来たるべき日のため「アバ」と呼ぶ       ローマ人への手紙第8章10〜17節
              

 「来たるべき日」、イエス・キリストの日、神の国が到来し、新しい天と新しい地が完成する日、私たち、この私たち自身には、何が、どういうこと が起こるのでしょうか。パウロは言います。11「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたのうちに宿っている御霊によって、あな たがたの死ぬべきからだを、生かしてくださるであろう。」「神が、私たちの死ぬべきからだを生かしてくださる」、これはいったいどういうことなのでしょ う。私たちの「死ぬべきからだ」とはいったいどんなものなのでしょうか。

 聖書は、「三点セット」の言葉が好きです。そもそも、神様ご自身が「父、子、聖霊」の三位一体の神だと言われます。またキリスト教信仰の「三大徳」、三 つの主な良いことは、「信仰、希望、愛」です。これらは、いわば「良い三点セット」です。これに対して、「悪の三点セット」もあります。今日の箇所、ロー マ8章に出て来る言葉で表せば、それは「肉、罪、死」の三点セットです。これら三つは、ほぼ同じ意味で使われています。ですから、私たちの「死ぬべきから だ」を言い替えるなら、「肉に囚われた私たちのからだ」あるいは「罪に縛られたからだ」と言うことができます。私たちの「からだ」、丸ごとの私たち自身 が、「肉と罪と死」とに囚われ、縛られ、引きずられている、それが「私たちの死ぬべきからだ」ということなのです。
 さあ、ではこの「悪の三点セット」、「肉、罪、死」とは、何なのでしょう。いったい、それはどんな生き方なのでしょうか。「信仰と希望と愛、この三つは いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」これに対して、世の多くの人々の意識と行動と生き方を深く支配している隠れた三点セットがある のだというのです。「権力と名声と富、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、富である。」(渡辺英俊氏による。)私は「これだ」と思い ました。これこそ、「罪」「肉」「死」ということの今も私たちの目の前にある顕著な表れではないか。また、この新自由主義がはびこる時代、社会にあって、 私たちの生き方を規定しているのは、この「三点セット」の原則だと言われます。「今だけ、金だけ、自分だけ」。
 「罪」や「肉」また「死」というのは、私たちのある一部分を指すのではありません。聖書では、私たちの生きる方向性・生き方そのものを表すのです。その ような生き方は、「死」をもたらすのです。多かれ少なかれみんながそんなふうに生きるならば、それは巨大な力となって、まず弱い者たちを苦しめ、滅ぼして いく。それに留まらず、さらにはすべての人を、争いと憎しみ、死と滅びにまでいたらせていくのではないでしょうか。そして何より、この道は、神の道と真っ 向から対立するのです。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。」

 しかし、イエス・キリスト、私たちの救い主は、そんな「罪、肉、死」に縛られ、囚われ、引きずられていた私たちのために、まったく新しい命、まったく新 しい生き方、まったく新しい道を開き、与えてくださいました。「律法が肉により無力になっているために成し得なかった事を、神は成し遂げてくださった。す なわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」イエス様は、「罪と肉と死」が支配するこの世界に、私たちとまっ たく同じ姿、同じ条件でおいでになりました。でも、ここからが違いました。私たちなら、「罪と肉と死の法則」に絡め取られ、やられっぱなしです。でも、イ エス様は、この悪条件の、周りが全部敵に囲まれている状況の中で、ただ一人神の御心に従って神と人を愛し抜いて行かれました。「名声と権力と富」に引きず られ、それに引き寄せられるのではなく、ただ一人「信仰と希望と愛」によって、それをひたすら求め目指して生きられたのです。しかし、罪と死に支配される 私共人間たちは、それに対して憎しみと十字架を持って応えました。でも、主イエスは神の力をもって復活させられ、罪と死の力を克服し、それに勝利されたの です。
 そして、この勝利は、ただイエスお一人のものではなく、私たちのためのものでもあります。「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あな たがたのうちに宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだを、生かしてくださるであろう。」「御霊」というのは、要するに「イエスご自身そのも の」ということです。イエスご自身が、見えないけれども不思議な形で、信じる人の中に住んでくださるのです。その時に、イエス様の力、イエス様の愛、イエ ス様の意志、イエス様の生き方が、私たちの中に流れ込んでくる。初代教会の人たちにとって、それはこんなふうだったろうと言われます。「生まれ変わ る・・・というのは、これまで生きてきた生き方とすっかり違う生き方を始める。『富がいちばん価値があると言うカミ』のかわりに『キリスト』を拝むんです ね。人のために自分の命を投げ出す、貧しい人々をいちばん大事にする、そういう神を信じちゃうんですよ。」(渡辺英俊氏)

 そのようにして、この「死ぬべきからだ」から生かされる「来たるべき日」に向かって、私たちは生きるのです。その「来たるべき日」を目指すために、私たちに求められているのは、何でしょうか。
 パウロは、「これは違うよ」ということから話に入ります。「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っ ているのではない。」「肉」、これはキリスト教の専門用語ですね、この反対は「霊」です。「肉」と「霊」、それは生き方の方向性の問題です。どっちを向い て、何を求めて、何を目指して生きているのか。それは、神を求めるか・求めないか、神の御心を目指すか・目指さないかなのです。「肉に従って」とは、こう いうことだとある方は言われます。「多くの人々が神を忘れている。―――多くの人々は、他の事柄に没頭してそうなっているのである。あまりにも多くの人々 が、預金を増やすことに、また美しい高価な自動車に没頭しすぎて、無意識のうちに神を忘れている。またあまりにも多くの人々が、町の人口の光を見つめるこ とに没頭しすぎて、朝早く東の地平線に登り―――青空に鮮明な色彩を残す偉大なる宇宙の光―――それは人間が決して作り出すことのできない光である――― について考えることを忘れているのである。―――さらにあまりにも多くの人々が、テレビやレーダーに没頭しすぎてしまってーーー天空を飾る美しい星々につ いて考えることを、忘れてしまっている。あまりにも多くの人々が、自分の努力で新しい世界を導き入れることができると、感じるようになってしまって、大地 とそれに満ちるものは主のものであると考えることを忘れてしまっている。こうして彼らは神なしにすべてをなそうとしているのである。」(マルティン・ルー サー・キング説教集『真夜中に戸をたたく』より)「神なしに」ということ、それが「肉」なのです。そのような生き方の行き着く先は、こうなのだとパウロは 語ります。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。」

 では、どうすればよいのか。それは、「ただ一つなのだ」というのです。「ただ一つ」、それは「霊によって」、『神の御霊に導かれて」生きることです。 「あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼 ぶのである。」「アバ、神よ」と呼ぶ、神に向かって「アバ、神よ」と呼びかけ、叫ぶ、この「ただ一つ」なのです。「アバ」というのは、主イエスがいつも神 に向かって呼びかけられていた言葉です。イエスも話されたアラム語で、父親に対する極めて親しみを込めた呼び方だと言われます。「お父さん」、あるいは 「お父ちゃん」とすら言えるかもしれません。これほどに、神を近く親しく呼んだ人はいませんでした。「十二歳の時、エルサレムの神殿で神を父と呼んだ時か ら、イエスの公生涯を通じて神はイエスの父以外の何ものでもなかったのです。―――イエスにとって『父』と呼ぶ以外に神を呼ぶ方法はなかったのでしょう。 雨が降った日もありました。風の吹いた日もありました。にわとりがゆで卵を産むのではと思うほど暑い日もあったでしょう。野の獣に追いかけられ、蛇の鎌首 に迎えられる旅の間も、のみとしらみに眠れなかった夜も、食べるものはおろか、一杯の水もなかった昼も、イエスの目は父なる神にひたと付けられておったに ちがいありません。」(大江寛人『父よ』より)イエスが神を「アバ」と呼ぶのを聞いて、人びとは驚き、そしてついにはつまずき、怒りました。それほどの近 さと親しさをもって、イエスは神を「アバ、父よ」と呼ばれました。イエスと同じ「神の霊」に導かれている私たちも、主イエスと一緒になって、イエスに教え られ、励まされて「アバ、父よ」と神を呼ぶのです。
 この世と、そこに生きる人々の多くは、否応なく「肉と罪と死」の三点セットに従って生きていますから、その中で、自分だけ「信仰と希望と愛」の三点セッ トで生きようとするなら、当然抵抗が起こります。時には、思いもかけない試錬を味わわされ、苦しみを経験させられるでしょう。その時にこそ、「アバ」と神 を呼ぶのです。その時、聖霊、神の御霊は私たちに語りかけてくださるのです。「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあか ししてくださる。」「あなたは、イエス・キリストによって神の子とされたのだ。ただこのイエスを通して、神に向かって『アバ、神よ』と呼びかけることが、 まさに今ゆるされ、招かれているのだ。」
 キング牧師は、真夜中に脅迫電話を受けて、もうこれ以上この運動を続けることはできないと心挫けて思い定めたその時、御霊のこの呼びかけを聞き、その招 きを受けたのです。「そのとき何ものかが私にささやいた。お前は今父親に電話してはならない。―――お前は今母親に電話をしてもならない。お前はかつて父 親が話してくれたお方の中にある何ものかに、話しかけなければならない。(注 「アバ、神よ」と呼ばなければならない。)―――そこで私はコーヒーカップ の上にうつ伏せになった。―――ああ、私は祈りに祈った。その夜声を出して祈った。『主よ、私はここで正しいことをしています。―――しかし、主よ、私は 今自分が弱いことを告白しなければなりません。私はくじけそうです。勇気を失いつつあります。―――』するとその瞬間、一つの内なる声が私に語りかけてい るのが聞こえた。『マーティン・ルーサーよ。公義のために立て。―――見よ、わたしはお前と共にいる。この世の終わりまで共にいる。』」(マルティン・ ルーサー・キング『真夜中に戸をたたく』より)

 「アバ、神よ」と神を呼ぶ、すべてはそこから始まります。そのとき、この「アバ」である神がわたしの「隣人」として出会わせてくださった人々が見えてき ます。そこから「アバなる神」が愛をもってお創りになったこの世界へと出て行けるのです。そして「来たるべき日」を目指す私たちの歩みの中で、すべての働 きと道はこの一つへと導かれるのです、「アバ、神よ」。神は答えてくださるのです。「子よ、私はここにいるよ、あなたの声はちゃんと聞こえているよ。」 (ロン・メル『夜も働かれる神様』より)

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 以前まで、私たちの「からだ」、生き方、歩みは、「肉と罪と死」によって縛られ、囚われ、引きずられていました。しかし、その私たちのためにあなたは救 い主イエス・キリストを送られ、私たちに新しい命を与え、「信仰と希望と愛」に生きる道を開いてくださいました。この道を歩みつつ、「来たるべき日」を目 指して、私たちは歩み続けます。この道の上で、私たちはただ一つ、「アバ、神よ」とあなたを呼びます。
 どうか、私たちの呼びかけを聞き、私たちの祈りにお答えください。私たち一人一人と教会を「死ぬべきからだ」から生かして、あなたのものとして守り、導き、お用いください。私たちを、あなたの「信仰・希望・愛」を表し、行い、証しする者としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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