イエス・キリストの日を目指して生きる力 ペテロの第一の手紙第1章3〜9節
「人を見て法を説け」という言葉が、仏教にあるそうです。「相手の性格や時と場所をのみこんだ上で、その人に最もふさわしい方法で説得し、対応せねばなら
ぬことをいう。釈迦(しゃか)が仏法を説くときに、それぞれの人に応じた方法で説法したという故事による」ということです(imidasホームページによ
る)。聖書は、まさにそうです。相手を見て、聞く者たちの状況と性質を見て、必要なことを語るのです。聖書の最初『創世記』に、天地創造の記事があります
ね。あそこでも、まさにそうなのです。創世記1章は、バビロン捕囚期に書かれたと言われています。その時、イスラエルの民は、みじめな苦しみのどん底に沈
んでいました。バビロンの王だけが「神のかたち」とされてあがめられ、とりわけイスラエルのような者たちは奴隷であり、人ですらないと言われていました。
その時、聖書は「人間は皆、あなたがたは、尊い神のかたちに創られた」と告げるのです。また同じ創世記の2章は、もっと前の時代、ソロモン王の頃にさかの
ぼるとされています。その時、国は栄光の絶頂で、人々は富み傲慢になり、「人間はすばらしい、人間には何でもできる」と思い込んでいました。その時には、
聖書は「人は土のちりに過ぎない、ただ神の息を吹き込まれてはじめて生きることができる」と語るのです。
今日の聖書の箇所も、まさにそうなのです。ここには、いわゆる「いい言葉」がたくさん出てきます。「救い、栄光、尊い、さんび、ほまれ、輝き、喜び」な
どなど。これは、いったいどういう人たちに語られたのでしょうか。どういう状況、どういう経験の中にある人々に向けて語られているのでしょうか。順風満帆
の人、何の悩みも苦しみもなく、万事至って順調、そんな人たちへの言葉なのでしょうか。
いいえ、全然。むしろ、これは苦しみと困難、試練さらには迫害の中にいる人々、教会に向けてこそ語られているのです。6節に、「今しばらくのあいだは、
さまざまな試錬で悩まなければならないかもしれないが」とあります。しかし、これは全然「もしも」という仮定の話ではありません。現に、大いに悩んでいる
のです。というより、「悩まされている」のです。人々、社会、国家によって、苦しめられ、悩まされ、迫害されていたのです。この手紙は1世紀終わり頃のも
のと考えれています。その時期には、たびたび迫害が起こったとされています。散発的な小さなものから、ローマ帝国が主導した大規模で組織的で厳しいものま
で。その中で、この手紙に出てくる言葉によれば、「不当な苦しみ」「苦痛」「悪人呼ばわり」というようなことが頻繁に起こっていたのだと思われます。さら
には、ここに「火」という言葉がありますが、その試練は「火のような」激しく厳しいものだったのでしょう。また「しばらくのあいだは」とありますが、その
ような苦しみのただ中に置かれるとき、人はただ試練だけ、苦難だけを狭く見るようになってしまい、「いつまで」「いつまでも」という気持ちになってしまい
ます。そのような人たち、教会に向けて、この手紙は慰めと励ましの言葉を贈っているのです。「神は、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、わたし
たちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ」てくださり、「あなたがたは、信仰により神の御力に守られているのである」と。
そして、その当時の教会の人びとが経験していた苦しみの中には、「信仰のゆえの苦しみ」というものが、当然に、そして確実にあっただろうと思います。3
章14節には、「義のために苦しむ」という言葉があります。そして、この手紙全体の基調がまさにそうなのです。「義のために苦しむ」、イエス・キリストへ
の信仰を持ち、それによって生きる限りにおいて、それだからこそ苦しむ、そしてあえてその苦しみを引き受け、負って行くということが、私たちの信仰、それ
に基づく生き方の中にもあるのです。それは神のためであり、また隣人、人々のためです。
船戸良隆という牧師の先生がおられます。この方は、いわゆる狭い意味での伝道者の働きと共に、社会的な様々な働きを担って来られた人です。「私は
1965年、東京神学大学を卒業して以来、2年半を東京足立区の聖和教会に仕えましたが、それ以降、ベトナム孤児救済、日本キリスト教海外医療協力会、ア
ジアキリスト教教育基金など、いわゆる社会的活動に従事してきました」。(船戸良隆『我が国籍は天に在り』より)この船戸先生が、このような証をしておら
れます。「後に、私は日本キリスト教海外医療協力会で働くのですが、その時も同じことを考えました。医師や保健師などの働き手が高い志をもってアジアの貧
しい地域に赴くのですが、私が働き始めた当時、多くの方が現地で疲れ果ててしまうという深刻な問題がありました。ワーカーは、やってもやっても成果が出な
い現実にぶつかっていました。例えば、結核治療のために薬を渡しても、少し良くなるとその薬を売って生活費の足しにしてしまう。時を経てまた悪くなって
やってくる。そのころには薬の耐性ができていて、以前の薬は効かない。そういう、積んでは崩すの繰り返しに、まいっていたのです。そうした本当に厳しい状
況で働くことを迫られた時、人に良いことをしたいという単純な思いだけで自らを支え続けることが難しいわけです。」(同上)しかし、そもそもそそんな「厳
しい状況」に、なぜわざわざ行くのでしょうか。苦しみ、悩み、ついには挫折するかもしれないことが分かっているのに、なぜ。それは、その人がクリスチャン
の場合は、まさに「信仰のゆえ」です。イエス・キリストを信じるがゆえに、あの「良きサマリヤ人」のように、苦しみ倒れている人を放って置くことができな
い。だから、あえてそのような場へと出かけて行って、苦しみを引き受け、担うということが起こるのです。でも、そこはやはり大変な試練と困難、苦難の場で
あって、その人は悩み、苦み、疲れ果ててしまうことにもなります。
だからこそ今、「ペテロの手紙」は、そういう人々に向けて神の慰めの言葉を書き送るのです。この手紙は、そういう人々の目を、「天」に向けさせるので
す。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それに
より、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐものと
してくださったのである。」ここでは、主なる神が、イエス・キリストによって与えてくださった恵みが、ある意味で極めて「世俗的に」、でもとても分かりや
すく表現されています。それは、「資産」であると。ずいぶんとストレートな表現ですね、「資産」。私は「資産」とまで言えるような多額のお金を持ったこと
はありませんが、でも分かります。それはとても価値の高い、大きなものなのだと。イエス・キリストの救い、その恵みは、それほどのもの、いや、それ以上の
ものなのだ。イエス・キリストの復活とその力、私たちに与えられた新しい命、それに基づく朽ちず汚れず、しぼむことのない希望こそは、この世のあらゆる
「資産」よりも優れた、それにはるかに優るものなのだ。
「資産計画」というものがあります。「資産」というようなものは、行き当たりばったりで使ってはいけない、しっかりと計画を持って運用・活用しなければ
ならないということでしょう。神の「資産計画」は、はるかに確かでしっかりとしたものです。それは、今「天にたくわえられて」いますが、それは私たちの手
に届かず一切使えないようなものではありません。それは、今現在、信仰者たちを「神の御力によって守り」ます。またそれは、このさまざまな試練、苦しみの
中でも喜びを与え、火のような試錬、迫害の中でも、かえって信じる者たちの信仰が「金よりもはるかに尊い」ことを実証し、明らかにします。そしてついに、
「終りの時」「イエス・キリストの現れるとき」、「イエス・キリストの日」に、その完全な姿を現すのです。「イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光
とほまれに変るであろう」。
イエス・キリストへの信仰に生かされ、生きる者たちは、その日「イエス・キリストの現れるとき」を目指して生きるのです。逆の角度から言うならば、「イ
エス・キリストの日」を目指すことが、私たちに、苦しみ・試練・困難の中にあっても、生きる力、生き抜く力を与えてくれるのです。それは、いったいどんな
力なのでしょうか。
それは、何より「大いなる喜びの力」です。「さまざまな試錬で悩まなければならないかもしれないが、あなたがたは大いに喜んでいる。」「あなたがたは、
イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。」「喜
び」というのは、それ自体が、それそもそもが力であると思います。パウロが「ピリピ人への手紙」で、たびたび「喜び」を語ります。私たちは、それが獄中か
ら、彼が捕らえられている中から書き送った手紙だと知るときに、「すごい」と思うでしょう。「喜び」にはそのような力があるのです。苦しみに耐え、かえっ
てそれを引き受け担い、ついには乗り越え勝利させる力が、「喜び」にはあるのです。
またそれは、「現在の苦しみの経験に意味付けを与え、生きる姿勢を整え、強める力」です。「イエス・キリストの現われるとき」を目指すことが、そのよう
な力を与えるのです。どんな意味付けをすることができますか。「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるか
に尊いことが明らかにされ」。この経験は、この信仰のこの上ない「尊さ」を明らかにするのです。また、その「時」を目指すことは、私たちに「見通し」を与
えるのです。「その時には、これはさんびと栄光とほまれとに変わる」。パウロがもっとうまく言ってくれています。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生
み出し、錬達は希望を生み出すことを知っている。そして希望は失望に終ることはない。」(ローマ5・3〜5)
さらにそれは、「生きた、大いなる希望を与える力」です。この手紙は言いました。「神は、イエス・キリストによって、私たちに『生ける望み』を与えてく
ださった」。「ヨハネによる福音書」に、「生ける水」という言葉が出てきます。「生きてない水」「死んだ水」というのは、砂漠に雨が降った時だけ湧き出
て、でもまた渇き枯れてしまう水のことだそうです。それに対して、「生ける水」とは、砂漠の中でも、雨が降っても降らなくても、こんこんと湧き出で、決し
てかわくことも尽きることもない水、泉のことなのです。「希望」も同じです。私たちが普通に、常識的に言う「希望」とは、いいことのありそうな時、見込み
があってよさそうな時だけ生じて、持つことのできるものです。でも、そんなものは「本当の希望」「生ける望み」ではありません。「生ける望み」とは、どん
な時でも、雨が降っても降らなくても、たとえ苦しみや試練の中であってさえも、「朽ちず汚れず、しぼむことのない」ものであるはずです。「イエス・キリス
トの日」を目指して生きることが、まさにこの希望を与えてくれるのです。なぜなら、イエスはこう言われるからです。「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示
録22・20)。
船戸牧師の証しです。「善き業、隣人への奉仕へと向かわせる力はどこから生まれるのでしょうか。それは、『天から』なのです。天、すなわち神の御座から
です。そして、この天からの力を信じることが信仰なのです。キリスト者の溢れるばかりのエネルギーは、ただ信仰からのみ出てくるのです。」「特に苦境に
あっては、また、活動の無意味さに直面した時には、目を『地』のもの、社会の惨状、ニーズなどに向けていたのでは、そこから抜け出ることはできないことを
『身証』しました。ただ、目を『天』に向けることによつてのみ、『主の召しに応え、まことの生きがい』を見つけることができたのです。」(船戸、前掲書よ
り)「イエス・キリストの日」を目指すこと、それが私たちにも生きる力を与えてくれるのです。
(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
苦しみの中にある者たちにこそ、慰めと励ましと福音を語ってくださる主よ。あなたは、私たちにもまた「天」の恵み、その大いなる「資産」、「イエス・キリストの現われるとき」に与えられる喜びと栄光とほまれとを語り、約束してくださいます。
この救いと恵みを信じるがゆえにこそ、私たち一人一人と教会もまた、日々に直面する苦しみにあっても、また「イエス・キリストのゆえに」こそ、出て行
き、引き受け、担う使命と課題と試練においても、喜びと忍耐と希望とに生きることができますよう、慰め励まし力づけてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。