ただ恵みによる完成の日       エペソ人への手紙第1章3〜14節
              

 「来たるべき日」、それは「終わりの日」、神の国の完成の日です。それが、どんな「日」であるのかを知るためには、どうすればいいでしょうか。
 小説などの文学作品についての言葉で、「作家のすべては、第一作に表れている」というものがあります。一番初めに作った作品に、その作家が持つすべての 性質や特徴が、隠れた形や目立たない様子であっても、実はもう既にすべてそこに表われているのだ、ということでしょう。ならば私たちも、神の御業の「初 め」に帰ってみてはいかがでしょうか。「神による初め」に立ち帰ってみるのです。そうすれば、「神による終わり」もまた、よく見え、よく分かって来るので はないでしょうか。また「神による初め」、それを改めて知り、再確認することで、私たち自身の信仰の「初め」「原点」をも確認することができ、新しい思い で、感謝と希望に満ちて、いろいろなことにおいて良い再スタートをすることができるのではないでしょうか。

 そういうわけで、まず、皆さんの「初め」についてお尋ねしたいと思います。私たち信仰者、クリスチャンの信仰のスタートはどこでしょうか。やはりなんと 言ってもバプテスマを受けた時でしょうか。それとも、もっと最大限さかのぼって、初めて教会に来た時でしょうか。クリスチャンホームに生まれた方は、「私 はお母さんのお腹にいた時に、初めて教会に来ていました」などとおっしゃる方もいるかもれません。
 しかし、なんと驚くべきことに、この手紙は「それは違う、絶対に違う」と断言するのです。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。 神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリス トにあってわたしたちを選び――愛のうちにあらかじめ定めてくださったのである。」皆さん、よろしいですか、「天地の造られる前から」です。神は「天地の 造られる前から」、私たちをイエス・キリストにおいて選んでいてくださったというのです。「選ぶ」というのは、「取り分けて置く」ということです。九州で はお正月に「がめ煮」という煮物をよくするのですが、そのために鶏肉をあらかじめ「取り分けて置く」ということをします。「がめ煮」という特別の目的のた めに、「取り分けて置いた」わけです。神はまさに私たちに対してそうされたのだというのです。
 「特別な目的」とは、「イエス・キリストにあって」ということです。「イエス・キリストに向けて」、というかその時点で既に「イエス・キリストに属する 者」として勘定に入れて、そういうわけで「イエス・キリストに向けて」、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストに触れ、イエス・キリストに惹かれ、 イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに信仰をもって自分とその人生を委ね、イエス・キリストに信仰をもって従い生きるようにと、「天地の造られる前 から」神は定め、計画し、すべての道と手立てを準備してくださった、それが「選び」ということです。「天地の造られる前から」、気の遠くなるような「前」 です。と言うか、私たちにとっては、想像することも、イメージすることもできないような、そんな前にまで、そんな時にまでさかのぼって、言われるのです、 「あなたは、神に選ばれていた」と。

 これは、いや、これがまさに「恵み」ということです。「恵みによる選び」、「ただ恵みによる初め」なのです。「天地の造られる前」、そんな前から「私は 神を求め、信じよう」と思っていた、決心していたなどという人がいますか。いないでしょう。そもそも「天地の造られる前」、そんな時には、私たちの誰一人 として存在すらしていなかったのではありませんか。しかし、そんな私たちが、神の御心、ご計画の内にはしっかりと留められていた。
 「天地の造られる前から」、だからそこには、私たちの考え・思い・願い・力・意志・選択・決断、そういった一切のものは関わっていませんでした。それら 一切のものを超えて、神は私たち一人一人を選ばれていたのです。また、それは私たち言葉や行動、心がけと生き方の善悪、長所や短所、欠点や強み、そういっ た一切のものもまた関わってはいませんでした。それら一切のものを超えて、神はイエス・キリストにあって私たち一人一人を選ばれたのです。むしろ、この私 たちは、「悪を行う」という可能性を抱えた、決定的な弱さと限界を持つ者であろうと思われていたでしょう。しかし、神はそれをすら予想し、かえってその可 能性を御自身が引き受けつつ、私たちを御心の内に定め、選んでくださっていたのです。
 だから、それは「愛のうちに」「愛に基づいて」ということだったのです。だからそれは「イエス・キリストによって」なのです。あなたはやがて神を離れ、 罪を犯すかもしません。と言うより、きっと恩知らずで、頑固なあなたはその道を外れて行くでしょう。しかし、主イエスはその時そこにおられて、既にもう決 心しておられたのです。「だから、私はきっと必ず世に出て行く。だから私はきっとかれらの罪を引き受け、担い通す。だから私は必ず罪と死に勝利してかれら に新しい命を与える。」この「愛に基づいて」こそ、神はあなたを選ばれ、取り分けて置かれました。そのような神の意志は、喜びであり、愛そのものであった のです。
 「だから、どうなの」と言うでしょうか。これは、驚くべき慰め、考えられない支えと力づけなのです。私たちの人生と信仰、その「初め」が、ただ神の選び に基づくならば、それがただ「愛によって」であり、ただだた「恵みによって」であるならば、私たちはこうなのだと言われるのです。「これを本当に『土台』 とするとき、私たちは揺るがされません。個人的な信仰生活にも『浮き沈み』はありますし、教会の歩みにも揺さぶられるような試練は襲ってきます。また、 『世』の激しい、時には『敵対的』な動きの中で、失望と無力感に悩まされるときもあります。でも、教会は、あなたは、ただ『神の恵みの選び』によって今こ こに置かれているのです。ならば、何も恐れることはありません。ただ残るのは、神を喜び、賛美することだけなのです。」(加藤英治、日本バプテスト女性連 合『世の光』2004年4月号より)

 しかも、もっと大切なことがあります。「神の選び」、それは私たち個々人で終わらないということです。私たちはそうして神によって愛され、選ばれること によって。神のさらに深いご計画、さらに大きな業、さらに遠く偉大な目標の中に導き入れられ、組み入れられ、置かれているのだというのです。これこそ、ま さに「神による終わり」、「ただ恵みによる完成」なのです。「それは、時の満ちるに及んで実現される計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの 地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは―――キリストにあってあらかじめ定められ、神の民とし て選ばれたのである。」「天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つ」とする、これが神のご計画であり、神の業であり、神の目標で す。「天にあるもの地にあるものを、ことごとく」です。「ことごとく」と言ったら、「すべて」です。神様のことですから、「すべて」と言ったら、本当に 「すべて」なのです。古代の神学者ヒエロニムスという人は、神の愛、キリストの愛の広さ・深さ・高さについてこう語ったそうです。「キリストの愛は、聖な る天使を含むまでの高さに達し、地獄にいる悪霊や悪鬼さえも含む深さであり、広さはキリストから離れて悪の道にさ迷い出る人々を覆う広さである。」(杉田 典子氏、『新しい創造』より)本当にすべての人々、すべての動植物、すべての物事、まさにあらゆるものが神のもとへと回復され、一つとされる、なんという 計画であり、目標でしょうか。私たちのこの世界は、そして私たち一人一人自身こそが、底なしの救いがたい問題を抱え、病にかかり、罪を犯し、道を外れてい ます。しかし、神はキリストによって、それを「ことごとく」、それらすべてを一つとし、回復し、新しく創り上げ、一つとなさるのだというのです。

 中世ドイツで活躍した賛美歌詩人パウル・ゲルハルトはこんな歌を作ったと言います。クリスマスの幼子イエスが、馬ぶねの中から集まった羊飼や博士たち、 そしてマリヤとヨセフに向かってこう告げるのです。「愛する兄弟たちよ あなたがたを苦しめる思いを捨てなさい あなたがたに欠けているものを すべて私 がまた持ってきましょう」。(宮田光雄『嵐を静めるキリスト』による)「私たちに欠けているもの」、その「すべて」を今飼い葉桶に眠る幼子である方が、や がて完全に回復し、「持って来て」くださるのです!
 このゲルハルトの歌に、心の底から感動し、深い慰めと力強い励ましを受けた信仰者がいます。それは、今年度の私たちの主題「良き力に囲まれ、来たるべき 日を待とう」の詩を書いた、あのディートリッヒ・ボンヘッファーです。ドイツの牧師・神学者であったボンヘッファーは、第二次世界大戦中、ヒトラー率いる ナチス政権に反対し抵抗して、捕らえられ獄に入れられていました。その時、ボンヘッファーは何を思い、どう感じ、どのように考えていたのでしょうか。彼 は、自分自身について、どうしようもない「欠け」を感じていたに違いありません。彼は、もう間もなく自分に襲い来る「死」を予感し、自分の人生が中途半端 に断ち切られる「未完成」のものとなるであろうことを痛感していたのです。また彼は、きっとこの世・この世界の決定的・致命的な「欠け」をも、深く強く感 じていたに違いないのです。悪い者ナチスが力を持ち、その悪しき力によって、弱い者、乏しい者たちが追いやられ、辱められ、殺されて行く、まさにそういう 世界である、そういう世界でしかない、決定的・致命的な「欠け」を痛感せずにはおられなかったのです。
 でも、そのボンヘッファーは最後にこう書き残しました。「『愛するものらよ、憂いを除け。欠けたるものは、われことごとく回復せん』 最近数週間、再三 再四この句が頭に浮かぶ。この『われことごとく回復せん』というのは、どういう意味だろうか。これは、何も失われることはない。―――キリストが一切を回 復し給う。それは、初めに神が考え給うたそのままに、僕たちの罪によってゆがめられないで、なされるのである。エペソ書1・10に基づく万物復元―――の 教説は、すばらしい。また慰めに満ちあふれた思想だ。」(ボンヘッファー『抵抗と信従』より)

 「来たるべき日」、「ただ恵みによる完成の日」を目指して、ここから再び始める、いつもここから新しくスタートして行く、それが私たちの礼拝であり、私 たちの信仰、希望、そして愛の歩み、生き方なのです。この手紙が、何より示し導くのは、「神をほめたたえて生きる生活」です。「それは、早くからキリスト に望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」まさに「驚くばかりの恵み」なのです。ならば、私たちはこれをほめたた え、歌って、感謝して、喜んで生きるよりほかはないのではありませんか。試練は来たり、苦難に巻き込まれ、私たちは失敗し、挫折することがあるでしょう。 しかしその時でも、私たちの信仰と人生は、決して私たち自身のものではないのです。それは、「神の土台」の上に始められ、導かれ、「聖霊の保証によって」 必ず完成されるものです。だから私たちは「いつも喜んで」生きることがゆるされるのです。
 そして、その「日」に、神は「すべてを一つ」とされようと進んでおられるのですから、私たちもまたフランチェスコが歌ったような歩みへと招かれているの ではないでしょうか。 「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。いさかいあるところに赦しを、分裂のある ところに一致を、迷いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、悲しみあるところによろこびを、闇のあるところに光を もたらすことができますように、助け、導いてください。神よ、わたしに 慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛され ることよりも愛することを 望ませてください。」(カトリック教会訳による)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 主なる神よ、あなたは驚くべき「初め」をもって御業を始められました。ただ恵みによって、この世界を創り、私たちをイエス・キリストにおいて選び、愛さ れたのです。それゆえにこそ、あなたは驚くべき「終わり」をも備えておられます。「キリストによって、すべてが一つとされ、完成される日」、この日をこそ あなたは目指して、今も生き、働いておられます。あなたに愛された私たちもまた、この「日」を信じ、望み、目指す者とされました。どうか、この信仰と希望 に愛において生きて行く、私たち一人一人と教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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