わたしの言葉は滅びない        マルコによる福音書第13章9〜13、24〜33節
              

 「来たるべき日」、それはイエス・キリストが再び来られる日です。神の国が来たり、新しい天と新しい地が完成する日です。その日を、私たちはど のように待つのでしょうか。その日を待つ間に、私たちは何を経験することになるのでしょうか。また、その「日」までの道、過程で、私たちはどう生きるので しょうか。
 主イエスは、たびたび、ご自身が歩むことになる「十字架の道」を語られましたが、弟子たち、また私たちの、その「日」を待つ道もまたたやすいものではあ りません。(今日の箇所13章は長いので、抜粋して読んでいただきましたが、実際は13章全体を見ていただきたいと思います。)この13章の前半で、弟子 たちの質問に答える中で、イエスは私たちの前にもある、その「来たるべき日」を待つ間の、様々な苦難について語り、教えておられます。
 まず、「惑わし」があるだろうと言われます。「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう」。「私こそキリ スト、世を救う者だ」ということでしょう。この「惑わし」こそ、一番迷惑な話です。私たちにとって、キリストへの信仰こそが、私たちの生きる中心であり力 であると思っているのに、そこを「惑わし」、混乱させ、揺さぶってくる。それは、「人に惑わされないように気をつけなさい」とあるように、「人」の言葉や 「態度」や「生き方」によって「惑わし」は来るのだ、ということだと思います。このような時代や状況の中では、人の言葉や態度や生き方は消極的になり、悲 観的になり、閉鎖的になります。新聞やテレビなどで多く見聞きする言葉にこんなのがあります。「閉塞感」、「厳しい世の中」、「こんなご時世」。あるいは また熱狂的になり、強圧的になり、他者を排除するようになります。「こんな時に、何をのんきな、優しいことを言っているのか。そんなことでは、乗り切れな いぞ」。
 さらに具体的には、「戦争」が起こり、「ききん」に代表される災害が起こるであろうと言われます。これらは、広い意味で、人による災害「人災」です。い わゆる「自然災害」も、人間の罪と身勝手によって、社会の不公正と無慈悲によって、その被害はいっそう増大し、特に弱い人たちに「しわ寄せ」としての苦難 を強いるものとなります。
 「人による災い」は、よりいっそう鋭い形で起こります。国家権力による迫害です。「あなたがたは、わたしのために、衆議所に引き渡され、会堂で打たれ、 長官や王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。」それを受けて、社会の人々の間での信頼関係が崩され、相互不信と裏切りがはびこ るようになります。「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。」「また、あなたがたはわたしの名のゆえ に、すべての人に憎まれるであろう」とまで言われます。マタイの福音書は、これを「人々の愛が冷えるであろう」と表現しています。
 これらをまとめて、「かつてなく今後もないような患難が起るからである」と言われています。私たちもまた、この長らく続く疫病の苦難の中で、これらのことを、「まだまだ」かもしれませんが、感じ取っていると思います。

 皆さんは、この章を読まれて、どんな感想、イメージをお持ちになるでしょうか。「わあ、大変だ」と思われるでしょうか。実は私はここを読むと、「動と 静」ということをイメージさせられるのです。「動と静」。当然ここには、「揺れ動くもの」があります。苦しみと恐れの中で、激しく揺れ動く世界。また、そ れによって激しく揺り動かされ、惑わされて、激流の渦の中へと流され、引きずり込まれて行く、私たちの心と体と生き方。しかし、そのただ中にあって、「静 かなるもの」がここにはあるのです。その「揺れ動くもの」のただ中にありながら、静かで「揺れ動かないもの」が、ここにはあるのです。目立たないけれど、 しかしはっきりと、その「揺れ動かないもの」が、しっかりと立っているのです。
 それは、主イエスの言葉、イエス・キリストの約束です。それは、大量の土砂の中で、わずかに光る砂金か宝石のように、全面に塗りつぶされたようなこの苦 難のただ中で、「キラッ、キラッ」と輝きながら、私たちにその輝きと光を示すのです。イエスは、何よりの約束として、「こうして、福音はまずすべての民に 宣べ伝えられねばならない」と言ってくださいます。「福音が、よき知らせが伝えられる」というのです。どんな状況に、どんな人々に? それは今まで見てき た、この恐るべき、おびただしい、激しく深刻な苦しみ・危機の中にある人々に、ということです。「人々の愛が冷えた」現実のただ中に、「神は愛である、神 はひとり子を賜ったほどに世を愛された」という福音が、すべての民に宣べ伝えられる、というのです。しかも、それは「ねばならない」と言われています。こ れは、「絶対的な神の意志と業である」ということです。神ご自身が、「こんなご時世に」先頭に立って、「よき知らせ」「慰めと解放の知らせ」を伝え、実行 していてくださる、そしてこの「知らせ」は「必ずすべての人々に伝えられ、与えられるのだ」と言われるのです。さらに、「伝えられる」と言われます。「自 動的に」伝わるわけではありません。もちろん神ご自身が第一に働かれます。しかしまた、その「証し」のために、「あなたがたが立たされ、用いられる」と 言っておられるのです。私たちには、「来たるべき日を待つ」間に、するべきことがちゃんとあるのです。その神の働きのために、私たち一人一人が用いていた だけるのです。「証し」とは、この「よき知らせ」を言葉で語り、また「仕える行い」で示し、表していくことだと思います。
 このことが必ずあり、必ず起こるから、「心配するな」と主は言われます。「何を言おうかと、前もって心配するな」。別の訳では、「取り越し苦労をする な」です。「こんなご時世」には、「取り越し苦労」ばかりをしがちです。「こうなったらどうしよう。こう言われたら、どうしよう。」そんな心配は一切しな くてよいとまで、主は請合ってくださるのです。「その場合、自分に示されたことを語るがよい。」「語る」だけでなく、「するがよい」と読んでもよいでしょ う。「語る者はあなたがた自身ではなく、聖霊である。」神様が、あなたがたにすべきこと、語るべきことを与え、語らせ、させてくださるから、信頼してつい て行けばよい、何も心配はいらない!
 また、「耐え忍ぶ者は、救われる」、「神は、苦しみの期間を縮めてくださる」と言ってくださいます。この苦難の末に、「人の子キリスト」は、「地のはて から天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」と言われます。神は、「地のはて、天のはて」であろうと、ご自身の者たち、神に愛されている者 たちを知っている、彼らを常に見ておられる、だからこそ「終わりの時に、キリストは彼らを集めることができるのだ」と言われるのです。そして結論として、 「これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」と、言われます。「あなたがたの救いは近い、解放の日は近い、それはすぐ そばまで、『戸口まで』来ているのだ。」

 そして、主イエス・キリストは、これらの言葉の総まとめとして、こう語り、こう約束してくださいます。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅 びることがない。」「天地」は、この世界は、その中にあるすべての物事は、移り変わり、衰え弱り、滅び去って行くのです。またそこに生きるすべての者たち は、私たち一人一人もまた、それと共に移り、変わり、ついには「滅び」て行くのです。しかし今まで見てきたように、激しく揺れ動き滅び行くその世界と歴史 のただ中にあって、「静かで動かないもの」がある、静かにきらりと光るものがある、決して変わらず滅びないものがある。それは、「イエス・キリストの言 葉」です。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」
 「わたしの言葉」、イエス・キリストの言葉。それは、イエスの生涯を通して、そのすべてを通して、「体と血」とをもって全身全霊をもって語られた言葉で す。神の愛と真実の言葉。世とそのすべての人を激しく深く愛するがゆえに、ひとり子をすら罪と悪の世に送り出した、神の愛の言葉。罪の世にあって苦しみ嘆 く私たち一人一人と共にあって、彼らを助け、それらすべての人の罪を引き受け担いながら、苦しみの道を十字架にまで歩み通した、イエス・キリストの愛の言 葉。それゆえにこそ、神の力によって、死の中から起こされ復活させられた、神の愛の勝利の言葉、復活の言葉。この言葉、このイエス・キリストの言葉こそ滅 びない、決して滅びないのです。この言葉こそ、決して滅びず、この苦難の時代のただ中で、激しく揺れ動く世界にあって、私たちをしっかりとつかまえ、支え て、私たちの心と体と生き方をしっかりと守り、導き、さらには「神の福音がすべての人に宣べ伝えられるために」、私たちをも用いてくださる恵みの言葉なの です。

 東日本大震災で被災し支援を受けられた方の証しを読みました。「亀山夫妻は、九州からの支援物資に助けられている感謝を述べるとともに、その物資に添え られた一通の絵手紙を見せてくださいました。巻物のような手紙には、クリスマスローズの絵があしらわれ、墨字『生きていれば、きっと笑える時が来る』と書 かれていました。亀山夫妻は、震える手で手紙を見せながら、『私たちは、今回の津波ですべてを失いました。でも、今日はこのことばで生かされているんで す』と語られました。―――あのとき、蛤浜の人々を支えたもの、すなわち『もう一度生きよう』と人々を立ち上がらせたものは何であったのか、それは『こと ば』だったのです。自分のことを心配し、思っていてくれる人の『ことば』が、あの日、確かに浜の人々を生かしていました。―――草木は、水と太陽が育てて くれます。一方、人を生かすものは、『ことば』です。『初めにことばがあった』。それは、『どんなことがあっても、わたしはあなたを愛している』という神 様の言葉が私たちの前に存在することを示します。そして、そのことばは肉体となり、私たちのうちに宿り、救い主イエス・キリストとなった。」(奥田知志 『いつか笑える日が来る』より)

 だからこそ、主イエスは私たちに、はっきりと具体的に教え、命じてくださいます。「あなたがたは自分で気をつけていなさい。」「気をつけて、目をさましていなさい。」いったい何に「気を付け、目をさましておれ」と言われたのでしょうか。
 一つは、何より「神の愛に」ということだと思います。「神に愛にこそ、気をつけ、目をさましておれ」。この苦しみに揺れ動き、惑わしが絶えず私たちを揺 さぶり誘い、また国家権力と社会の人々が私たちを激しく問いかけ、ついには私たちを捕え、苦しめ、迫害していくようなこの世にあっても、「神の愛を決して 忘れてはいけない」。いつも、「神の愛」が私たちを守り、助け、用いてくださる、この愛こそは最後に勝利と栄光へと至ることを、決して忘れず、いつも気を つけ、目覚めていなさい。
 そしてもう一つは、「隣人の、人々の苦しみと、その必要とに」ということであろうと思います。「大変な世の中だ」、だからもう「自分が精一杯」になって しまって、「人々の苦しみや困難また必要は知りません」ではなくて、キリストは常に共にいまし、神の愛は私たちを助け、ついには勝利へと至るのだから、 「福音はすべての民に宣べ伝えられねばならない」のだから、私たちもまた「隣人の苦しみと必要」に対して、いつも気をつけ、目覚めておれ、と言われるのだ と思います。主は、私たちを「門番」また「家の僕」に例えておられるからです。
 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」これこそ、「来たるべき日」を待ち望んで歩む、私たちの「足のともしび、道の光」(詩篇119・105)なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべてのものの神、御子イエス・キリストを死の中から起こし復活させられた神よ。
 私たちの生きるこの世界は絶えず揺れ動き、惑わしに満ち、苦しみ、うめいています。しかし、そのただ中へとあなたは、救い主イエス・キリストを送り、あ なたの決定的な言葉、愛と真実と命の言葉を語られました。あなたは余すところなくそれを語り、私たちはそれを聞くことがゆるされました。「わたしの言葉は 決して滅びることがない。」
 どうか、今も語られているこの言葉を、私たち一人一人また教会もまた聞くことができますように。日々に、週ごとに、またいつまでもずっと聞き続けること ができますように。それによって絶えず、あなたの愛と隣人の必要に気をつけながら、目覚めつつ、証しと奉仕と宣教に生かされ、生きて行くことができますよ うに。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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