キリスト・イエスの日までに       ピリピ人への手紙第1章3〜11節
              

 ある人がこう言っています。「すべての人は、何らかの線を引いている。」「線」というのは、言い換えれば「目標」です。「ここまで」「ここまでを目指し て生きる」という意味で、人生、生きることに「線を引く」のです。「われわれが、自分たちのうちにありますものを成長させ完成させていく場合に、いつがわ れわれの目標になっているでしょうか。―――人生の設計をします時に、われわれが大体考えることは、昔ならば、人生五十ですから、五十まででありましょ う。この頃ならば八十ですということでありましょう。そのように、みなある一つの線を引いているのです。」(竹森満佐一『講解説教ピリピ人への手紙 (上)』より)そのように「線」を引きながら、それを目標として生きている。けれども、実はその先に、絶対確実な「線」があると言います。「実は正直に言 えば、その先にもう一つ線があります。それは、われわれが死ぬ時であります。―――その線を引いていない人は、一人もいないのであります。―――死が来た ら一切失い、金もあるいは知識も、それがどれくらいあったとしても、何の役にも立たないことを知っているのであります。死はわれわれに、絶望しか与えない らしいのです。しかし、それこそ事実なのであります。そしてそれがくることは間違いないのであります。」(同上)
 では、この手紙を書いたパウロは、いったいどんな「線」を引いていたのでしょうか。彼はどんな「線」を引き、どんな「線」を「ここまで」と目標として生 きていたのでしょうか。パウロは言います、「キリスト・イエスの日までに」。「キリスト・イエスの日までに」、これがパウロが自分の人生に引いた「線」で あり、これが彼が生きるための目標としていた「線」なのです。「キリスト・イエスの日までに」。
 そしてこれは、パウロ一人のことではないのです。彼は、ピリピの教会の人たちに向かって「あなたがたが」「あなたがたは」と言っています。「あなたがた は、あなたがたも、キリスト・イエスの日までに」と思いながら、書き、語っているのです。ということは、この手紙を呼んでいる私たち、私たちすべての信仰 者にも、さらに言うなら潜在的にはすべての人にとってもまた、この「日」が本当に来たるべき「線」であり、目標として目指すべき「線」である、と言うこと ができます。「キリスト・イエスの日までに」。

 これは、パウロについても、そしてもちろん私たち自身についても、意外で不思議なことであり、さらに言えば受け入れがたいほどのことです。私たちが普通 に考える「線」には、どんなものがあるでしょうか。様々な人生のイベント、卒業でしょうか、就職でしょうか、結婚でしょうか、あるいはさらに進んで退職・ 引退でしょうか。今は生き方が多様化して、それこそ「人生色々」ですからいろいろあるでしょうが、でも、皆何かの「線」を引いているでしょう。でも、それ が私たちの本来的な「線」ではないんだよと言います。さらには、だれにも必ず訪れる、決して避けることのできない決定的・絶対的な「線」、「死」、これで すらないんだよ、と言うのです。パウロは、私たちが本当に目指すべき「線」、これに向かってこそ生きるべき「線」として、これを指し示すのです。「キリス ト・イエスの日までに」。
 パウロがこの時いた状況から考えれば、まさに不可思議です。彼は今、イエス・キリストの伝道と証しのゆえに、エペソの町の牢獄に捕らえられてしまってい たのです。彼は、ここからの解放をどれほど願い、目指していたことでしょうか。また彼を取り巻くのは、まさに「限界状況」です。パウロは自分の「死」とい うものを、どれほど痛いほどに、また切実に意識しなければならなかったことでしょうか。
 しかしそのパウロは、自分の目指して生きるべき「線」は、牢獄からの解放でもなければ、「死」でもないと言うのです。そうではなくて、自分は「キリス ト・イエスの日まで」と「線」を引き、その「日」を目指して生きているし、「その日まで」ということで、すべを考え、すべてを判断し、すべてを実行して生 きているのだと言うのです。そして、それは、自分一人のことではなく、「あなたがたも」、ピリピの信徒一人一人、また今ここに生きる私たち一人一人もまた そうなのだと語るのです。「キリスト・イエスの日までに」。
 「キリスト・イエスの日」については、今まで何度となく語ってきて、お伝えしてきたと思います。「キリスト・イエスの日」、それは救い主イエス・キリス トが再びこの世に来られる日であり、神の国の到来の時であり、新しい天と新しい地が完成する日であり、万物がイエス・キリストにおいて回復され、一つとさ れる日なのです。この日が来る、この日が信じる者一人一人と教会のために来る、さらにはすべての一人一人のために、全世界のために来る、これが聖書が私た ちに告げる「福音」「良き知らせ」のメッセージなのです。

 それは、いったいどういうことなのでしょうか。そういう「線」を引くと、いったい何がどう変わるのでしょうか。「線」の引き方を変えると、見えてくるも のが変わるのです。見えてくるものが変われば、今ここでの選択と決断が変わるのです。それが変われば、将来に向けての見通しと、それに基づく生き方が変 わって来るのです。将棋や囲碁で、よくこんなアドバイスを聞くことがあります。「盤面全体を広く見なさい。」一部分だけ見ていると、見えない、わからない ことがあるのです。「線」の引き方を変えて、広く、長く、遠くを見るとき、なすべきこと、行くべき道、目指すべき目標が見えてくるのです。
 「キリスト・イエスの日までに」、そこに「線」を引き、それを目指して生きようとするとき、何より神が見えてくる、ということです。神の存在、神の御 業、神の導き、神による完成が見えてくるということです。パウロはピリピの人たちに言います。「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈 り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちには良いわざを始められたかたが、キリ スト・イエスの日までにそれを完成してくださるにちがいないと、確信している。」「あなたがたのうちに良いわざを始められたかた」というのは、神様のこと です。救い主イエス・キリストを私たちとこの世界のために送られた、主なる神様。この神様が、あなたがたのうちに良い業を始め、それをついに「キリスト・ イエスの日までに」完成してくださるのだと言うのです。これがパウロが見ている、万物の成り行きであり、見通しです。この見通しのうちに、パウロはすべて のものを見、すべてのことを考え、すべてのことを判断し、すべてのことを行うのです。
 私たちは、たいていそんなふうには物事を見、考えてはいないと言います。「どんな問題についても、自分の内面のことであっても、家庭のことであっても、 職場の事であっても、結局は、神による以外には、ほんとうには、それが完成したり、成就したりすることはないのであるということを、われわれは忘れている のではないでしょうか。ただ、自分が一生懸命にやればいいと思っているのです。自分が一生懸命にやっても、うまくいかないと、自分は駄目であると思うか、 人が邪魔したと思うか、そういうことしか考えないのであります。」(竹森、前掲書より)
 でも、パウロは言うのです。「あなたがたのうちに良い業を始めてくださったのは、ほかでもない神だ。あなたがたが考えたのでも、始めたのでもない。そし て、それを本当に完成してくださるのは、神だ。神が、あなたがたの不信仰、怠惰、失望、放棄にもかかわらず、それを必ず支え、導き、実現し、完成してくだ さる。」「このことを読んだピリピの教会の人びとは、どんなに慰められたことでしょう。自分の信仰は弱いと思って悲しんでいる人も、自分のような、つまら ない信仰生活で、信者とも言えないようなことである、とつぶやいている人でも、どんなに嬉しいことでしょう。―――わたくしが完成するのでもなければ、ほ かの人間が完成してくれるというのでもなくて、神ご自身が完成して下さるのであります。こんなに確かなことはないのです。」(竹森、同上)

 「キリスト・イエスの日までに」、この「線」を引き、目指して生きるとき、また今という時が満たされるのです。こんな場所で、こんな状況で、パウロは、 一言で言うと「喜んで」います。この手紙は、「喜びの書簡」と呼ばれるほど、「喜び」「喜べ」と語ります。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。 繰り返して言うが、喜びなさい。」(4・4)その「日」に向かって生きるとき、パウロは今の状況をこんなふうに見、捉え、理解することができるのです。 「わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」(1・12)そして今、彼はピリピの人たちの ために祈る時、感謝に満たされています。また彼らに対する熱い愛情にも満たされているのです。「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあ なたがた一同を思っていることか」(1・8)そして、彼は今この時も、決して変わることなく「福音を弁明し立証する」(1・7)こと、すなわち使命に生き ているのです。
 私たちは恐れと不安に陥る時、「何も手につかない」、つまり身も心もそぞろで、空しく、空虚な者となってしまいます。しかし、「キリスト・イエスの日」 を目指して生かされ、生きる時、神によって私たちの「今」は、キリスト・イエスにあって良きものでしっかりと満たされるのです。それは、「使命に生きる 命」です。この「命」によって、私たちの「今」は満たされるのです。

 さらに、「キリスト・イエスの日までに」、この日に向かって生きる時とき、私たちは希望をもって望み、待ち、生きることができるのです。神の勝利とイエ ス・キリストの栄光の現われを、確固として信じ、望んで生きることがゆるされるのです。「あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリスト の日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」 (1・10)「このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだではなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(2・ 16)
 マルティン・ルーサー・キング牧師は、1968年4月4日、アメリカのメンフィスという町で銃撃を受けて暗殺され、39年の短すぎる生涯を終えました。 その直前、前日に人々に語ったメッセージがあります。彼の周辺には、「身の危険が迫っている」という情報もありました。そのような中で、彼がどのような 「線」を引いて、どのように自分の生涯と使命を振り返っているかをぜひご覧ください。
 「人々が私のことを色々と言っている。しかし今はもう、私自身が死のうが生きようが、それは重大なことではない。―――そしてメンフィスに着いたら着い たで、私が狙われているとか、私を狙う計画があるとか聞かされた。―――いや、私自身、自分の身の上に何が起きるかは分からない。これから相当困難な日々 が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことはもう気にならない。私は山の頂に登ってきたからだ。だからもう気にならない。たしかに私も人並みに長生き をしたい。―――でも今の私には重要なことではない。今はただただ神の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂から 約束の地が見えた。私自身は皆さんと一緒に約束の地まで行けないかもしれない。でも知ってほしい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだということ を。だから私は今うれしい。私はどんなことにも心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現われるのをこの目で見ているのだから。」 (М・L・キング説教・講演集『私には夢がある』より)
 「キリスト・イエスの日までに」、私たちもまたこの「日」に向かって、この「日」を目指して、ただ神によって招かれ、支えられ、導かれているのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 「キリスト・イエスの日までに」、パウロはこの日を目指して仕え、働き、生きました。またピリピの教会の人たちも、そして私たち一人一人もまた、この 「日」を目指して、あなたから呼ばれ招かれ、支えられ、導かれています。そしてあなたは、その「日」において、私たちとこの世界を、イエス・キリストにお いて一つとなし、必ず完成にまで至らせくださいます。
 この信仰と希望のゆえに心より感謝し、御名を賛美いたします。どうか、それゆえにこそ今ここで、愛によってお互いに共に生き、あなたを愛し、あなたに従い仕えて行くことができますよう、私たち一人一人と教会を守り、導き、用いてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

戻る