喜べ、神が成し遂げてくださる日を目指して 
                  
テサロニケ人への第一の手紙第5章12〜24節          

  今日の16から18節は、ある意味で最も有名な聖書の言葉です。たいていの「キリスト教カレンダー」とか「日めくり」とかには、必ず載っている言葉です。 「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。」けれども、その内容をよくよく考えてみると、そんなに簡単には口に出せない言葉のように思えま す。
 ある牧師はこう言ったそうです。「わたしは、自分にできることだけしか説教しないことにしています。自分にできないことを語るのは不誠実だし、自分自身 つらいからです。」失礼ながら、私は間違いだと思います。この考えで行くと、そもそも聖書の言葉すべてが語れないと思いますし、とりわけ今日の箇所は語れ ません。。何が語れないと言って、こう書かれているからです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」もしこれ が「喜べるときに喜び、祈れるときに祈り、感謝できるときに感謝しなさい」だったら、私も何の葛藤も迷いもなく、これを口にすることができるでしょう。 (まあ、それだったら、その分何の問いかけも刺激も、何の力もない言葉ということになるでしょうが。)これまた失礼ですが、しばしば私たちの信仰生活はそ んな感じになってしまっていることがあるのではないでしょうか。「喜べるときに喜び、祈れるときに祈り、感謝できることについて感謝する」。それは個人の 生活においても、教会の歩みにおいても、問いかけられています。
 しかし、聖書においてパウロはこう書き送り、命じるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」「いつも」です、「絶えず」です、そして「すべての事について」です。

 いったい、この言葉、こんな言葉を、どう聞き、どう受け止めたらよいのでしょうか。パウロはこの三つの命令を、ただポーンと裸で出しているわけではない のです。その後に、但し書き、注意書きを付けているのです。私たちが複雑な電気製品を買ったときに、説明書の注意書きを読まずに使ったら、思わぬ間違いや 事故が起こるでしょう。聖書の言葉はまさにそうです。注意書きを読まずに聞いたら、大変な間違いを起こすことになるのです。ではその「注意書き」を読みま しょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておら れることである。」「注意書き」はこれです。「これが(これは)、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
 ここで大切なことは、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。この言葉なしだったら、「これが神があなたがたに求めておられることである」となっ ていたら、それは「無理難題」なのです。しかしパウロは、そこに「キリスト・イエスにあって」を挿入するのです。これは、「キリスト・イエスにあって、神 が求めておられることなんだよ」、何の前提や限定もなく、ただあなたがたの考えと力と判断によって、それらに基づいて求められていることではないのだ、そ れはただ「キリスト・イエスにあって」、ただこの一事に基づいて神が求めておられることなんだ。だからこれは、私たちの中から、内側から起こり、出て来る ことではなくて、私たちの外側から、イエス・キリストという方によって、このお方を通して、初めて起こり、始まっていく事柄として、神が求めておられるの だというのです。
 「イエス・キリストにおいて」、神によって始まり、神によってはじめて私たちに与えられたこと、それはいったい、具体的にはどういうことでしょうか。聖 書、特に新約聖書の中を一貫して流れ、響いている「よき知らせ」「福音」の言葉があります。それは「神が成し遂げてくださる」ということです。「私たちが 決してできなかったこと、私たちがすでに失敗してしまったことを、神が再び取り上げ、神が正し導き、神が成し遂げ完成してくださる」ということです。それ が、まさに「神がイエス・キリストにおいて」成し遂げてくださったことです。パウロは言いました。「私たちは、皆例外なく、神から離れ、神にそむき、神の 前に失敗してしまった罪人であった。しかし、神はその私たちのために救い主イエス・キリストを送られた。主イエスは、私たちの罪と裁きと死を引き受け担 い、私たちすべての者のために死んでくださった。そして今、復活の主は私たちのために新しい命と道を与えてくださった。」「私たちが決してできなかったこ とを、神が成し遂げてくださった」のです。
 そして、それは単に過去のこと、現在までのことに留まらず、神による将来に向けて、「来たるべき日」「イエス・キリストの日」にまで及ぶことだと、パウ ロは言います。23〜24「どうか、平和の神ご自身が―――あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のとき に、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」「霊と心とからだ」 とは、当時の人間を見る見方です。「人は、霊と心とからだから成っている」と考えていたわけです。ですから、「霊と心とからだ」とは、人間の全体、全部で す。つまり、丸ごとのあなた、あなたのすべてについて、神が責任を負ってくださる、最終責任を負ってくださるということなのです。俗な言い方をすれば、神 様のアフターケア、アフターサービスは万全であり、あなたがたを最後まで守り導き、ついにイエス・キリストによる完成にまで至らせくださるということなの です。「神があなたの面倒をみてくださいます」ということなのです。

 それが具体的には、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」という形で現れ、与えられるのです。
 「いつも喜んで――」という言葉は、パウロが書いているわけですが、同時に神様が命じておられることです。人間の場合とは違って、神様には「自分のこと は棚に上げて」ということはありません。「いつも喜んでいなさい」と命じたもう神様は、神ご自身が「いつも喜んで」いてくださるのです。何を? 私たちの ことを。自分でもとても喜べない、むしろいつも不平不満の種をわざわざ見つけ出してきて、大切にしまいこみ、それを何かあると持ち出してきてああだこうだ 言ってしまう、そんな私たちのことを、神はいつも喜び、赦し、「よし」としていてくださる。神は、「キリスト・イエスにあって」いつも私たちを愛し、私た ちのことを喜んでいてくださる。この神がおられる。ならば、私たちには、どんな時にも、どんな状況の中でも、なにかしら「喜ぶ」、いえこの神様をこそ「喜 ぶ」、その材料・種があるのではありませんか。
 また、「絶えず祈りなさい」と命じたもう神は、「絶えず私たちの祈りを聞こうとして待っていて」くださるのです。私たちはよく、人に「何かあったら、い つでも電話してきてください」と言います。でも、本当に「いつでも」という具合に、真夜中や明け方に電話されたら、一度や二度はいいかもしれませんが、し まいに音を上げてしまうでしょう。でも、神は掛け値なしに「絶えず祈りなさい」「いつでも私に向かって祈り叫びなさい」と言ってくださるのです。神様には 「取り込み中で、ちょっとタンマね」ということはありません。私たちの祈りを、叫びを、うめきをも、絶えず、いつでも聞き、受け止め、聞き届けてくださる のです。このお方がおられる。ならば、私たちは「絶えず祈ろう」と、この方へと向かうことができるではありませんか。
 さらに「すべての事について、感謝しなさい」ですが、ギデオン協会配布の英語の聖書を見ましたら、ここをこんなふうに訳してあるのです。「すべての状況 の中で感謝しなさい」。「えっ」と思って、元の文を見てみました。すると、そういうふうに取ることもできることがわかりました。なるほどな、と思いまし た。「すべてのことについて」、そのこと一つ一つをそのことそのものについて感謝するというのは、難しいこともあるかもしれない。いやなことも、苦しいこ とも、私たちにはありますから。でも、あのことこのことの中でも、そういう難しいこと、とても大変なこと、そういう状況の中でも、そういう状況はありなが らも、でも一方で、また同時に「感謝する」ということはできるのではないか。なぜなら、「すべてのことの中で感謝しなさい」と命じたもう神は、いつも、ど んなことの中でも、「感謝の種」である恵みを与えてくださるからです。。聖書の「感謝する」は、「恵みを与える」という言葉からできています。神が「恵み を与えて」くださる、それに対して正しく答えることが「感謝する」ことなのです。パウロは言いました。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべ ての者のために与えられた方が、どうして御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。」どんなに苦しくつらいこと、困難で大変なことの中でも、この神 は私たちを愛し、助けを与え、導いてくださる。このお方がおられる、この恵みに気づかされるとき、私たちは「すべてのことの中で感謝する」ことを学び始め るのです。

 今日は、先週触れましたキング牧師を助けた一人の女性の話をしましょう。「われわれがバス・ボイコット運動のただ中にあった頃、われわれがシスター・ポ ラードと愛情をこめて呼んでいた老婦人がいた。彼女は七十二歳くらいの素敵な女性で、その年でまだ働いていた。―――ある週のこと、私はとても困難な週を 過ごしていた。昼も夜もひっきりなしに脅迫電話がかかってきていた。それで私はくじけそうになり、心が弱くなって勇気を失いかけていた。決して忘れられな いことだが、その月曜日の夜、大衆集会に出たが―――私の話には力がなかった。すると集会後シスター・ポラードが近づいてきて、言った。『何か悪いことが あるのですか。今日のお話には力がありませんでしたが』と。そこで私は言った。『何にもありませんよ、シスター・ポラード。大丈夫ですよ』と。ところが彼 女は言った。『ごまかしてはいけませんよ。なにか悪いことがあるのでしょう。』―――『私に近づいてください。そしてもう一度だけ言わせてください。 ―――すでに申し上げたことですが、私たちは一緒にいますよ。―――でも、たとえ私たちが一緒にいなくても、主はあなたと一緒にいますよ。―――主があな たの面倒をみてくださいますよ。』―――その日以来、私は色々なことを見てきた。―――その時以来、私は十八回以上も投獄されてきた。―――その時以来、 私の家は三回も爆弾を投げ込まれてきた。その時以来、私は毎日死の脅迫にさらされてきた。その時以来、私は多くのやりきれない困惑の夜を過ごしてきた。だ か、そのたびに繰り返し私はシスター・ポラードの言葉を思い出すことができる。『神があなたの面倒をみてくださいますよ』と。」(『真夜中に戸をたたく  キング牧師説教集』より)

 「神があなたの面倒をみてくださいますよ」。「神がすべてを成し遂げてくださる」、「平和の神ご自身が、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、 イエス・キリストの来臨の時に責められるところのない者にして下さる」、「あなたがたを召された方は真実であられるから、このことをして下さるであろ う」。
 この真実なる神がおられます。「イエス・キリストの日まで」、私たちといつも共におられます。神が、「キリストイエスにあって」、すべてを成し遂げてく ださいます。「神があなたの面倒をみてくださいますよ」。だからこそ、一つまた一つと、一歩また一歩と、私たちの教会で、それぞれの遣わされている場で、 この社会・この世界で、このように歩んでまいりましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」

(祈り)
私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし復活させられた神よ。
 あなたは、私たちのために、すべてを成し遂げてくださいました。私たちが過ち、失敗し、挫折したすべてのことを、イエス・キリストによって成し遂げてく ださいました。さらにあなたは、「イエス・キリストの日」までに、私たちの「霊と心とからだ」、私たちのすべてを守り、ついに完成にまで至らせてください ます。それゆえに私たちは、「イエス・キリストにあって」、あなたのゆえに、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する」歩みと生き方へと 呼びかけられ、招かれ、励まされています。
 どうか、そのように歩み、生きようとして、それぞれの一歩を踏み出す信仰へと私たち一人一人と教会を招き、導き、その道・その場においてお用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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