ生きる。そのような生涯を彼らは歩み、また私たちも歩むようにと呼びかけられ、招かれ、促されているのです。だからこそ、 こう言われるのです、「主にあって生きる者は幸いである」。
 それだからこそ、彼らの人生は「新しい歌を歌って」生きるものとされるのです。「新しい歌」、いったい何が、いったいどこが「新しい」のでしょうか。そ れは、まったく「新しい愛」、古い生き方の私たち人間がほとんど、いやまったく知らなかった、神の愛、無条件で限りない神の愛と赦し、その神と共に生きる 命を知らされ、知った「新しさ」です。またそれは、あらゆる人間の「最後の敵」である死、この死をも乗り越えて勝利する愛、命があることを知った「新し さ」です。そしてついにそれは、「新しい天と新しい地とが来る」、この罪と悪と不公正に満ちた古い世界に替わって、神によってだけもたらされ、来たり、完 成される「義の住む」、そして愛と慈しみに満ちた「新しい天と新しい地」がやがて間もなくやって来ることを知らされた、全き「新しさ」です。
 ある意味で、この「幸い」は隠されていますし、この召天者の方々の場合も、それは「隠されていた」と言えるかもしれません。そこまではっきりと私たちは それを知ることができなかったし、苦難や試練によってそれはあまりわからないものとなっていたかもしれないのです。しかし、「来たるべき日」、このことは はっきりと現われ、余すところ明らかにされるのです。「主にあって生きる者、生きた者は幸いである」。「来たるべき日」、終末の時、「新しい天と新しい 地」が来たり完成する時、このことは明らかとなり、まことに「小羊」と共なる勝利と栄光へと至るのです。「主にあって生きる者は幸いである」。

 この幻の中で、天から神の御使いが大声で全世界に呼びかけ、伝えます。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、 あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきた からである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。」この「福音」、「良き知らせ」は、ただ一部の、狭い範囲の人たち、特殊なグループの人 たちにだけ与えられ、知らされたものでありません。それは、「全世界」の「あらゆる」人々に向けて語られ、宣べ伝えられるべきものです。この召天者の方々 は、その証人です。そして、今この私たちもこの約束と希望の証人とされることができるのです。「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」、だからまた 「主にあって生きる者は幸いである」。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 主イエスの全生涯、その十字架の道、また死と復活とによって、あなたは私たちの前に新しい道を開き、新しい命、新しい生き方を開いてくださいました。 「主にあって生きる者は幸い」、それゆえにこそ「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」。この福音を、今日ここに集った一人一人、とりわけ召天者の皆 さんとそのご家族とに語り、聞かせ、また信じさせてください。それによって私たちと教会が、この「福音」を全世界に宣べ伝えることに仕える「証人」とし て、ここからあなたによって立てられ、送り出され、用いられて行くことができますよう、お導きください。
復活にして命なる全世界の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る