万物が神に帰る日       ローマ人への手紙第11章25〜36節
              

 「来たるべき日」、「イエス・キリストの日」に起こること、それが今日の聖書の言葉では、とてつもない大きさ、広さ、高さにおいて語られています。それは、「万物」について語られているのです。「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。」
 「万物」、これは「大ぶろしき」の言葉です。「万物」ですから「すべてのもの」、文字通り「すべてのもの」、ありとあらゆるもの、ありとあらゆる時代 の、ありとあらゆる地域の、ありとあらゆる種類のもの。そこには動植物も含まれますし、生命を持たないものさえ含まれます。そして当然、私たち人間も含ま れます。ありとあらゆる人間、私たち一人一人もそうです。その「万物」の定めについて、聖書が語っているのです。「万物は、神からいで、神によって成り、 神に帰するのである。」
 こうした「万物」などという、とてつもなく大きなことは、私たちは思うことも考えることも、なかなか難しく思います。でも、少しだけ、そういうことに思 いをはせる時も、それこそ時たまあります。それは、広い意味で「危機」の時です。大きな苦しみ、試錬に直面して、私たちそのものが丸ごと、根底から問われ るような時、その時私たちは「根源・初め」を問い、「終末・終わり」を考えるのです。またその対象は、「万物・すべてのもの」へと及ぶのです。例えば、具 体的に言えば、私たちの「死」、生涯の「終わり」に際するような時。人の生と死に面するとき、私たちの思いと視野は広げられ、伸ばされるのです。私自身、 今までの中で振り返ってみますと、この箇所から語ったことが一度ありました。それは、私たちの敬愛する信仰の同志であった方が神に召された時、その前夜式 においてでした。また、一人のスイスの牧師はまたこの言葉を、一人の医師の方の葬儀において語っています。
 そういう「初め」「終わり」「万物」という広大な視点から見、考えるときに、私たちは大きな慰めと励ましを受けるのです。「万物」と言うなら、本当に 「万物」、すべてのものです。そこには、先にも申しましたように、当然「すべての人」が含まれています。あなたも、私も、その中へと含められ、数えられて いるのです。また具体的に、細かいことを言えば、その「私」に関わるすべてのことも、また「万物」に含まれます。私が問われ、悩んでいる目下の問題。さら にもっと広く、私たちの周りの一人一人と、そのそれぞれの問題。さらに広く目と思いを向けるならば、ひどく深刻な社会や世界の問題。パウロにとって、それ は「ユダヤ人の不信」、つまり神の民であるはずのユダヤ人がイエス・キリストを受け入れず、不信仰に陥り、今もなお神への反逆の中に留まっているという問 題でした。しかし、それらもまた当然、この「万物」の中に含め入れられているのです。
 「ということは、つまり、神が万物を包んでおられるということ、万物はみな神の御手の内におかれているということです。すべてでしょうか。万物でしょう か。混沌とした事柄、暗澹たる事柄もでしょうか。苦しみや痛みもでしょうか。そうです、感謝すべきことには、苦しみや痛みもまた神によって包み込まれてい ます。―――なるほど、暗い出来事はあるにはあります。けれども、それは神が欲したまわないような事柄としてあります。神によって否定され、捨て去られる ような事柄として、すなわち、やがては最後的には神によって克服されていることが明らかになるような事柄としてあります。わたしたち人間は混沌とした世界 のただ中におかれていますが、それでも神によって一貫して担われている者として、したがって、救われている者として存在します。」(トゥルナイゼン『御手 に頼りて』より)

 そのような「万物」のために、「万物」に向けて、聖書は語ります、「万物は神からいで」。先ほどの方の前夜式で、私はこのように語りました。「そう、す べてのもの、ありとあらゆるものは、神に創られ、『神からいで』たのです。故人もまた、そうでありました。彼の命は、主なる神、創造主なる神によって創ら れ、この世に生み出されたのでした。それは愛と祝福をもって『神からいで』、この世に生み出されたのです。彼のその86年にわたるご生涯は、初めから終わ りまで、ずっと、どこまでも、この神の愛と祝福のうちにあったのです。」それは、この方お一人ではありません。ここにおられる皆さん、お一人お一人もま た、まさにそうです。お一人一人が「神からいで」たのです。「障害児の母親たちと共に持つ聖書研究会で、ある朝、『結局うちの子のような子は何のために生 まれてきたんでしょう』と聞かれて、答えるべき言葉を失ってしまった私でした。しかし今本当に思うのです。『神様のために造られていない人は一人もいない のだ』と。それ故、さらに感謝と共に思うのです。『初め』にあり、すべてのものがそれによって造られた、あの祝福の神の言とその輝きを妨げる何ものもない のだということ、そしてまたその妨げを決してゆるしてはならないのだということを、小さな決意と共に思うのです。」(関田寛雄『目はかすまず気力は失せ ず』より)

 また聖書は語ります、「万物は、神によって成り」です。先の方については、このように語りました。「神様が彼の人生を形成し、形作り、盛り立て、導いて 来てくださいました。多くの善き人々との出会い、とりわけ生涯の伴侶との出会い、また喜び誇るべきその働き、そして何よりイエス・キリストとの出会い・信 仰、それに基づく教会とすべての場での信仰生活でした。」それはまた、皆さんお一人一人についても、まさに当てはまります。皆さんの、これまでの人生、そ のすべての出会い、すべての良きこと、恵み、喜び、感謝、何より信仰と救い、それらすべてが「神によって成った」のです。そのようにして、あなたご自身 が、あなたという人間、その人格が「神によって成った」のでした。そして、それが終わりではありません。あなたの生涯は、これからも「神によって成って」 行き、やがて神によって全うされ、完成にまで導かれるはずなのです。
 ただ、それは皆さんの願い通りに、計画通りになるという意味ではないと思います。「自分の人生をどうしたいのかわかりません」という悩みに、ある方がこ う答えていました。「僕は最初ミュージシャンになりたくて、アメリカにわたって音楽の勉強をしました。しかしそこで学んだ一番のことは音楽理論でも演奏技 術でもなく、ベースの師匠に教わった言葉です。『一生懸命やって、祈れ。そうしたら万事なるべきようになる』。『思うようになる』ではなく、『なるべきよ うになる』というのがポイントです。この言葉で、僕は『自分が何者であるかは(注 何者に成るかは)、自分で決めることではなく、神様か、あるいは自分と 会う人が決めることだ』と思ったんです。」(MARO『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』より)

 「神からいで、神によって成り」、ならば神に帰るはずです。聖書にもそのように書かれています。「神に帰するのである」。しかし、もし道をはぐれ、道を 外れて、迷子になってしまったら、どうなるのでしょうか。そしてそれは、決して仮定の話ではなくて、聖書によれば、それは私たちすべて、人間すべてに当て はまる話なのです。私たちは「神に帰する」はずが、その神に帰る道からはぐれ、外れて、神を見失い、さらにはわざと神に逆らい、背くことさえしてしまった のです。聖書は、これを「罪」と呼ぶのです。しかし、ここにも、このはずれた道の中にさえも、神の愛と真実は及び、働きました。神から離れ、外れて、迷子 になってしまった私たちを本来の道、正しい道に引き戻すために、神の御子、救い主イエス・キリストが来られたのです。そしてイエスは、その生涯を懸けて、 その命をも懸けて、私たちを神の道に引き戻し、神のもとに導き返してくださいました。
 それはただ、私たち一人一人の次元でとどまりません。「万物は」、よろしいですか、「万物は神に帰するのである」。「神は、自分の世界に、最後の目標を 立てられます。すなわち、来たるべき御国、義と平和の御国という目標を持っておられます。キリストによって、この御国はわたしたちのあいだで開始されまし た。キリストはその御国を完成してもくださいます。そして、完成するということは―――あらゆる悲しみや叫び、また、あらゆる涙が終わることを意味しま す。そのときには、死の力もまた打ち破られてしまいます。依然として、わたしたちはいまだに死なざるをえません。けれども、わたしたちが行き着く最後の、 その後ろには神の将来が開けています。神の救いが、神のいのちがわたしたちのうえに到来するのです。」(トゥルナイゼン、前掲書より)こうして、「万物は 神に帰する」のです。

 「万物は神からいで、神によって成り、神に帰するのである」。このことを思うとき、それは初めからこうであったと思うほどなのです。「すなわち、神はす べての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。」神様は初めから何もかもご存知だった、神さまはなにもかも織り込み済みだっ た。私たちが迷い、外れても、私たちからしたら不測の事態が起こり、突然の試練と苦しみが襲っても、神様は慌てず騒がす、その救いと導きの業を起こし、成 し遂げてくださった。だから、ここで神への賛美の歌が湧き上がるのです。「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測 りがたい。」
 この「万物」についての御言葉を聞く私たちの生き方は、何よりも賛美であり、感謝でしょう。私たちは、この大いなる神の御心、御計画そして御業を思うと き、もはや何一つ自分からはできないでしょう。そして自分によっては、自分の力も、考えも、何一つ持ち出し、主張することはできないでしょう。パウロと共 に、私たちもまた神をほめ、神をたたえ、神を歌うのみなのです。「ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがた い。」
 しかしまた、それは賛美と感謝以外の何ものでもありませんが、でも、そこからは確実の一つの生き方と道が、この私たちにも開かれ、導かれると思うので す。それは、この神の大いなる御心と道を、不思議にも恵みによって知らされた者としての、精一杯の、そして力を尽くしての、全力での感謝と応答です。まこ とにありがたい、感謝と服従でもって答えるしかない道です。それは、私たちなりに、できる限り「万物」を思い、できる限り「すべての人」を大切にし、その 一人の人の良いことのために祈り、仕え、働いて行く、できる限り「すべての人」が幸いに生きる、そのような世の中・社会・世界となるために自分にできる最 善をささげて行く、そのような道と生き方となるのではないでしょうか。
 あの説教者は葬儀で、友人の生涯について振り返ります。「故人となった友のことを思います。友は、明らかに、万物は神の御手によって支えられているとい う事情をご存知でした。そして、そのことを知ればこそ、友は病気という暗い勢力にあえて立ち向かわれました。友は、助け主を、つまり、自身があらゆる苦悩 の人々をいやす医師なのだと名のられた方のことを、ご存知でした。それゆえに、故人みずからが医師と成られました。それは故人の生涯の天職でした。」「友 は、神によって、苦しむ人々に心から仕える献身の力を賜っていました。わたしはこれまで、友ほどに忍耐強い医師にお目にかかったことがありません。故人 は、単に一マイルだけでなく、幾マイルも患者の人々と共に魂の捕囚状態という葛藤のなかへ分け入ってゆかれました。」「やがて、友自身が苦しみによって試 錬を受ける者となられました。あのようにも多くの人々を助けられた方が、今は自分が救いようもなく沈みゆかねばなりませんでした。けれども、友はそこにお いても神に信頼なさいました。わたしたちに終わりを賜う神、ありとあらゆる死の悩みからの救いを待ち望むことのできる神に。」(トゥルナイゼン、前掲書よ り)
 私たちもまた、この賛美の輪の中に入り、加わって、共に歌うことを招かれ、呼びかけられ、切に求められているのです。「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。」

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 あなたは「万物」の神、主であられます。それゆえに、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」のです。このようなことは、私たちの思いと力 ををはるかに超えてしまっています。しかし、神よ、あなたは私たちに救い主イエス・キリストを送ることを通して、このことを語り、示し、与えてくださいま した。この不思議な恵みに心から感謝し、あなたを賛美いたします。
 それと共に、私たちはまったくの小さな者たちではありますが、その私たちなりに、私たちの小さな最善、最良、最高をもって、あなたの大いなる業にお答え して行きたいと切に願います。あなたが愛される「すべての人」のうち、あなたによって出会う「一人」を愛し、仕え、共に生きて行きたいと切に願います。ど うか私たち一人一人と教会を、そのような証人また僕として送り出し、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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