震われないものが残るために        ヘブル人への手紙第12章18〜29節
          

  個々人によって聖書の読み方が違うように、その土地土地や地域によっても、聖書の解釈は違うことがあるようです。例えば、以前にタイの国に宣教師に行かれ た日高嘉彦先生は、こんなふうに語っておられます。「文化や歴史は、我々が意識している以上に聖書の読み方に深く影響しているものです。例えば、タイは熱 帯気候、高温多湿で、自然の恵みが豊かなところです。従って、聖書を読むときも食べ物が出てくる箇所は、非常におもしろい読み方があります。ある時、友人 の牧師と出エジプト記を読んでいたら、十の厄災がタイでおきていたら、タイの人たちは喜んだだろうと言います。なぜならタイの人はイナゴや蛙を食べ、畑に 探しに行き、また養殖をしています。それが向こうの方からやってくるなら、採りに行く手間が省け、当分生活のために仕事をする必要もないからだそうで す。」(長住バプテスト教会ホームページより)
 今日の私たちのテーマは、「地」ということです。「神は天と地とを創造された」の「地」です。「地」は、主に、「人間、つまり私たちをはじめとするすべ ての生きるものの生きる場、環境」として、神によって創られ、私たちに与えられています。この「地」について、こんな旧約聖書詩篇の言葉があります。「あ なたは地をその基の上にすえて、とこしえに動くことのないようにされた。」(詩篇104・5)「地」というのは、「とこしえに動くことのない」ものとして 捉えられているわけです。これなどは、パレスチナとかの、地震の少ない地域の人々に受け入れられやすい考えかなと思います。
 けれどもまた、聖書には、これとは全く違う「地」についての理解、正反対の捉え方があるのです。同じ詩篇104篇にこんな言葉があります。「主が地を見 られると、地は震い、山に触れられると、煙をいだす。」(詩104・32)また、こんなのもあります。「あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あ なたのいなずまは世を照し、地は震い動いた。」(詩77・18)「もろもろの山は主のみ前に、全地の主のみ前に、ろうのように溶けた。」(詩97・5) 「もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。」(詩46・6)これらの言葉によれば、「地」は、主なる神の 声・御言葉と、その働きかけ・御業によって、時に「震い動き」、ついには「ろうのように溶け」てしまうのだということです。この日本のような、地震の多い 地域に住んでいる者としては、こちらの考えの方が分かりやすく、受け入れやすいと思います。

 今日の聖書の言葉は、まさにそのような神について、そのような神の御業について語っています。「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して 言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。」(ヘブル12・26)これは、これから起こるであろうこと、「終わりの時、終末の時」 のこと、私たちの言葉で言うなら「来たるべき日」に起こることとして語られています。主なる神は、「来たるべき日」、地を震わし、さらには地ばかりではな く天をも震わすのだというのです。これは、いったいどういうことでしょうか。「地」とは、先ほども言いましたように、「人間をはじめとするすべての生きる ものの生きる場、環境」です。さらに広げて言うならば、「私たちの生活、生きることそのもの、私たちが生きる世界、また私たちが生きている社会」というよ うなことまでも含むことができると思います。
 そのような「地」を、主なる神は「震わ」れる。大きく、激しく揺さぶり、強く厳しく問いかけ、正しく厳粛な判断と裁きを与えられる、それが「神は地を震 う」ということだと思います。そのようなことが、「来たるべき日」、決定的・究極的・最終的に起こるのだというのです。そこに至るまでの日々、私たちは 「小さな揺れ・震え」を経験しています。様々な自然災害は恐らくそうでしょうし、またこの間私たちがさんざんに味わってきた「コロナ禍」と呼ばれる現象 も、その最終的な「震え」の「しるし」、前兆、予兆のようなものであるのかもしれません。その中で、私たちの生きる場がまさに「震われ」、私たちの生活が 揺さぶられ、私たちの生き方が激しくまた厳しく問われていきます。それは、色々な人間たちによってではなく、世の中や世間とかによってでもなく、ただだれ よりも主なる神によってである、と聖書は語るのです。「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。

 それは、いったいなぜでしょうか。何のためにそのようなことが起こされるのでしょうか。それは、新しいことが起こるためです。ほかならぬ神によって、まったく新しいことが起こされるためです。
 この手紙は、それに先立ち、かつて起った「地が震わされた」経験について語ります。それは、旧約聖書の主エジプトの時の出来事です。神はイスラエルの民 をエジプトの奴隷状態から解放し、連れ出されました。そしてシナイ山という山で、神の民として生きるための戒め、「律法」を与えられたのです。その時に民 は、恐ろしい光景を見たのでした。それが「地が震える」ということだったです。「火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた 者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉が響いてきた山」での経験です。神がその山に下って来られ、「全山はげしく震えた」とあります(出エ ジプト19・18)。完全に正しく聖なる神との出会いは、「山」・地が震えたというだけでなく、彼らにとって自分の弱さ、虚しさ、罪深さを思って胸がえぐ られるような経験であったために、恐ろしく、逃げ出したいようなことであったのです。
 ところが今や、同じ神ご自身によって、まったく新しいことが起こされ、起こるのだというのです。なぜならば、救い主イエス・キリストがこの「地」へと来 られたからです。この「地」は、もはやただの「地」ではありません。イエス・キリストが来られ、神に愛され、神に導かれ、神によって新しく完成されること を約束された「地」となったのです。だから、「あなたがたが近づいているのは」、そういうもの「ではない」。「あなたがたが近づいているのは、シオンの 山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲 保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」この中で最も、決定的に大切なのは、「新しい契約の仲保者イエス」です。私たち は、このお方、「新しい契約の仲保者イエス」に向かって近づいている。このお方イエスが、間もなく再び来られる、このお方「イエス・キリストの日」に向 かって私たちは導かれ、歩んでいるのです。
 その「日」の内容、その「日」に起ること、その「日」に与えられるものを指し示すものが、「アベルの血よりも力強く、立派に語るそそがれた血」です。ア ベルというのは、旧約で不当に兄弟カインによって殺された人で、その血は報復を求めて「叫んでいる」と言われていました。ところが、今やそれに代わる血、 それにはるかに優る血、イエス・キリストの血潮がそそがれたというのです。イエス・キリストの「血」とは、まさに彼の命そのもの、彼の生涯そのもの、その 十字架にまで至った彼の生きた道そのものです。それは、アベルの血よりも「力強く、立派に」語っています。なぜなら、アベルの血は「報復」を求めて叫びま したが、イエス・キリストの血潮は赦しと和解を求めて叫ぶからです。イエス・キリストの「血潮」、その生涯は、神の愛と真実の現われそのもの、その神の愛 と真実が成し遂げられ、与えられることそのものでした。だからこそ、イエス・キリストの血は、はるかにまさって力強く立派に、私たちの罪の赦しと、神との 和解とを求めて叫び、ついにはそれを与え、それを全世界において完成させるのです。そのようなことが起こる、その「日」がついに来るのです。

 だから今、主なる神は言われます。「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。神は「地」を震われます。様々な出来事、試錬、争い、迫害に よって、私たちは「震われ」ます。それによって私たちの常識も、思い込みも、愛のなさも、さらには信仰さえも、「震われ」、激しく揺り動かされ、厳しく問 われます。それは、厳しくも正しい神の審判です。
 しかし、それは大いなる神の目的のためです。「『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが 残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから』。」神に よって地と天は激しく揺り動かされ、「震われ」ます。しかしそれは、「震われないものが残るため」なのです。「震われないもの」とは何ですか。どんなに 「地」が揺り動かされ、震われても、「震われないもの」、決して震われず、揺り動かされず、いつまでも残るもの。それは、神の愛と真実です。イエス・キリ ストによって、その「血」、その生涯によって表され、成し遂げられ、与えられた神の愛と真実。これこそは、どんなことがあろうとも、「たとい地は変り、山 は海の真中に移るとも」(詩46・2)、変わることがなく、揺れ動くことなく、どこまでも貫かれ、ついには成し遂げられ完成にまで至るものなのです。「わ たしたちは、震われない国を受けている」、これは、これがまさに「福音」、私たちに与えられた「良き知らせ」なのです。
 その私たちには、それにふさわしい生き方、道があるのだと、この手紙は語ります。「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と言われる方を信 じる私たちは、知り洞察し悟らなければなりません。「この地は震われる」のだということを。人間とその世の流動性、その変わりやすさ、はかなさ、虚しさを 洞察し、見抜かなければならないのです。それは、この手紙の読者たちのように、私たち自身も激しく揺さぶられる、苦しみ、試錬、迫害の時には、なおさらそ れを洞察し、見抜き、知らねばなりません。
 「善き力に囲まれ、来たるべき日を待とう」の詩を書いたボンヘッファーの先輩として、彼のために祈り、彼を支え続けたカール・バルトという神学者がいま す。バルトは、戦後共産主義政権によって支配された東ドイツの牧師たちに励ましの手紙を送りました。東ドイツでは、キリスト教をはじめとする宗教は厳しく 迫害され、クリスチャンたちまた教会は社会的に圧倒的な不利な立場に立たされていました。共産主義体制は、「岩のように」厳しく頑丈で、「何をやってもだ め、自分たちにはもう救いはない」と、彼らは思っていました。しかし、バルトは書き送るのです。「あなた方はこの国家を恐れますか? 恐れることはありません!―――あなた方は神の自由なる恵みを信じておられますか? もちろんあなた方は信じておられます! しかし、そうであれば、あな た方は、あなた方のところで支配している体制を―――、まさにその律法主義にこそ存するこの体制の決定的無力において見抜かねばなりません。」(カール・ バルト『バルト・セレクション6 教会と国家V(天野有訳)』より)なぜなら、神は「地を震い」、この恐るべき体制・国家をも震われるからです。そして、 「あなたがたは知らねばならない」と、バルトは続けます。「そして、そのとき、神の優越性は、この点においてもまた、明瞭に、かつあらゆる恐れを追い払い つつ、あなた方の眼前にあるのです。」(同上)「震われないものがある」とバルトは語るのです。それは「神の優越性」、神の愛と真実、これこそが「震われ ないもの」として確かに現れるのだ。
 「このことを知るならば」と、手紙は語ります。「わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかし こみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」それは、神への感謝のうちに、神による喜びと希望のうちに、信仰をもって神に仕えることをやめず神を礼拝し続 け、愛をもって神が出会わせられる一人一人に仕えて行く道です。「兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなしなさい。―――獄につながれている人たちを、自分も 一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。」(13・1〜3) 「この恵みは要求しません、この恵みは贈り与えるのです。この恵みは報復しません、この恵みは赦すのです。この恵みは隷属させません、この恵みは起き上が らせるのです。この恵みは怒りを招かず死なしめません、この恵みは――あのあわれみ深いサマリヤ人のように――癒し・〔傷を〕包んで覆い・養うのです。」 (バルト、同上)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 私たちは「揺れ動き、震われる地」に住み、生きています。しかし、そんな私たちに、あなたは「震われないもの」を与え、残し、ついに「キリスト・イエスの日」、「震われない国」を完成し、私たちをそこにまで至らせてくださいます。
 この計り知れない恵みを覚えつつ、あなたを礼拝し続け、隣人を愛し、仕えることを決してやめない、私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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